第1話・炎の本能寺にて、魔王は舞う
――人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり。
炎が天を舐めていた。
夜の京はもはや闇ではなかった。本能寺を包み込む業火が空を真っ赤に染め上げ、まるで都そのものが巨大な炉に変じたかのように燃え盛っている。瓦は弾け、柱は爆ぜ、乾いた畳はぱちぱちと音を立てながら黒く縮れ、火の粉は狂った蝶のように舞い上がって、焼けた夜風の中へ次々と散っていく。
その炎のただ中に、私は立っていた。
織田信長。
尾張のうつけと嘲られ、魔王と恐れられ、天下布武を掲げて戦国の世を駆け抜けた男。無数の敵を踏み越え、無数の味方を従え、この国の形をねじ曲げるところまで来た、その私が、いまこうして炎に囲まれた寺の中にぽつんと立っている。
実に、締まらぬ。
「……いやぁ、これはまた、派手だな」
思わずそう呟くと、燃え落ちる天井の梁が、ばちりと火の粉を散らして応えた。
原因は言うまでもない。明智光秀である。
外からは先ほどから景気の良い声が何度も響いていた。
「敵は本能寺にあり!」
……いや、分かっておる。
一度で分かる。二度でも分かる。三度も四度も叫ばれると、さすがに少し腹が立つ。
「そんなに張り切らずともよかろうに」
ぼそりと漏らしたが、当然ながら誰にも届かぬ。どころか、
「本能寺にありぃぃ!」
と、むしろ増えている気さえする。
元気な軍勢である。夜襲というものは、もっとこう、忍び寄るように静かにやるものではないのか。こそこそと近づき、気づいた時には首が飛ぶ。それが戦国の夜襲というものだろう。
だが、今夜の明智勢は違う。
やたら叫ぶ。
ものすごく叫ぶ。
近所迷惑ではなかろうか。
……いや、まあ、もう寺ごと燃えているので、近所迷惑も何もないのだが。
私は肩をすくめると、腰の扇をゆっくり取り出した。扇骨の感触が手の中で妙に冷たく感じる。炎の中にいてなお冷たく思えるとは、我ながら不思議なものだ。
「さて」
せっかくの最期だ。ならば、やることは一つしかあるまい。
舞うしかあるまい。
私は静かに歩を踏み出した。
「人間五十年――」
その瞬間だった。
ドォン、と凄まじい音がして、頭上の梁が炎をまとったまま落ちてきた。
「おっと」
私は反射的に身をひねり、脇へ飛んだ。梁はさっきまで私が立っていた場所へ叩きつけられ、火の粉と灰を派手に撒き散らす。
「……危ない危ない」
魔王信長、最期は焼けた梁の下敷き。
それではいかにも格好が悪い。少なくとも後世の軍記物には書きづらかろう。もう少し見栄えのする死に様でなければ困る。
咳払いをひとつして、私は改めて姿勢を整えた。
「下天のうちをくらぶれば――」
扇をひらりと返す。炎が揺れる。その赤い光を眺めながら、私はふと笑った。
……思えば、長いようでいて短い人生であった。
尾張にいた頃、私はうつけと呼ばれていた。派手な格好をし、城下を歩き回り、家臣に呆れられ、女には笑われ、何を考えておるか分からぬと陰で囁かれた。織田家はあの嫡男で終わりだ、とまで言われたものだ。
だが、世の噂というものは実に当てにならぬ。
桶狭間。
あの日、すべてが変わった。
今川義元。大軍。圧倒的兵力差。誰もが勝ち目はないと言った。家臣も民も、口に出さぬだけで腹の底では終わりを覚悟していたのだろう。だが私は違った。
勝てる。
そう思ったし、実際に勝った。
雨の中を駆け、敵の喉笛へ真っ直ぐに噛みつく。あの瞬間の手応えは、今でも指先に残っている気がする。義元の首が転がった時、戦国の風向きそのものが変わる音を、私はたしかに聞いた。
