表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/49

第1話・炎の本能寺にて、魔王は舞う

――人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり。


炎が天を舐めていた。


夜の京はもはや闇ではなかった。本能寺を包み込む業火が空を真っ赤に染め上げ、まるで都そのものが巨大な炉に変じたかのように燃え盛っている。瓦は弾け、柱は爆ぜ、乾いた畳はぱちぱちと音を立てながら黒く縮れ、火の粉は狂った蝶のように舞い上がって、焼けた夜風の中へ次々と散っていく。


その炎のただ中に、私は立っていた。


織田信長。


尾張のうつけと嘲られ、魔王と恐れられ、天下布武を掲げて戦国の世を駆け抜けた男。無数の敵を踏み越え、無数の味方を従え、この国の形をねじ曲げるところまで来た、その私が、いまこうして炎に囲まれた寺の中にぽつんと立っている。


実に、締まらぬ。


「……いやぁ、これはまた、派手だな」


思わずそう呟くと、燃え落ちる天井の梁が、ばちりと火の粉を散らして応えた。


原因は言うまでもない。明智光秀である。


外からは先ほどから景気の良い声が何度も響いていた。


「敵は本能寺にあり!」


……いや、分かっておる。


一度で分かる。二度でも分かる。三度も四度も叫ばれると、さすがに少し腹が立つ。


「そんなに張り切らずともよかろうに」


ぼそりと漏らしたが、当然ながら誰にも届かぬ。どころか、


「本能寺にありぃぃ!」


と、むしろ増えている気さえする。


元気な軍勢である。夜襲というものは、もっとこう、忍び寄るように静かにやるものではないのか。こそこそと近づき、気づいた時には首が飛ぶ。それが戦国の夜襲というものだろう。


だが、今夜の明智勢は違う。


やたら叫ぶ。

ものすごく叫ぶ。


近所迷惑ではなかろうか。


……いや、まあ、もう寺ごと燃えているので、近所迷惑も何もないのだが。


私は肩をすくめると、腰の扇をゆっくり取り出した。扇骨の感触が手の中で妙に冷たく感じる。炎の中にいてなお冷たく思えるとは、我ながら不思議なものだ。


「さて」


せっかくの最期だ。ならば、やることは一つしかあるまい。


舞うしかあるまい。


私は静かに歩を踏み出した。


「人間五十年――」


その瞬間だった。


ドォン、と凄まじい音がして、頭上の梁が炎をまとったまま落ちてきた。


「おっと」


私は反射的に身をひねり、脇へ飛んだ。梁はさっきまで私が立っていた場所へ叩きつけられ、火の粉と灰を派手に撒き散らす。


「……危ない危ない」


魔王信長、最期は焼けた梁の下敷き。


それではいかにも格好が悪い。少なくとも後世の軍記物には書きづらかろう。もう少し見栄えのする死に様でなければ困る。


咳払いをひとつして、私は改めて姿勢を整えた。


「下天のうちをくらぶれば――」


扇をひらりと返す。炎が揺れる。その赤い光を眺めながら、私はふと笑った。


……思えば、長いようでいて短い人生であった。


尾張にいた頃、私はうつけと呼ばれていた。派手な格好をし、城下を歩き回り、家臣に呆れられ、女には笑われ、何を考えておるか分からぬと陰で囁かれた。織田家はあの嫡男で終わりだ、とまで言われたものだ。


だが、世の噂というものは実に当てにならぬ。


桶狭間。


あの日、すべてが変わった。


今川義元。大軍。圧倒的兵力差。誰もが勝ち目はないと言った。家臣も民も、口に出さぬだけで腹の底では終わりを覚悟していたのだろう。だが私は違った。


勝てる。


そう思ったし、実際に勝った。


雨の中を駆け、敵の喉笛へ真っ直ぐに噛みつく。あの瞬間の手応えは、今でも指先に残っている気がする。義元の首が転がった時、戦国の風向きそのものが変わる音を、私はたしかに聞いた。


