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第20話 父の評価

那古野城の奥にある一室は、昼の日差しがよく入るわりに、どこか薄暗く感じられる部屋だった。


広間ほど広くはない。だが、織田家当主がごく限られた者だけを呼んで話すにはちょうどよい広さで、障子の向こうには手入れの行き届いた庭が見えた。白砂の上には松の影が斜めに落ち、時折吹き込む風が葉先を揺らすたび、光と影の形が静かに崩れてはまた整う。城の中でも、この部屋には軍議とも私語ともつかぬ、曖昧で重い空気が漂うことが多い。


その日もそうだった。


部屋にいるのは、織田信秀と、数人の近臣だけである。


平手政秀。

柴田勝家。

ほか、信秀の代から仕える譜代の家臣が二、三人。


皆、畳に座してはいるが、くつろいではいなかった。誰もが肩にわずかな力を入れ、信秀がいつ口を開くかを待っている。こういう場では、何が語られるかそのものよりも、何が語られなかったかの方が、あとで重く響くことがあるからだ。


信秀は上座にどっかりと腰を下ろしていた。


今日の姿は鎧ではなく、家の中でのくつろいだ装いである。だが、その身のこなしや目の鋭さはやはり戦国武将そのもので、広い肩や太い首筋には、いまだ戦場へそのまま出られそうな力が残っているように見える。ただ最近は、以前よりも咳をする回数が増えた。近臣たちは誰もそのことに触れぬが、見ぬふりをしているだけで、気づいていない者はいない。


信秀はしばらく庭を眺めていたが、やがて鼻で小さく笑った。


「近頃、城の中が妙に静かだと思うておったが」


誰も口を挟まぬ。


信秀は盃を持ち上げ、少しだけ酒を口に含んでから続けた。


「静かに見えるだけで、水の下では皆よう動いておるらしいな」


その言い方に、部屋の空気がわずかに固くなる。


平手政秀が静かに頭を下げた。


「恐れながら」


「よい」


信秀は手を軽く振った。


「責めておるのではない。家の中がざわつくのは、まあ、当然のことでもある」


当然。


その一言の重みが、この部屋にいる者にはよく分かった。


信秀の身に何かあれば、織田家の次をどうするかという話になる。嫡男は吉法師、だが次男の勘十郎もまた家中の評判が良い。家臣たちがそれぞれ胸の内で何を思い始めているか、当主たる信秀が気づいていないはずもなかった。


しばしの沈黙のあと、信秀は自分からその話題に踏み込んだ。


「吉法師のことを、どう思う」


あまりにも真っ直ぐな問いである。


年配の家臣が、一瞬だけ困ったように目を伏せた。こういう問いは最も答えにくい。正直に答えれば角が立つ。取り繕えば、信秀の前ではすぐ見抜かれる。


だが答えぬわけにもいかない。


「……恐れながら、変わったお方にございます」


信秀は笑った。


「変わり者、か」


「は」


「うむ」


信秀はそれを否定しなかった。


むしろ楽しそうですらあった。


「吉法師は変わり者だ」


あっさりそう言い切ってから、信秀は庭へ視線を戻した。


「人の言うことを素直に聞かぬ。礼の形に収まらぬ。武士らしくあれと言えば町へ出ていく。坊主の説法を聞けと言えば木刀を振り回す。平手の頭を悩ませるために生まれてきたような小僧だ」


勝家の口元がわずかに緩み、政秀は困ったように咳払いをした。


「殿」


「違うか、平手」


「……違わぬところもございます」


それを聞いて、信秀は声を上げて笑った。


その笑いは豪快だったが、単なる面白がりではない。息子の手に負えなさを楽しみつつも、その内側に何かを見ている者の笑いだった。


やがて信秀は笑みを収め、少しだけ声を低くした。


「だが、あれは人と同じ道を歩かぬ」


部屋の空気が変わる。


先ほどまでの軽口とは違う調子だった。


「人と同じ道を歩かぬ者は、たいてい面倒だ。家の中では煙たがられるし、古い頭の者には嫌われる」


信秀はそう言って、ゆっくりと政秀を見た。


「だが、だからこそ面白い」


平手政秀は、その言葉を聞いてわずかに目を伏せた。


自分と同じことを、信秀も見ているのだと分かったからだ。


吉法師は、扱いやすい器ではない。穏やかに人をまとめるという意味では、むしろ不向きだろう。だが、あの目。あの戦場を見る目、人の心や物の流れに向く目は、平凡な嫡男にはまず備わらぬものだ。信秀もまた、それを感じ取っている。