「夢幻のごとくなり」
そう口ずさんだところで、ばたばたと慌ただしい足音がした。
「上様ぁぁぁ!」
振り向けば、森蘭丸が飛び込んできた。髪は煤だらけ、顔も真っ黒で、目だけがやけに白い。まるで墨で描いたような有様だが、それでも必死さだけはよく伝わってくる。
「上様! 大変でございます!」
「見れば分かる」
「寺が燃えております!」
「うむ」
「敵が攻めてきております!」
「知っておる」
「ではどうされますか!」
「舞っておる」
蘭丸は、ぴたりと動きを止めた。
「……舞っておられるのですか?」
「うむ」
私は一歩踏み出して見せた。扇を返す。炎が揺れる。
蘭丸は頭を抱えた。
「なぜこの状況で!」
「この状況だからだ」
私は真顔で答えた。
「人生の締めくくりだぞ。少しは風流にせねば、あまりに味気ない」
「風流より命が大事でございます!」
「それももっともだが」
私は肩をすくめる。
「逃げ道はない」
蘭丸は唇を噛んだ。まだ若い顔に、悔しさと焦りが入り混じる。逃がしたいのだろう。守りたいのだろう。そういう気持ちはありがたいが、ここまで来れば話は別だ。
「蘭丸」
「……はい」
「この信長が、逃げると思うか?」
蘭丸は目を伏せた。
「……思いません」
「であろう?」
私はまた舞い始めた。炎はなおも柱を舐め、屋根を食い破り、崩れた天井の隙間から夜空が覗いている。赤く染まった空の向こうに、都の黒い影が揺れていた。
「しかし、光秀め」
ふと呟くと、蘭丸が顔を上げた。
「上様?」
「まさか、あやつが謀反とはな」
口にしてから、私は自分で少し笑ってしまった。いや、まったく想像していなかったわけではない。戦国だ。裏切りなど日々の飯よりありふれている。浅井長政にも裏切られたし、朝倉も、松永も、皆それぞれ己の理で動いた。あれはあれで分かる。家だの義だの立場だの、絡み合うものが多かった。
だが光秀は――
「あやつは、何が不満だったのだろうな」
私は少しだけ考え、ぽつりと言った。
「比叡山か?」
蘭丸が噴き出しかけて、慌てて口を押さえた。
「上様、それは……」
「仕方あるまい」
私は平然と言う。
「坊主どもが武装しておったのだ。あれをそのままにしておけば、いずれもっと面倒になる」
「それは……そうですが」
「それに」
私は肩をすくめた。
「焼き討ちは得意だからな」
蘭丸はついに吹き出した。炎の中で笑う主従とは、なんとも妙な絵面である。だが戦国の終わりにしては、悪くない。
その時だった。
ゴォォォッ、と凄まじい音がして、残っていた天井の一角がまとめて崩れた。炎が一気に吹き込み、熱気が肌を打つ。さすがに蘭丸も顔色を変えた。
「上様!」
私は静かに扇を閉じた。
そして、ただ一言、口にした。
「是非もなし」
それは諦めではない。愚痴でも、言い訳でもない。
戦国の世を生きるとは、そういうことだ。奪い、奪われ、裏切り、裏切られ、笑いながら血を踏み越える。天下に手をかけた以上、こういう最期もまた戦のうちである。
私は最後に夜空を見上げた。
血と炎と裏切りの時代。
だが――悪くなかった。
実に、面白い世だった。
桶狭間。
長篠。
天下布武。
数えきれぬ戦。
数えきれぬ騒ぎ。
数えきれぬ出会いと別れ。
そして、数えきれぬほど女に振り回された。
……いや、あれは本当に多かった。
帰蝶が怒るのも無理はない。あれでよく見限られなかったものだ。いや、見限りかけられたことは何度もあったか。
思い出すと、また少し笑えてくる。
私は扇を蘭丸へ渡した。
「持っておけ」
「上様……?」
蘭丸が息を呑む。
