第23話 戦国の未来
那古野城の広間には、午後の光が斜めに差し込んでいた。
障子越しの陽はやわらかいのに、その場に集められた家臣たちの空気はどこか硬い。
つい先日まで兄弟のこと、民との距離のこと、家中のあり方のことでざわついていた座敷である。
表向きは静まっていても、一度立った波はそう簡単には消えない。
誰もが相手の顔色を見ているし、誰もが自分の胸の内を半分は隠している。
そんな中、吉法師は珍しく広間の中央へ進み出ていた。
いつものように落ち着きなく歩き回っているのではない。
庭先でも城下でもなく、家臣たちが並ぶ前へ、自分から出てきたのである。それだけで何人かの武士は眉をひそめた。
どうせまた妙なことを言い出すのだろう、という予感があった。
実際、その予感は外れなかった。
吉法師は広間の端に置かれていた小さな炭入れの前へしゃがみ込み、傍らに用意してあった紙包みを手に取った。
鍛冶屋から分けてもらった炭の粉と、薬売りから聞き出した火薬の原料について、朝から平手政秀を煩わせていたことを知っている者は少ない。
政秀は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
止めようと思えば止められた。だが、止めたところで別の場所で勝手に試すのが吉法師である。
ならばまだ、目の届くところでやらせた方がよい。
そう判断した時点で、すでに教育係として半分負けている気もしたが、それでも放っておくよりはましだった。
「何をなさるおつもりです」
年配の家臣が、あからさまに怪訝そうな声で言った。
「火を見る」
吉法師は答える。
「火は見れば分かるだろう」
「ただの火ではない」
そう言って、吉法師は炭火のそばへ紙包みの中身を少し落とした。
政秀がすぐ横へ控えていた若侍へ目配せし、用心させる。
火に粉が落ちた瞬間、ぱち、と鋭い音がして、小さな火花が弾けた。
たったそれだけのことである。だが、広間にいた者たちは思わず身を引いた。
「これは何でございます」
「火薬の気配だ」
吉法師は、まるで当たり前のように言った。
「南蛮の鉄砲には、これがいる」
ざわり、と広間が揺れた。
鉄砲。
その言葉自体は、すでに珍しいものではなくなりつつあった。
種子島へ渡来してからまだそれほど年は経っていないが、噂は尾張にも届いている。
南蛮の棒火矢だの、雷を吐く筒だの、口さがない言い方は様々だ。実際に目にした者はまだ少なくとも、「鉄の筒から火と鉛が飛び、人を貫く」という話は、武士たちの耳にも入っていた。
ただ、それを子供が、しかも嫡男が、家臣の前で嬉々として口にするのは別の話だった。
「また、そのようなものを」
と、古参の家臣が不快そうに言う。
「弓馬こそ武士の華にございますぞ」
その言葉には、広間の何人かが頷いた。
武士は馬に乗り、弓を引き、槍を構え、刀で斬る。その技にこそ誇りがある。鉄の筒ひとつで遠くから撃ち抜くようなものに、どこまで価値を認めてよいのか、古い武士ほど感情が追いつかないのだ。
だが吉法師は、そこで怯まなかった。
「華では勝てぬ」
あまりにもあっさり言い切ったので、広間の空気が一瞬凍る。
その家臣の顔が赤くなるのが、誰の目にも分かった。
「何と申された」
「華では勝てぬ、と言うた」
吉法師は繰り返す。
「華があれば腹がふくれるのか。華があれば馬が倒れぬのか。華があれば、三倍の兵を相手に勝てるのか」
その物言いに、何人かは顔をしかめ、何人かは黙り込んだ。
政秀は心の中で頭を抱える。
言っていることは、間違っていない。むしろ、あまりに正しい。
正しいからこそ厄介だった。
武士の誇りを真正面から「役に立つかどうか」で斬ってしまう。
吉法師は、それを悪意なくやる。だから余計に敵を作る。
