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第22話 武士の常識

那古野城の広間には、昼過ぎの光が静かに差し込んでいた。


障子越しの陽は白くやわらかいのに、部屋の空気は妙に固い。畳はきれいに整えられ、床の間には季節の花が一輪だけ活けられている。形だけ見れば穏やかな昼の座敷である。

だが、そこに座している家臣たちの顔つきには、朝から続く小さなざわめきの残りがあり、誰もが何か言いたくて、けれど最初の一言をためらっているようだった。


理由は明らかだった。


吉法師が、また城下だけでなく農村へまで足を運んだこと。

しかもそこで農民たちと話し込み、子供と木刀を振り回し、村の暮らしを見て回ったこと。

その一部始終は、半日も経たぬうちに城の中へ伝わっていた。


人の口というものは、城の塀より早く物を越える。


広間の上座には信秀はいない。今日は近臣たちが顔を揃え、若殿にそれとなく意見を申し上げる、という名目の場だった。

実際には、それとなくで済むかどうかは最初から怪しかった。


平手政秀は、座のやや上手に控えながら、心の中で小さくため息をついていた。


嫌な空気だ、と彼は思う。


正面きって叱責する場ではない。

だが叱責したい者は多い。説き伏せる場でもない。だが説き伏せねばならぬと考える者もいる。

そして何より、この場には吉法師本人がいる。本人がいる以上、話は理屈だけでは済まない。


当の吉法師は、そんな広間の空気をまるで意に介さぬ顔で座っていた。


座り方だけ見れば一応は整っている。だが、気を抜けばすぐにでも立ち上がって外へ飛び出しそうな落ち着かなさが、全身から漂っている。

目はまっすぐ前を見ているが、そのまなざしには「何を言われても聞く気はあるが従うとは限らぬ」とでも言いたげな光があった。


その隣から少し離れた位置には、勘十郎も座っている。


こちらは背筋も伸び、袖の置き方も整っていて、いかにも武家の子らしい落ち着きがある。同じ父の子でありながら、どうしてここまで違うのかと、広間にいる者は誰もが一度は思ったことがあるだろう。