「夢幻のごとくなり」


そう口ずさんだところで、ばたばたと慌ただしい足音がした。


「上様ぁぁぁ!」


振り向けば、森蘭丸が飛び込んできた。髪は煤だらけ、顔も真っ黒で、目だけがやけに白い。まるで墨で描いたような有様だが、それでも必死さだけはよく伝わってくる。


「上様! 大変でございます!」


「見れば分かる」


「寺が燃えております!」


「うむ」


「敵が攻めてきております!」


「知っておる」


「ではどうされますか!」


「舞っておる」


蘭丸は、ぴたりと動きを止めた。


「……舞っておられるのですか?」


「うむ」


私は一歩踏み出して見せた。扇を返す。炎が揺れる。


蘭丸は頭を抱えた。


「なぜこの状況で!」


「この状況だからだ」


私は真顔で答えた。


「人生の締めくくりだぞ。少しは風流にせねば、あまりに味気ない」


「風流より命が大事でございます!」


「それももっともだが」


私は肩をすくめる。


「逃げ道はない」


蘭丸は唇を噛んだ。まだ若い顔に、悔しさと焦りが入り混じる。逃がしたいのだろう。守りたいのだろう。そういう気持ちはありがたいが、ここまで来れば話は別だ。


「蘭丸」


「……はい」


「この信長が、逃げると思うか?」


蘭丸は目を伏せた。


「……思いません」


「であろう?」


私はまた舞い始めた。炎はなおも柱を舐め、屋根を食い破り、崩れた天井の隙間から夜空が覗いている。赤く染まった空の向こうに、都の黒い影が揺れていた。


「しかし、光秀め」


ふと呟くと、蘭丸が顔を上げた。


「上様?」


「まさか、あやつが謀反とはな」


口にしてから、私は自分で少し笑ってしまった。いや、まったく想像していなかったわけではない。戦国だ。裏切りなど日々の飯よりありふれている。浅井長政にも裏切られたし、朝倉も、松永も、皆それぞれ己の理で動いた。あれはあれで分かる。家だの義だの立場だの、絡み合うものが多かった。