「吉法師様」
政秀が口を開いた。
「鉄砲の話は、まだ尾張では噂の域を出ませぬ」
「だから今のうちに考えるのだ」
吉法師は振り返ることもなく言う。
「来てから慌てても遅い」
そして、広間の中央へ歩み出ると、敷かれた畳の上を指でなぞるようにして座り込んだ。
「よいか」
誰にともなく、そう言う。
「戦は変わる」
その声は大きくはない。だが、この場にいる全員へ届く声だった。
「今までのように、広いところで兵を並べ、槍を突き合わせ、馬で駆けて押し切るだけでは済まぬようになる」
「なぜそう言い切れる」
若い家臣の一人が問うた。
吉法師は待っていたように、その問いへ向き直る。
「商人が言うた」
「商人が?」
「うむ。南蛮船は、物だけでなく、戦の道具も運んでくる。薬売りは火薬の噂を知っておった。鍛冶屋は鉄の細工の話をしておった。港へ近いところほど、そういう話が早い」
そこまで言ってから、吉法師は少しだけ目を細めた。
「戦の変わり目というものは、最初は武士より商人の方が早く嗅ぎつけるのだな」
その発想に、広間の多くはついていけずにいた。
普通の武士は、敵の兵数や槍の本数は気にしても、商人の耳に入る噂から戦の未来を読もうとはしない。
だが吉法師は違う。
戦を戦場だけで考えていなかった。
火薬がどこから来るか、鉄は誰が打つか、銭はどう動くか、人の口はどこを巡るか。
そういうもの全部を戦とひとつながりに見ている。
「もし鉄砲が増えれば」
吉法師は言う。
「兵の数だけでは勝てぬ」
「何を」
「数が多ければ、それだけ的も多い」
そこで、何人かの顔が変わった。
ただ奇抜なことを言っているのではない。考えれば理が通っている。
兵が密集して動けば、矢も石も火も当たりやすい。まして火薬を使う新しい武器なら、なおさらそうだろう。
吉法師はさらに続けた。
「だから、数より配置だ」
その言葉には、先日の戦場で砂の上へ描いた図の名残があった。
「どこに立つか。どこで待つか。どこへ誘い込むか。地形を見て、人を置く。多ければ勝つのではない。勝つように置いた方が勝つ」
今度は、広間の誰もすぐには反論しなかった。
老いた家臣の一人が、低く唸るように言う。
「それでは、戦がまるで算木のようではないか」
「そうだ」
吉法師は即答した。
「戦など、算木の大きいものだ」
その答えに、相手は絶句した。
武士にとって戦は、血であり、意地であり、武功であり、死に様である。
だが吉法師はそれを、どこまでも冷たく並べ替えようとする。
勝つために、置く。並べる。選ぶ。切る。
まるで三国志の軍師の話でも読んだ者のような目をしていた。
実際、彼はそうした書にも妙な興味を示していた。
諸葛亮が兵を動かし、曹操が兵糧を読み、韓信が背水に陣を敷く。そうした話を、ただ昔の英雄譚としてではなく、今ここで使える理として見ている節がある。
もっとも、本人は「面白いから読んだだけだ」と言うだろうが、その面白がり方が普通ではなかった。
「戦は、槍の長さだけでは決まらぬ」
吉法師は言った。
「鉄砲が増えれば、騎馬も変わる。火薬が増えれば、城の守りも変わる。兵が多い方が偉い時代は、いずれ終わるかもしれぬ」
その言葉に、広間の古参武士たちは露骨に戸惑った。
終わる。
今までの戦の理が。
今までの武士の誇りが。
そう聞こえたからだ。
「そのようなことが、本当に起こるとお考えか」
今度は勝家が、腕を組んだまま問うた。
吉法師は、その問いにだけは少し真面目な顔をした。
「分からぬ」
「分からぬのか」
「だが、変わる気配はある」
勝家は黙る。
それが勝家らしいと思った。頭ごなしに笑い飛ばさない。奇妙でも、理があれば一度は飲み込む。それができる男だ。
吉法師は、さらに畳を指先で叩いた。
