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第24話 兄弟の違い

那古野城の朝は、日によってずいぶん違う顔を見せる。


吉法師が庭で木刀を振り回している日は、朝のうちから城全体が妙にざわつく。

平手政秀の怒鳴り声がどこかで響き、小姓たちは慌てて走り、若侍たちは「またか」と苦笑しながらも、どこか気を張る。

だがその朝は、そうした騒ぎのない分だけ、城の空気がよけいに澄んでいるように感じられた。


廊下はきれいに拭き上げられ、庭の白砂には朝の光がやわらかく落ちている。

女中たちは静かな足取りで盆を運び、若侍たちは槍や弓の点検を終えて持ち場へ散っていく。

その流れの中に、ひとつだけ、ひどくなめらかに馴染んでいる人影があった。


勘十郎である。


まだ幼いとはいえ、着物の乱れもなく、足の運びにも無駄がない。

廊下で出会った年配の家臣にはきちんと立ち止まって頭を下げ、小姓が持つ荷が重そうなら自然に手を貸し、女中が慌てて道を譲ろうとすれば「構わぬ、ゆっくりでよい」と柔らかく言う。

その一つ一つは、ことさら目立つ行いではない。

むしろ、よく見ていなければ通り過ぎてしまう程度のことばかりだ。


だが、人の心というものは、そういう細かなところで少しずつ傾いていく。


「勘十郎様は、よう気がつかれる」


廊下の端で、年配の女中が小声でそう言うと、隣の若い女中もそっと頷いた。


「怒鳴ったりなさいませんし」


「お顔を見れば、ほっといたします」


女たちの言葉は軽いようでいて、城の中では侮れない。侍の口から出る評判と、台所や廊下や奥向きで囁かれる評判は、別の流れで人の印象を固めていくからだ。


勘十郎は、そうした声が自分に向いていることを、まったく知らぬわけではなかった。だが、それを喜んでいるようにも見えない。

ただ、そうあろうとしているだけに見える。

誰かの機嫌を取るためではなく、自分の前を通る人が少しでも穏やかでいられるように、無意識に振る舞っているようなところがあった。


その日の朝も、勘十郎は広間へ向かう途中、盆を抱えた小姓が敷居に足を取られるのを見て、すっと手を伸ばした。


「危ない」


椀がひとつ傾きかけたが、落ちはしない。小姓は青ざめた顔のまま深々と頭を下げた。


「も、申し訳ございませぬ」


「怪我がなくてよかった」


勘十郎はそう言って微笑む。


それだけのことだった。


だが、少し離れたところからその様子を見ていた若侍の一人が、ぽつりと漏らす。


「やはり、勘十郎様は違うな」


「うむ」


別の者も頷いた。


「自然と人が従いたくなる」


「兄上とは、まるで別だ」


その“別”という一言に、何とも言えぬものが滲む。


その頃、吉法師はといえば、城の裏手にある小さな庭で、木の枝を拾って地面へ何かを書きつけていた。


先日の鉄砲の話から、彼の頭の中ではまだ何かが続いているらしい。

地面には線や丸や矢印のようなものがいくつも描かれ、それを見ていた若侍が半ば呆れ、半ば興味を引かれた顔をしている。


「吉法師様、それは何でございます」


「兵の置き方だ」


「また戦の話ですか」


「また、とは何だ。昨日思いついたことを、今日忘れるのは阿呆だろう」


その言い方が、また人を選ぶ。


悪意はない。

だが、言われた相手は「己を阿呆と言われた」と感じる。

吉法師はそこで言葉を飾らない。

いや、飾るという発想そのものが薄いのかもしれない。

礼より本音、形式より中身。それ自体は彼の強さでもあるが、同時に、周囲にとっては付き合いづらさの原因でもあった。


「その枝ではなく、筆で書かれては」


と若侍が恐る恐る言うと、吉法師は顔も上げずに返した。


「筆では遅い」


「ですが、地面では消えてしまいます」


「消える前に覚えればよい」


「それは……」


「どうせ筆で書いても、読めぬ者は読めぬ」


若侍は口を閉ざした。


吉法師の言うことには理がある。あるのだが、その理をそのまま口にされると、たいてい誰かが傷つく。

そこを丸くしない。

いや、丸くせねばならぬと感じていない。

だから誤解を招く。


その様子を、廊下の陰から勘十郎が見ていた。


兄は今日も兄だった。


誰に媚びるでもなく、誰を怖れるでもなく、見えたものをそのまま口にし、思いついたことをその場で形にする。

その自由さと、まるで周りの空気を気にせぬ鋭さを、勘十郎は幼い頃からずっと見てきた。


そして、嫌いではなかった。


むしろ、うらやましいと思うことさえあった。


自分は人に合わせる。相手の顔色を見る。

言葉を選ぶ。波が立たぬように振る舞う。

そうして場が穏やかになることも知っている。だが兄は違う。

穏やかさの代わりに、まっすぐ進む。

人が驚こうが怒ろうが、自分が正しいと思った道をそのまま歩いていく。その在り方を、勘十郎は密かに強いと思っていた。


ただ――


それゆえに、兄が孤立していくのを見るのはつらかった。


勘十郎は、兄が嫌われているとは思っていない。

嫌う者もいるだろうが、同時に惹かれる者もいる。

ただ、誤解されることがあまりに多いのだ。

