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第21話 尾張の民

那古野城の城下町を抜け、さらにその外れへ出ると、尾張の景色は急に広く、そして土に近くなる。


城の近くでは、人の声と物の流れが絶えない。商人が値を叫び、荷を引く牛が鼻を鳴らし、鍛冶屋の槌音がどこかで鳴り続けている。だが、ひとたび町を外れれば、聞こえてくるのは風の音と、遠くで鳴く鳥の声、そして水路を流れる水が土を擦る細い音ばかりだった。道は町中のように踏み固められてはおらず、昨夜の湿り気をまだ含んだ土が草履の裏へ重たく絡みつく。畦道の脇には背の低い草が群れ、田には浅く張られた水が鈍く空を映していた。


その道を、吉法師は一人で歩いていた。


正確には、一人で歩いているつもりでいるだけで、少し後ろには平手政秀がつけた若侍が二人、さらに離れたところには小姓が一人ついている。だが、それを知っていながら気にしていないのだから、本人の中ではやはり「一人」である。


今日は城下町ではなく、その先を見たかった。


人が物を売り買いする町の賑わいは面白い。だが、その賑わいがどこから来るのかを考えれば、米も、菜も、人の命も、結局は土の上から生まれてくる。そうであれば、城下を知るだけでは片手落ちだ、と吉法師は思った。


道の先に、小さな農村が見えてきた。


立派な門もなければ、板塀が巡らされているわけでもない。茅を葺いた家がまばらに建ち、その間を細い土道が縫い、水路が村をぐるりと囲むように走っている。家の前には薪が積まれ、干した菜が縄に吊るされ、犬が一匹、知らぬ者の気配に気づいて低く唸った。


村の入口で、腰の曲がった老人が鍬の柄に手をかけたまま顔を上げた。


「……おや」


その目が吉法師の着物と、後ろに控える侍たちの姿を見比べる。


明らかに村の者ではない。だが武装した兵が押し寄せてきたわけでもない。どこか拍子抜けしたような顔つきで、老人は首を傾げた。


「若殿様、ですかな」


吉法師は特に偉そうにもせず答えた。


「たぶん、そうだ」


老人は一瞬だけ目を丸くし、それから口の端を少し上げた。


「たぶん、とはまた変わった言いようで」


「わしより周りの方が、そう言いたがる」


その返しに、老人はくつくつと喉の奥で笑う。


その笑い方が気に入ったのか、吉法師も少しだけ口元を上げた。


「ここで米を作っておるのか」


「見れば分かりましょうに」


「分かるが、聞いた方が早い」


「はあ」


老人は鍬を肩へ乗せたまま、半ば呆れたように、半ば面白がるように吉法師を見た。


そのうち、近くの家から子供が二人、三人と顔を出した。見慣れぬ若殿らしき少年がいると知って、興味を抑えられなかったのだろう。裸足のまま道へ飛び出し、遠巻きにこちらを見ている。


一番年長らしい少年が、ぽつりと言った。


「殿様の子なのか?」


「そうらしい」


吉法師が答えると、子供たちは顔を見合わせた。


「変なの」


「何がだ」


「もっと偉そうかと思った」


「偉そうでもよいが、それで腹はふくれぬ」


そう返すと、子供たちは一斉に笑った。


その笑い声で、家の奥から女たちも出てくる。子を抱いた若い母親、手ぬぐいで手を拭きながら出てきた年嵩の女、桶を提げたまま立ち止まる娘。皆一様に警戒はしているが、吉法師が馬上の侍でもなく、怒鳴り散らす役人でもなく、妙に人懐こい顔で立っているのを見ると、どう接してよいのか分からなくなるらしかった。


吉法師は村をぐるりと見回した。


田はある。水も引かれている。だが豊かな村には見えない。家々は小さく、屋根の茅もところどころ薄い。畑の端には痩せた大根が並び、鶏の数も少ない。村そのものが、余分を持たぬぎりぎりのところで暮らしているように見えた。


「飯は食ったか」


唐突にそう聞いたので、老人が眉をひそめた。


「朝餉なら」


「何を食った」


「……何を、とは」


「飯だ」


老人は少し考え、それから正直に言った。


「粟に少し米を混ぜたものと、菜っ葉の汁です」


「米だけではないのか」


「毎日それが食えれば、ありがたい方ですわ」


老人はそう言って、変にへつらうでもなく笑った。長く土に向き合ってきた者の諦めが、その笑いにはあった。


吉法師は黙った。


城では毎日、飯が出る。白い米もある。汁も、魚も、時には肉も並ぶ。食う者たちがそれを当然と思っているわけではないが、それでも「無い」という感覚とはほど遠い。だがここでは違う。米を作る者が、米を思うまま食えぬ。