「今は尾張に多くなくとも、南の港には新しいものが来る。商人はそれを嗅ぎつける。鍛冶屋は形にする。金を持つ者は集める。そうしているうちに、戦の形も勝手に変わる」
「ならば」
政秀が静かに言う。
「若殿は、その変わる前に備えよと仰せか」
吉法師はようやく政秀の方を見て、頷いた。
「そうだ」
その顔には、子供らしいはしゃぎはなかった。
「戦は始まってから考えるものではない。変わる気配があるなら、変わる前から見ておく」
政秀は、その言葉に背筋の奥が冷えるような思いがした。
この少年はたしかに時代に合っている。
いや、合いすぎている。
今まさに戦国が変わろうとしている、その薄い境目を、誰より早く踏んでいる。
武士の誇りも、民の暮らしも、商いの流れも、火薬の噂も、すべてを一つの大きな変化として見ている。
だが同時に、それは今の時代の武士にとってあまりに早すぎた。
古参の家臣たちはついていけぬ。若い者は面白がるが、怖れもする。政秀自身も、その才に震えながら、これでは敵が増える一方だと痛感していた。
「吉法師様」
先ほど怒った家臣が、なおも納得しきれぬ顔で言った。
「では、弓馬の道はもう要らぬと?」
「そんなことは言うておらぬ」
吉法師は少し面倒そうに答える。
「要る。だが、それだけでは足りぬ」
「……」
「古いものが全て駄目なのではない。新しいものだけでも駄目だ。勝つために、要るものを使えばよい」
それは、ひどく実際的な言葉だった。
理想でもない。
風雅でもない。
ただ勝つために、必要なものを見極める。
その発想こそが、今この広間にいる多くの武士には、もっとも馴染みにくいのかもしれなかった。
やがて、誰も何も言わなくなった。
賛同したわけではない。
理解しきれたわけでもない。
ただ、軽々しく笑うこともできなくなったのだ。
吉法師はその沈黙の意味を、完全には気にしていないようだった。
「まあ、よい」
そう言って立ち上がる。
「今はまだ少ない。なら少ないうちに考えておく。多くなってから慌てるのは阿呆だ」
広間の外から、風が吹き込んだ。
庭の松が揺れ、障子越しの光が少しだけ震える。吉法師はその光の方へ目を向け、何か遠いものを見るような顔をした。
「戦は、もっと面倒になるな」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
だがその一言には、不思議と胸を打つものがあった。戦を面白がっているようでいて、実はその先の厄介さまで見ている。単に新しいものが好きなのではない。変わることそのものを知っている目だ。
勝家が低く息を吐く。
「平手殿」
「何でしょう」
「若殿は、あれをどこで覚える」
政秀はしばらく答えなかった。
どこで覚えたのか。誰にも分からない。戦場か、城下町か、書の中か、人の顔の中か。
あるいはその全部かもしれない。
やがて、政秀はごく静かに答えた。
「覚える、というより……見えておるのかもしれませぬ」
勝家はそれ以上何も言わなかった。
広間に残った家臣たちの顔には、納得と反発が半ばずつ浮かんでいる。
若殿は才がある。だが、言うことが早すぎる。
今の世には合わぬ。あるいは、今の世の方が追いついておらぬ。そんな戸惑いが、誰の顔にもあった。
政秀はその空気を吸い込みながら、静かに目を閉じた。
時代に合った男。
だが、今の時代には早すぎる男。
それが吉法師なのだろう、と彼は思う。
そして、早すぎる者は、たいてい周りに理解される前に敵を作る。
そのことが、戦術の才よりも、政秀にはよほど恐ろしかった。
広間の外では、春から夏へ向かう風が吹いていた。
那古野城の空はまだ穏やかだったが、その穏やかさの下では、確かに時代が少しずつ形を変え始めていた。