やがて、年配の家臣の一人が咳払いをした。


「吉法師様」


「なんだ」


吉法師が視線だけを向ける。


その返事の軽さに、男はほんの少し眉を動かしたが、すぐに声を整えた。


「このたび、城外れの村まで足を運ばれたとか」


「うむ」


「しかも農民どもと親しく言葉を交わされたと聞きます」


「交わした」


男は一拍置いた。


そこまでは、まだ言葉を選んでいる。


「……恐れながら、少々近すぎるのではございませぬか」


広間の空気が少しだけ動く。


ついにその話が来た、と皆が思った。


吉法師は首を傾げた。


「近すぎる?」


「はい」


男は言う。


「若殿は織田家の嫡男にございます。殿様が民と馴れ合えば、威が落ちます」


その言葉には、古い武士の常識がまっすぐに乗っていた。


殿は上にあり、民は下にある。

距離があってこそ秩序は保たれる。

近づきすぎれば恐れが薄れ、恐れが薄れれば従わなくなる。


乱世を生きてきた者にとって、それは理屈というより肌で覚えた常識だった。


吉法師は男の顔をまっすぐ見た。


「威が落ちると、どうなる」


男は少し戸惑ったようだった。問い返されると思っていなかったのだろう。


「どうなる、とは……」


「威が落ちれば、何が困る」


「それは」


男は言葉を探した。


「民が侮ります」


「侮ると、何をする」


「何を……」


「米を作らぬのか」


その一言で、広間がぴたりと静まった。


吉法師は続けた。


「田を捨てるのか。年貢を出さぬのか。水路を壊すのか。こちらが一度話したくらいで、そこまで変わるものか」


男は言葉に詰まる。


吉法師は、さらに容赦なく重ねた。


「民がいなければ国はない」


その声は大きくなかった。だが妙に通った。


「武士だけで田は耕せぬ。武士だけで米は実らぬ。武士だけで町は立たぬ。なら、民を知らずして何を治める」


広間の中に、重い沈黙が落ちた。


誰もすぐには口を開けない。


吉法師の言い方は鋭すぎた。

だが、だからといって簡単に否定できるものでもなかった。

農民も町人も、武士にとっては支配されるべき相手であると同時に、国を支える土台でもある。

その土台をまるで見ずに上に立てると、本当に言い切れる者は少ない。


やがて別の家臣が、やや苛立った声で口を挟んだ。


「されど、あまりに近ければ、上下の別が曖昧になります」


「曖昧で困るのか」


「困りますとも!」


「なぜだ」


「武士は武士、百姓は百姓だからです」


吉法師は少しだけ考えるように沈黙した。


そして、ぽつりと言う。


「名が違うだけではないのか」


その言葉に、今度はあからさまに顔色を変える者がいた。


「吉法師様!」


平手政秀が、さすがに声を挟む。


吉法師は政秀を見た。


政秀は静かに、しかし強く言った。


「お言葉には理がございます。しかし、理だけで人は動きませぬ」


「知っておる」


「ならばこそ、家中の者が何を不安に思うかもお分かりください」


その声音には、叱責よりも願いが混じっていた。


吉法師はそれを感じ取ったのか、少しだけ目を細めた。


「不安、か」


「はい」


政秀は続ける。


「若殿が民の暮らしを知ろうとなさること自体は、必ずしも悪いことではございませぬ。ですが、それをそのまま表に出せば、古くからの武士どもは己の立つ場所が揺らぐように感じます」