「年貢か」


吉法師が言うと、老人は少しだけ顔を曇らせた。


「それもあります」


「それも?」


「雨が続けば出来が悪い。日照りでも駄目。虫がついても駄目。うまく実っても、侍衆の戦があれば若い者が取られる。そうなると田を守る手が足りませぬ」


吉法師は視線を田へ向けた。


春の田は静かだ。だが、その静けさの裏には、人が足りるか足りぬか、雨が来るか来ぬか、それだけで飢えるか生きるかが分かれる危うさがある。


「若い者が取られる、とは」


「兵でございますよ」


今度は老人ではなく、女の一人が口を開いた。まだ若いが、頬は日に焼け、目の下には薄い影がある。幼い子を抱いたまま、遠慮する様子もなく続けた。


「戦があると言われれば、村からも男手を出さねばなりませぬ。戻る者もおりますが、戻らぬ者もおります」


その声には、恨みとまではいかぬが、乾いた苦さがあった。


吉法師は、その女をまっすぐ見た。


「夫か」


女は少しだけ目を逸らす。


「兄です」


「戻らぬのか」


「昨年のことです」


それ以上は語らなかったが、それで十分だった。子を抱く手つきが少しだけ強くなったのを見て、吉法師は何も言えなくなる。


戦は武士のものだと思っていた。

あるいは、そう教えられてきた。


だが実際には違う。


戦は百姓の田を荒らし、若い手を奪い、米を吸い上げ、残された者の口を細らせる。勝った負けたと城で語る頃には、村では次の種をどう残すかで頭を抱えている。


その時、足元へ小石がころりと転がってきた。


見ると、さっきの子供の一人が、吉法師の木刀へ興味津々の目を向けている。


「それ、本物か」


「木だ」


「振っていいか」


後ろの若侍が止めようとしたが、吉法師は先に木刀を差し出した。


「よいぞ」


子供は目を輝かせたが、実際に持たせてみると、思っていたより重かったらしい。ふらつきながら両手で持ち上げ、見よう見まねでぶんと振る。勢いはあるが腰が入っていない。木刀の先が土を叩き、子供は自分で驚いて尻もちをついた。


周りが笑う。


吉法師も笑った。


「それでは敵の前に行く前に転ぶ」


「じゃあ、どうするんだ」


「足だ」


吉法師は子供の前にしゃがみ込んだ。「腕より先に、足で立つ」


そう言って、自分で構えを見せると、子供たちは目を輝かせた。戦の理屈は分からなくとも、強そうに見えるものには心を奪われる年頃なのだろう。さっきまで遠巻きにしていた子らまで寄ってきて、吉法師の真似をし始める。


「こうか?」


「違う、そっちは腰が浮いておる」


「これでどうだ」


「それでは猪だ」


「猪でも強いぞ」


「強いが、すぐ突っ込んで終わる」


子供たちがまた笑う。村の女たちもつられて口元を緩める。さっきまで漂っていた重さが、少しだけ薄くなった。


その様子を見ていた老人が、鍬の柄を握ったまま苦笑した。


「変わった若殿だ」


「よく言われる」


吉法師は平然と返す。


「侍衆の子なら、もっとお高くとまっておるものかと思っておりましたがな」


「高くとまっても、田は実らぬだろう」


その返しに、老人は一瞬だけ目を見開き、それからまた笑った。


「違いない」


ひとしきり子供たちと騒いだあと、吉法師は村の水路沿いを一人で少し歩いた。後ろから若侍が気を揉んでついてくるが、黙っている。


水は細い流れを保っていたが、ところどころ泥が溜まり、手入れが足りていないのが見て取れる。人手が足りぬのだろう。田も、畑も、水路も、誰かが見ていなければすぐ駄目になる。国というものも同じなのかもしれぬ、と吉法師は思った。


ふと、以前読まされた書の一節を思い出す。


民は水なり。

君は舟なり。

水は舟を載せ、また舟を覆す。


政秀か、あるいは招かれた学僧か、誰が言ったかは曖昧だったが、たしか中国の古い教えだったはずだ。孔子そのものか、孟子か、そのあたりの話だったろう。吉法師は細かな出典までは覚えていない。ただ、その意味だけは妙に腹へ残っていた。


民がいなければ、武士など立っていられぬ。

舟だけ立派でも、水が荒れればひっくり返る。


「……舟、か」


そう呟くと、後ろにいた若侍が聞き返した。


「何でございます」


「いや」


吉法師は首を振った。


そしてそのまま、低く言う。


「武士の都合だけでは、国は持たぬな」


若侍は言葉に詰まった。


城に戻れば、この言葉を快く思わぬ者もいるだろう。実際、村へ来る道すがらも、侍のひとりは「若殿が百姓の暮らしなど見てどうするのです」とこぼしていた。武士は上であり、百姓は下である。その秩序があってこその国だ、と信じている者ほど、吉法師のこうした視線を危うく感じるに違いなかった。