兄は人を見下しているのではない。

ただ飾らぬだけだ。

だが飾らぬ言葉は、ときに相手の胸へそのまま刺さる。

兄はそれをあまり怖れていない。

あるいは怖れていても、引っ込める方を嫌うのかもしれない。


「兄上」


勘十郎が声をかけると、吉法師はようやく顔を上げた。


「おお、勘十郎か」


「何をしておられるのです」


「敵を詰まらせる道を考えておる」


勘十郎は地面を見た。線がいくつも走り、何やら難しげな図になっている。


「……よく分かりませぬ」


「分からぬなら、まだ見方が足りぬ」


吉法師はそう言って笑う。


普通なら、少し刺のある言い方だ。だが勘十郎には、それが兄なりの「もっとよく見ろ」という意味だと分かる。だから傷つきはしない。しないのだが、周りの者にはきっとそうは伝わらぬだろう、とも思った。


「父上が、後ほど顔を出せと仰せでした」


「またか」


「また、とは」


「顔を出せば、平手があれこれ言う」


「それも兄上を案じてのことです」


「知っておる」


吉法師は枝を放り投げ、膝についた土を払った。


「だが、あれは案じすぎだ」


勘十郎は少し困ったように笑う。


「兄上が案じさせるのです」


吉法師は一瞬だけ目を細め、それからふっと笑った。


「おぬしは本当に、言い方が柔らかいな」


「兄上ほど真っ直ぐではないだけです」


「それを世では遠回しとも言う」


「兄上ほど近道では、崖へ落ちます」


その返しに、吉法師は声を立てて笑った。


こういう時だけを見ると、二人の間には何の陰もないように見える。

実際、まだ憎しみはない。

兄は弟を疎んでいないし、弟も兄を嫌ってはいない。

ただ、周囲の者たちがその関係を別の目で見始めているのだ。


その日の夕刻、廊下の端で二人の若侍が囁き合っていた。


「勘十郎様は、本当にようできたお方だ」


「うむ。兄上とは違って安心できる」


「吉法師様は、何を考えておられるか分からぬ」


「だが勘十郎様なら、家中を穏やかにまとめられよう」


その会話を、障子の向こう側で平手政秀が聞いていた。


聞くつもりで聞いたわけではない。

廊下を曲がった先にたまたまその声があっただけだ。

だが、今の那古野城では、こうした囁きがもう珍しくなくなっている。


弟の方がまともだ。

弟の方が当主向きだ。

兄は才があっても危うい。


そうした噂は、誰か一人が悪意をもって流しているわけではない。

むしろ皆がそれぞれ少しずつ同じ印象を抱き、それが自然に重なって、噂の形になっていくのだ。

だから厄介だった。止めようにも相手がいない。

人の心そのものが、ゆっくりそちらへ傾いている。


政秀は、静かに目を閉じた。


勘十郎が礼儀正しく、穏やかで、人に好かれる器であることは事実だ。

吉法師が鋭く、自由で、だが誤解を招きやすいことも事実だ。


そして、どちらの事実も、兄弟そのものの善悪ではない。

ただ、周りがその差へ意味をつけ始めている。


その夜、勘十郎は一人で部屋へ戻る途中、ふと足を止めた。


庭の向こう、月の下で、吉法師が一人立っていたからだ。


何をしているのかと思えば、昼間の図を今度は庭石の配置で再現しているらしい。

月明かりの下で、石をずらし、木の影を見て、ひとり何かを考え込んでいる。

こんな時間まで、まだ戦の形をいじっているのだ。


勘十郎は少し離れたところから、その背を見た。


兄は、誰にも似ていない。

父とも違う。

家臣たちとも違う。

そして、自分とも違う。


だからこそ、人が怖れるのだろう。

だからこそ、人が惹かれるのだろう。


「兄上」


心の中でそう呼びかけながら、勘十郎は小さく息を吐いた。


兄を嫌ってはいない。

嫌うどころか、尊敬しているところすらある。

だが、兄のようにはなれないことも分かっている。


そして何より、自分が人に好かれるたび、兄から何かを奪っているような気がするのがつらかった。


そのつらさを、周りは誰も知らない。


周囲の目には、礼儀正しい弟と、変わり者の兄がいるだけだ。

その間にある微妙な思いなど、誰も見ようとしない。

見ようとする前に、勝手に線を引いてしまう。


政秀はその夜、自室でひとり書き物をしながら、ふと筆を止めた。


庭では虫が鳴き始めている。夜の那古野城は静かだが、その静けさの中で、見えぬものばかりがじわじわと形を持ち始めていた。


兄と弟。

まだそこに憎しみはない。

争いもない。

だが周囲は、もう二人を別々の道へ立たせるつもりで見ている。


「……人は、早すぎる」


政秀は小さく呟いた。


答えが出る前に、答えを欲しがる。

人の心は、誰かが決める前に勝手に傾いていく。


夜風が障子をわずかに揺らす。


月の下では、吉法師がまだ石を動かしている。

その少し離れた廊下の陰では、勘十郎が一度だけ兄の背を見て、それから静かに踵を返した。


那古野城の夜は深かった。

だが、兄弟の間に引かれ始めた線だけは、月の光の中でやけに白く見える気がした。

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