私はゆっくりと腰の刀へ手をかけた。炎が近い。熱い。だが不思議と心は静かだった。ここまで来れば、騒ぐ方が野暮というものだ。
「蘭丸」
「は……っ」
「よく仕えた」
蘭丸の喉がひくりと鳴る。まだ若いその目が、涙ではなく熱で滲んでいるのか、あるいはその両方か、私には分からなかった。
「上様、せめて――」
「よい」
私は遮った。
「言うな。今さら未練がましい言葉は似合わぬ」
一歩、前へ出る。燃え崩れた柱の向こう、炎の揺らめきのさらに奥に、焼けた床板の裂け目が見えた。半ば崩れ、土が覗いている。工事の途中で止まったような、奇妙な空洞だ。本能寺の奥には、以前より密かに手を入れられていた土木の痕跡があった。用心のため、あるいは気まぐれのため、完全には仕上がらぬまま放置されていた、未完成の抜け穴である。
私はそれを見て、わずかに笑った。
「最後まで、使わぬものもある」
蘭丸が振り返る。
ようやく彼も、その暗い穴に気づいたらしかった。
「……抜け穴」
「未完成だ」
「では、やはり……」
「逃げぬと言うたであろう」
私は静かに刀を抜いた。刃に映る炎が、血のように赤い。
「だが、遺骸まで好きに弄ばせる気もない」
蘭丸の顔が強張る。
私は自分でも可笑しかった。死ぬ間際まで、そんなことを考えている。天下を取ろうとした男の最後の意地が、己の骨の行方とは。だが、それもまた悪くない。
明智光秀に、燃え残った屍を見せてやる義理はない。
後世の誰かに、無様な死に顔を晒してやる義理もない。
ならば、消えるのがよい。
炎と土の間へ。
私は座し、短く息を整えた。蘭丸は震える声で何かを言おうとしたが、結局言葉にならなかった。
「見るなとは言わぬ」
私は前を向いたまま言う。
「だが、泣くな」
「……はい」
かすれた返事だった。
そして私は、迷いなく刃を腹へ入れた。
鈍い熱が一気に身体の内側を裂いた。さすがに痛みはあった。あるにはあったが、思っていたほどではない。いや、痛みより先に、何かが遠ざかっていく感じの方が強かった。
視界が赤い。
炎の色か、血の色か、もう区別がつかぬ。
どこかで蘭丸が叫んだ気がした。あるいは名を呼ばれたのかもしれぬ。だがもう、はっきりとは聞こえなかった。
最後に脳裏をよぎったのは、燃える本能寺でも、裏切った光秀の顔でもなかった。
尾張。
那古野城。
城下町の匂い。
呆れ顔の平手。
豪快に笑う父。
真面目すぎる弟。
そして、まだ見ぬまま噂だけが先に届いていた――美濃の蝮の娘。
そうだ。
話は、あそこから始まったのだ。
尾張のうつけと呼ばれた、あの頃から。
意識が沈み切る直前、私はもう一度だけ笑った気がする。
その後のことは、もう私の知るところではない。
ただ、森蘭丸は最後まで泣かなかった。
彼は主君の血に濡れた体を、崩れかけた床の裂け目へ引きずった。炎はすぐ背後まで迫り、熱で肌が焼ける。木は落ち、梁は軋み、いつ天井がすべて崩れてもおかしくない。その中で蘭丸は歯を食いしばり、未完成の抜け穴へと私の遺体を押し込んだ。
奥までは通じていない。逃げ道としては半端な穴だ。
だが、隠すには十分だった。
土が崩れ、焼けた板が落ち、火の粉が降り積もる。
蘭丸は最後に、私から預かった扇を胸に抱いたまま、その暗い穴を見つめた。何かを言ったようでもあったが、もう炎の音がすべてを呑み込んでいた。
やがて、燃えさかる本能寺の中で、未完成の抜け穴は崩れた木と土と炎に埋もれていく。
誰にも見つからぬまま。
誰にも知られぬまま。
まるで最初から、そこに何もなかったかのように。
そして夜の京には、ただ赤い炎だけが残った。