村を出る前、老人が干した菜を少し包んで持たせようとした。


「何もない村でございますが、せめて」


「いらぬ」


吉法師は首を振る。


「持てば、そなたらの分が減る」


老人は少し驚いた顔をし、それから深くは言わずに包みを引っ込めた。


その代わり、ぽつりと呟く。


「若殿」


「なんだ」


「お偉くなられても、今日のことをお忘れなきよう」


吉法師はしばらく黙って老人を見た。


それから、いつものような軽い顔ではなく、少しだけ真面目な顔でうなずいた。


「ああ」


その返事は短かったが、嘘ではなかった。


村を離れ、再び城下へ戻る道を歩きながら、吉法師はずっと黙っていた。


城下では人と物が動く。

だが村では、その動きの元になるものが、もっと細く危ういところで支えられている。

戦は武士が起こす。

だが、その代価は武士だけが払っているわけではない。


三国志で読んだ国盗りの話も、ただ勇将が戦うだけではなかった。兵糧が尽きれば軍は止まり、民心が離れれば城は落ちる。劉備も曹操も、ただ剣の強さだけで覇を競ったのではないはずだ。封神演義のように仙人が空を飛ぶわけではないこの世では、なおさら地に足のついた米と人の方が重い。


「戦も、国も、腹の上に立っておる」


吉法師がぽつりと言うと、若侍はまた返答に困った顔をした。


だが、その言葉は本人の中ではもう動かしがたい実感になっていた。


那古野城へ戻る頃には、日が少し傾き始めていた。


門をくぐると、平手政秀が待っていた。案の定である。待っているというより、すでに怒る準備を終えている顔だ。


「吉法師様」


「なんだ」


「今度はどこまで行っておられたのです」


「村だ」


「村……」


政秀の眉間に深いしわが寄る。


「城下だけでは飽き足らず、ついに城外れの農村まで」


「見ておきたかった」


「何をです」


「国の土台だ」


平手政秀は一瞬、言葉を失った。


吉法師はそのまま続ける。


「田が駄目になれば、兵は飯を食えぬ。若い者が戦で取られれば、次の実りも減る。武士が勝った負けたと騒ぐ前に、村はそれで死ぬ」


平手は黙った。


その場には、いつの間にか何人かの家臣も集まり始めていた。若殿がまた何か妙なことを言い出したと察したのだろう。その中の一人が、小さく、しかし聞こえるように呟く。


「百姓に肩入れしすぎだ」


もう一人も低く続けた。


「嫡男がそこまで下々へ近づいては、家の威が損なわれます」


吉法師は、その声の方を見た。


目が合った家臣は、少したじろいだが、それでも視線を逸らさなかった。


「威で米が実るのか」


吉法師が言う。


「……は」


「威で水路が直るのか。威で死んだ男が帰るのか」


家臣は答えられなかった。


平手政秀は、その場の空気がまた危うくなるのを感じた。吉法師の言っていることには理がある。だが理があるからこそ、古い考えを持つ者たちは余計に腹を立てる。若殿が百姓の苦しみに理解を示すこと自体を、身分の揺らぎのように感じる者もいるのだ。


政秀は静かに言った。


「吉法師様」


「なんだ」


「お言葉は分かります。ですが、それをどう家の中へ通すかは、また別の話にございます」


吉法師は少しだけ考えた。


「なら、通るまで言う」


その返しに、政秀は深く息をついた。


やはり、この少年は人と同じ道を歩かぬ。


城の外で土と汗の匂いを嗅ぎ、そのままの言葉で城の中へ持ち込む。濁すことを知らず、飾ることも知らぬ。だから嫌われる。だが、そうであるからこそ見えているものもある。


夕方の光が、城の白壁を淡く染めていた。


村で見た田の水面。

抱かれた子の重さ。

戻らぬ兄を待つ女の声。

それらがまだ、吉法師の胸の中で静かに沈んでいる。


城の中では、すでに別のざわめきが始まっていた。

若殿は百姓に肩入れしすぎる。

嫡男があれでは家中が揺れる。

そうした不満が、水面下で少しずつ濃くなっていく。


だが吉法師は、そんな気配を知ってか知らずか、夕暮れの庭を見ながらただ一言、低く呟いた。


「国とは、面倒なものだな」


その言葉は、少年の愚痴のようにも、これから先の時代を見据える者の独り言のようにも聞こえた。

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