「揺らぐなら、もともと弱いのだろう」


またしても真っ直ぐすぎる返しである。


広間の端で、低い舌打ちに似た息が漏れた。反発する者たちの顔は、今やかなりはっきりしている。

彼らにしてみれば、若殿は理を言っているのではなく、武士の積み上げてきた秩序そのものを軽んじているように見えるのだ。


その時だった。


「兄上」


勘十郎が、柔らかい声で口を開いた。


それだけで、広間の空気が少しだけ和らぐ。


勘十郎はゆっくりと吉法師の方へ向き直り、穏やかな顔で言った。


「兄上のお考えは分かります。民がいなければ国が立たぬのも、その通りでございましょう」


何人かの家臣が、ほっとしたような顔をした。


勘十郎は、こういう時に声の角を丸くするのがうまい。


「ただ、家中の者たちも、兄上を悪く言いたくて申しているわけではございません」


吉法師は黙って弟を見ている。


勘十郎は続けた。


「皆、織田家が揺れることを恐れているのです。兄上が民を思う心は尊いものですが、それが伝わる形でなければ、かえって誤解を招きます」


言葉の選び方が実に穏当だった。


兄を否定しない。

家臣も責めない。

その上で場を収める。


年若いのに、まるで大人の仲裁のようである。


広間のあちこちで、目に見えぬ安堵が走った。


「勘十郎様は、ようお分かりだ」


と顔に書いてある者さえいる。


吉法師はその空気を敏感に感じ取った。


弟は間違ったことを言っていない。むしろ正しい。

だからこそ、余計に腹立たしいわけでもない。

だが、こうして場が勘十郎の言葉で丸く収まっていくほどに、家臣たちの胸の中で「弟の方が当主向きではないか」という思いが強まっていくことも、吉法師には分かった。


「つまり」


吉法師がゆっくり口を開いた。


「わしが言いたいことを言うと、皆が困るということか」


勘十郎は困ったように微笑んだ。


「そうではなく、言い方というものが」


「言い方を変えれば、同じことでも聞くのだな」


「兄上」


「面白い」


そう言った吉法師の顔には、ほんの少し皮肉な笑みが浮かんでいた。


「同じことでも、勘十郎が言えば丸く収まる。わしが言えば波が立つ」


広間の空気がまた固くなる。


勘十郎が言葉を探しかけた、その時だった。


「それは……」


年配の家臣が、思わずといった口ぶりで言ってしまった。


「勘十郎様の方が、皆を安心させるからにございます」


言ってから、その男はしまったという顔をした。

だがもう遅い。


その一言は、広間にいた者の胸の内を、あまりにもそのまま形にしていた。


勘十郎が小さく息を呑む。

平手政秀の眉がぴくりと動く。

吉法師は、ただその家臣をじっと見た。


怒ったようには見えなかった。


むしろ、ああやはりそうか、と確かめたような顔だった。


「安心、か」


吉法師は小さく繰り返す。


それから、広間にいる家臣たちを順番に見渡した。

視線を受けた者は、思わず目を逸らしたり、逆に意地を張って見返したりした。


「よい」


吉法師は立ち上がった。


畳の上に落ちていた空気が、その動きだけでさらに張りつめる。


「なら、安心できる方へつけばよい」


「兄上!」


勘十郎が思わず声を上げる。


だが吉法師は弟を見ず、広間の入口の方へ歩き出した。


「民がいなければ国はない。それだけは変わらぬ」


振り返りもせずにそう言う。


「武士の威がどれほど立派でも、腹が減れば戦はできぬ。田が荒れれば城も痩せる。そこを見ぬ者が多いなら、見えるようになるまで言うだけだ」


そのまま障子の前で立ち止まり、わずかに顔だけを向けた。


「勘十郎」


「……はい」


「おぬしは優しいな」


勘十郎の胸が小さく揺れる。


それが褒め言葉なのか、そうでないのか、一瞬では分からなかった。


吉法師はそれ以上何も言わず、障子を開けて広間を出ていった。


後には、妙に重い沈黙だけが残った。


誰もすぐには口を開けない。


先ほどまで兄の言葉に反発していた者たちも、勘十郎の穏やかさに安堵していた者たちも、今はそれぞれ別の思いで黙っている。


やがて、勘十郎が静かに頭を下げた。


「兄は、少し……言葉が真っ直ぐすぎるのです」


その声音には、本心から兄をかばいたい気持ちがあった。


だが、それさえも逆効果だった。


広間の者たちはその優しさを見て、さらに思ってしまうのだ。

やはり弟君の方が、家を背負うには向いているのではないか、と。


平手政秀は、その空気をはっきり感じていた。


兄の正しさ。

弟の穏当さ。


それぞれが別の仕方で人を引きつけ、別の仕方で人を割っていく。


そして、もっとも厄介なのは、そのどちらも嘘ではないということだった。


政秀は深く息を吐き、勘十郎に言った。


「勘十郎様」


「はい」


「今日はもう、これまでにいたしましょう」


勘十郎は静かにうなずいた。


家臣たちも、一人また一人と頭を下げて立ち上がる。

だが、その足取りは来た時より重い。場は一応収まった。収まったように見える。

だが実際には、何ひとつ収まってはいないことを、皆うすうす知っていた。


広間の外では、夕方の風が吹き始めていた。


那古野城の庭の松が揺れ、白砂の上の影が細かく震える。その揺れは小さい。だが、一度揺れ始めたものは、そう簡単には元へ戻らない。


平手政秀は、広間を出た後もしばらくその場に立ち尽くしていた。


弟の方が当主向き。

そんな印象を、今日この場は確かに強めた。


しかも、それを作ったのは吉法師の無礼だけではない。

勘十郎の穏やかさもまた、その一因なのだ。


「……厄介だ」


政秀はごく小さく呟いた。


誰が悪いわけでもない。

だが、人の心はこうして勝手に傾いていく。


夕暮れの城は静かだった。

だが、その静けさの下で、兄弟をめぐる見えぬ線は、またひとつ濃くなっていた。

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