だが光秀は――


「あやつは、何が不満だったのだろうな」


私は少しだけ考え、ぽつりと言った。


「比叡山か?」


蘭丸が噴き出しかけて、慌てて口を押さえた。


「上様、それは……」


「仕方あるまい」


私は平然と言う。


「坊主どもが武装しておったのだ。あれをそのままにしておけば、いずれもっと面倒になる」


「それは……そうですが」


「それに」


私は肩をすくめた。


「焼き討ちは得意だからな」


蘭丸はついに吹き出した。炎の中で笑う主従とは、なんとも妙な絵面である。だが戦国の終わりにしては、悪くない。


その時だった。


ゴォォォッ、と凄まじい音がして、残っていた天井の一角がまとめて崩れた。炎が一気に吹き込み、熱気が肌を打つ。さすがに蘭丸も顔色を変えた。


「上様!」


私は静かに扇を閉じた。


そして、ただ一言、口にした。


「是非もなし」


それは諦めではない。愚痴でも、言い訳でもない。


戦国の世を生きるとは、そういうことだ。奪い、奪われ、裏切り、裏切られ、笑いながら血を踏み越える。天下に手をかけた以上、こういう最期もまた戦のうちである。


私は最後に夜空を見上げた。


血と炎と裏切りの時代。

だが――悪くなかった。


実に、面白い世だった。


桶狭間。

長篠。

天下布武。

数えきれぬ戦。

数えきれぬ騒ぎ。

数えきれぬ出会いと別れ。

そして、数えきれぬほど女に振り回された。


……いや、あれは本当に多かった。


帰蝶が怒るのも無理はない。あれでよく見限られなかったものだ。いや、見限りかけられたことは何度もあったか。


思い出すと、また少し笑えてくる。


私は扇を蘭丸へ渡した。


「持っておけ」


「上様……?」


蘭丸が息を呑む。


私はゆっくりと腰の刀へ手をかけた。炎が近い。熱い。だが不思議と心は静かだった。ここまで来れば、騒ぐ方が野暮というものだ。


「蘭丸」


「は……っ」


「よく仕えた」


蘭丸の喉がひくりと鳴る。まだ若いその目が、涙ではなく熱で滲んでいるのか、あるいはその両方か、私には分からなかった。


「上様、せめて――」


「よい」


私は遮った。


「言うな。今さら未練がましい言葉は似合わぬ」


一歩、前へ出る。燃え崩れた柱の向こう、炎の揺らめきのさらに奥に、焼けた床板の裂け目が見えた。半ば崩れ、土が覗いている。工事の途中で止まったような、奇妙な空洞だ。本能寺の奥には、以前より密かに手を入れられていた土木の痕跡があった。用心のため、あるいは気まぐれのため、完全には仕上がらぬまま放置されていた、未完成の抜け穴である。


私はそれを見て、わずかに笑った。


「最後まで、使わぬものもある」


蘭丸が振り返る。


ようやく彼も、その暗い穴に気づいたらしかった。


「……抜け穴」


「未完成だ」


「では、やはり……」


「逃げぬと言うたであろう」


私は静かに刀を抜いた。刃に映る炎が、血のように赤い。


「だが、遺骸まで好きに弄ばせる気もない」


蘭丸の顔が強張る。


私は自分でも可笑しかった。死ぬ間際まで、そんなことを考えている。天下を取ろうとした男の最後の意地が、己の骨の行方とは。だが、それもまた悪くない。


明智光秀に、燃え残った屍を見せてやる義理はない。

後世の誰かに、無様な死に顔を晒してやる義理もない。


ならば、消えるのがよい。


炎と土の間へ。


私は座し、短く息を整えた。蘭丸は震える声で何かを言おうとしたが、結局言葉にならなかった。


「見るなとは言わぬ」


私は前を向いたまま言う。


「だが、泣くな」


「……はい」


かすれた返事だった。


そして私は、迷いなく刃を腹へ入れた。


鈍い熱が一気に身体の内側を裂いた。さすがに痛みはあった。あるにはあったが、思っていたほどではない。いや、痛みより先に、何かが遠ざかっていく感じの方が強かった。


視界が赤い。

炎の色か、血の色か、もう区別がつかぬ。


どこかで蘭丸が叫んだ気がした。あるいは名を呼ばれたのかもしれぬ。だがもう、はっきりとは聞こえなかった。


最後に脳裏をよぎったのは、燃える本能寺でも、裏切った光秀の顔でもなかった。


尾張。

那古野城。

城下町の匂い。

呆れ顔の平手。

豪快に笑う父。

真面目すぎる弟。

そして、まだ見ぬまま噂だけが先に届いていた――美濃の蝮の娘。


そうだ。


話は、あそこから始まったのだ。


尾張のうつけと呼ばれた、あの頃から。


意識が沈み切る直前、私はもう一度だけ笑った気がする。


その後のことは、もう私の知るところではない。


ただ、森蘭丸は最後まで泣かなかった。


彼は主君の血に濡れた体を、崩れかけた床の裂け目へ引きずった。炎はすぐ背後まで迫り、熱で肌が焼ける。木は落ち、梁は軋み、いつ天井がすべて崩れてもおかしくない。その中で蘭丸は歯を食いしばり、未完成の抜け穴へと私の遺体を押し込んだ。


奥までは通じていない。逃げ道としては半端な穴だ。

だが、隠すには十分だった。


土が崩れ、焼けた板が落ち、火の粉が降り積もる。


蘭丸は最後に、私から預かった扇を胸に抱いたまま、その暗い穴を見つめた。何かを言ったようでもあったが、もう炎の音がすべてを呑み込んでいた。


やがて、燃えさかる本能寺の中で、未完成の抜け穴は崩れた木と土と炎に埋もれていく。


誰にも見つからぬまま。

誰にも知られぬまま。

まるで最初から、そこに何もなかったかのように。


そして夜の京には、ただ赤い炎だけが残った。

原作13巻2026年2月25日発売

オーバーラップ文庫

挿絵(By みてみん)


電撃大王連載中

挿絵(By みてみん)

電撃コミックスNEXT⑦巻発売中

挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