「先日の戦の見方もそうだ」


信秀が言う。「あれは誰に教わったわけでもあるまい」


「はい」


政秀が答える。


「自ら見て、自ら考えておりました」


「商いの話もしたそうだな」


「はい」


「民のことも見ておる」


「はい」


信秀は小さく頷いた。


「武士の子のくせに、戦だけでは足りぬと知っておる。あれは、妙なものを見て育っておるわ」


その“妙なもの”が何なのか、信秀自身にもまだ形にはなっていないのだろう。ただ、それが従来の武士のものではないことだけは、よく分かっている。


そこで、勝家が低く口を開いた。


「勘十郎様は、また別の良さをお持ちです」


信秀はうなずいた。


「うむ」


盃を置き、今度ははっきりとその名を口にする。


「勘十郎は、人に好かれる器だ」


その一言に、部屋の空気がまた揺れた。


吉法師を「面白い」と言った直後に、勘十郎を「人に好かれる器」と評する。そのどちらも、当主として捨てがたい資質である。だからこそ、聞いている者たちはかえって困る。


信秀は続けた。


「人に好かれるというのは、ただ優しいということではない。あやつは、人の気持ちを乱さぬ。言葉を選び、怒りを買わず、自然と人を落ち着かせる」


それはまさしく勘十郎の強みだった。


礼儀正しく、穏やかで、相手を立てることを知っている。家臣たちが勘十郎へ好感を持つのも当然と言えば当然である。城の中では、すでに「勘十郎様の方が当主向きでは」と囁く者も少なくなかった。


「兄のような華はないかもしれぬが」


信秀は淡々と言う。


「家の内を保つには、ああいう者も要る」


年配の家臣たちは、ますます何とも言えぬ顔になった。


それでは、結局どちらなのか。


吉法師なのか。

勘十郎なのか。


この場にいる誰もが、喉元までその問いを出しかけていた。だが、誰も言えない。言えば取り返しのつかぬことになる予感があるからだ。


政秀は、信秀の顔をじっと見つめた。


殿は、まだ決めておられぬ。


そう感じた。


いや、もっと正確に言えば――決め切れぬのかもしれぬ。


吉法師は家を広げるだろう。だが家中を乱す。

勘十郎は家を保つだろう。だが大きく変える力は薄いかもしれぬ。


そのどちらが乱世に必要か。父としても、当主としても、信秀自身がまだ見極めきれていないのだ。


そこへ、一人の家臣が恐る恐る口を開いた。


「殿、恐れながら……」


「申せ」


「お二人とも、それぞれ良きところをお持ちにございます。されど家中の者どもは、どうしても比べたがります」


「であろうな」


「その、殿のお考えが見えぬゆえ、なおさら憶測が広がるのかと」


言い終えると、その家臣は深く頭を下げた。


失礼なことを言ったという自覚はあるのだろう。だが、言わずにはいられなかったのだ。


信秀は怒らなかった。


しばらく黙っていたが、やがて低く笑った。


「見えぬか」


「は」


「見せておらぬからな」


その言い方はあまりにも率直だった。


部屋の中にいた者たちは皆、息を詰める。


信秀は、視線を庭の先へやったまま言った。


「人というものは、答えが見えぬ時ほど、勝手に答えを作る」


「……」


「家中も同じよ。わしがどちらへ重みを置くのか見えねば、皆それぞれ己に都合のよい未来を思い描く」


その言葉は、妙に乾いていた。


怒りではなく、達観でもなく、ただ戦国武将として当たり前のことを述べている調子である。だからこそ聞く者の胸に重い。


「だが、それも悪いことばかりではない」


信秀が続ける。


「人がどこへ寄るかを見れば、その者の腹も見える」


勝家がわずかに目を細めた。


平手政秀もまた、そこで信秀の恐ろしさをあらためて思い出した。病に臥す気配を見せながらも、この男は家中のざわめきをただ持て余しているわけではない。見ている。測っている。誰が何を恐れ、誰が何を望み、誰がどこへつくか、その流れすら己の眼で掴もうとしている。


だが、それでもなお。


政秀はふと思う。


殿は見ておられる。測ってもおられる。

だが、決めてはおられぬ。


その曖昧さこそが、家中に余計な憶測を呼び、火種を育ててもいるのだ。


信秀はやがて小さく咳をした。


一度だけではない。続けざまに二つ、三つ。

決して激しくはない。だが、この部屋の誰もがその音に敏感になっていた。


政秀がわずかに身を乗り出す。


「殿」


「よい」


信秀は手で制し、呼吸を整えてから笑った。


「年を取っただけだ」


誰も、その言葉をそのままは信じなかった。だが、誰も反論もしない。


信秀は盃を持ち上げ、少しだけ酒を含んだ。


「吉法師は、人を驚かせる」


ぽつりと言う。


「勘十郎は、人を安心させる」


部屋の中は静まり返っていた。


「どちらも、家には要る」


その声は低く、静かだった。


だが、その一言がかえって家臣たちを混乱させた。


どちらも要る。

ならば、どちらが柱なのか。

どちらが従で、どちらが主なのか。

その答えは、結局まだ示されない。


信秀はその混乱すら見越しているように、口元だけで笑った。


「平手」


「は」


「おぬしは、どう思う」


突然の問いだった。


政秀は一瞬だけ答えに詰まる。


正直に言えば、吉法師の異才を信じたい。だが勘十郎の安定が家を保つことも知っている。まさしくその間に引き裂かれているのは、自分自身だった。


少し考え、政秀は慎重に言葉を選んだ。


「吉法師様は、家の外へ目を向けておられます」


「うむ」


「勘十郎様は、家の内を乱さぬお方にございます」


「うむ」


「どちらも、殿のお血筋にございます」


それは答えになっているようで、なっていない返答だった。


だが信秀は、かえって満足そうにうなずいた。


「おぬしらしい」


勝家が鼻で笑うように息を吐いた。


「平手殿でも、決め切れぬか」


政秀は視線を落としたまま答える。


「決め切れぬからこそ、苦しゅうございます」


それは、部屋の中にいる誰の胸にも響く言葉だった。


信秀はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。


「皆、苦しめ」


その言い方は、ひどく信秀らしかった。


「乱世とはそういうものだ。楽に答えが出るものなど、戦にも、家にも、そうはない」


その後は、もう誰も踏み込んだ言葉を発しなかった。


話は米の出来や近隣の動きへ移ったが、部屋の空気は元へは戻らない。いったん口に出された評価は、それだけで人の心に線を引く。吉法師は変わり者だが面白い。勘十郎は人に好かれる器だ。その二つの言葉は、今夜この場にいた者たちの中で、それぞれ別の重さを持って残るだろう。


やがて話が終わり、家臣たちは一人ずつ下がっていった。


廊下へ出たところで、勝家が政秀の横へ並ぶ。


「平手殿」


「何でしょう」


「殿は、あえて迷って見せておるのか」


政秀は少しだけ足を止めた。


その問いは、彼自身の胸にもあったものだ。


「……分かりませぬ」


「分からぬか」


「はい。殿はお見通しのようでいて、本当に心を決めておられる時は、もっと別の顔をなさる」


勝家は鼻を鳴らした。


「なら、まだ決まっておらぬか」


「あるいは」


政秀はそこで言葉を切る。


「あるいは、決めたくても決めきれぬのやもしれませぬ」


勝家はしばらく黙り、それから静かに歩き出した。


政秀もまた、その背を見送ったあと、自分の部屋へ向かった。


廊下の外では、夕暮れの光がゆっくり城の影を伸ばし始めている。庭の松は黒みを増し、白砂の明るさだけが妙に目についた。那古野城は静かだった。だがその静けさの中で、誰の胸にも同じ問いが残っている。


吉法師か。

勘十郎か。


そして、まだ答えを示さぬ信秀の沈黙が、その問いをさらに大きくしていく。


政秀は歩きながら、ふと小さく息をついた。


「……殿は、あまりに両方を見ておられる」


父としても、当主としても、どちらも見捨てぬ。

だからこそ、誰にも答えを与えぬ。

その曖昧さは慈悲でもあり、同時に残酷でもある。


那古野城の夕方は、静かに沈んでいく。

だが城の中では、まだ形にならぬ憶測ばかりが、じわじわと根を張り始めていた。

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