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第19話 家臣団の分裂

那古野城の夜は、昼の喧騒をひととおり飲み込んだあとで、かえって人の気配を濃くすることがある。


昼の城は、兵が行き交い、小姓が走り、広間では誰かが声を張り、台所では飯の湯気が立つ。


そのすべてが表へ出ているぶん、城の内に何があるかはむしろ見えやすい。


だが夜になると、人は声を潜める。足音は板の軋みより小さくなり、障子の向こうの灯りは細くなり、誰がどこで何を考えているかだけが、かえって濃く滲み出る。


その夜、本丸の一角にある小広間にも、そうした夜の気配が集まっていた。


広間には大きな燭台がひとつ置かれ、火は必要以上に明るくもなく、暗くもない。灯りが弱ければ密談めくし、強すぎれば人目を引く。いかにも「ただの相談」であるように見せるための、いやに心得た明るさであった。


そこに集まっているのは、織田家中でもそれなりに顔と名の通った者たちだった。


年嵩の重臣、武辺に優れた侍、信秀の代から仕える譜代の者、まだ若いが発言力を持ち始めた者。


酒宴というには静かで、軍議というには人数が少ない。


表向きはただの雑談に過ぎぬ。だが実際には、皆が同じひとつの名を心に浮かべて座っていた。


吉法師。


織田家嫡男。

尾張のうつけ。

そして――次代の当主となるべきはずの少年。


広間の空気を最初に動かしたのは、白髪交じりの古参家臣だった。


「近頃、あのお方の噂ばかりですな」


誰もすぐには答えなかった。


だが答えぬこと自体が、同意のようなものだった。


男は苦く笑い、盃に指を添えた。


「城下で商人と話しただの、農民の暮らしを見に行っただの、忍びらしき娘を見抜いただの……面白い話には事欠きませぬ」


「面白い、で済めばよろしいが」


別の男が低く返した。


「嫡男が変わり者である、というだけなら笑い話だ。だが、それで家が揺らげば笑えませぬ」


その言葉に、広間の隅に座っていた平手政秀が、わずかに目を伏せた。


彼は今夜、最初から気が重かった。


こういう集まりになるだろうとは予想していた。


信秀の病が表向き伏せられてはいても、長く家に仕える者ほど異変には敏い。


そして当主の身に不安が生じれば、次に誰が家を背負うのかという話になるのは避けられない。


問題は、その答えが今の織田家では、決して一つではないことだった。


「戦の勘はある」


そう言ったのは、比較的若い武士だった。

まだ三十をいくつも過ぎてはおらぬ顔に、どこか迷いを含んだ真面目さがある。


「それは認めます。先日の戦の見方など、あれは子供の遊びではありませぬ。地形、兵の詰まり、奇襲のことまで、あれほどすらすらと言うとは……あの年で、です」


「だからこそ厄介なのだ」


年嵩の男が返す。


「勘はある。目もある。だが礼を知らぬ」


「……」


「人を人とも思わぬように見える時がある。武士の面目も、家中の序も、あまりに軽く飛び越えすぎる。あれでは家中がまとまらぬ」


その言葉は、静かではあったが重かった。


政秀は反論したかった。

吉法師は礼を知らぬのではない。


知っていて、あえてそこに重きを置かぬのだ。


人を軽んじているのでもない。


むしろ、人の立場や身分の外側にあるものを見ようとしている。


だが、そんな説明をしたところで、この場の者たちがどれほど納得するかは分からない。


納得しないだろうという予感の方が強かった。


一人の武士が、慎重な口ぶりで言った。


「勘十郎様は、少なくとも人の心を乱しませぬ」


広間の空気が少しだけ動いた。


誰もが思っていたことを、ついに誰かが口にしたのだ。


勘十郎。後の信行。

吉法師の弟。

礼儀正しく、穏やかで、家臣にも女中にも分け隔てなく接する若君。


「勘十郎様なら、家中は安んじましょうな」


「うむ。少なくとも、余計な波は立たぬ」


「人望という点では、すでに兄上より上かもしれませぬ」


そこまで言われると、さすがに政秀は顔を上げた。


「軽々しく申すことではありますまい」


その声に、広間がわずかに静まる。


平手政秀は、織田家中でも重い名を持つ男だ。


信秀の信任も厚く、吉法師の教育係でもある。その彼が声を発した以上、誰もそれを無視はできない。


「まだ家督の話をする時ではありませぬ」


政秀はそう続けたが、自分でもその言葉に力が足りぬことを感じていた。


時ではない――その通りだ。だが、時でないからこそ、人は先に話したがる。


口に出さぬうちから流れを作ろうとする。


先ほどの年配家臣が、やや低い声で答えた。


「平手殿、我らも好きでこのようなことを申すのではござらぬ。されど、備えは要る」


「備え」


「殿にもしものことがあれば、尾張はすぐ揺れます」


その「もしものこと」が、誰にも笑えない重さを持っていた。


そこへ、それまで黙っていた大柄な男が、ようやく口を開いた。


柴田勝家である。


まだ後年のような大将格というほどではないが、すでに武辺者としての存在感は十分だった。


肩幅の広い体を少し前へ傾け、腕を組んだまま低い声で言う。


「どちらがよい悪いの話ではなかろう」


広間の視線が集まる。


勝家はそれを受けても、表情をほとんど変えなかった。


「吉法師様は面白い」


その言い方に、何人かが少し眉を動かした。

だが勝家は続ける。


「面白いし、あれはただのうつけではない。戦の目もある。物の見方も常の武士とは違う。いずれ化けるかもしれぬ」


政秀は、そこでわずかに安堵した。少なくとも、勝家が吉法師の才をまるきり見ていないわけではなかったからだ。


しかし、その次の一言が来ることも、政秀には分かっていた。


「だが」


勝家は盃を置いた。


「家を背負うなら、安定が要る」


広間の空気が、今度ははっきりと揺れた。


それはあからさまな勘十郎推しではなかった。


表向きには中立を保っている。


だが、今の言葉だけで十分だった。少なくともこの場にいる者たちは、勝家が何を言いたいかを理解した。


吉法師は強いかもしれない。だが家中を不安にさせる。

勘十郎は突出したところはなくとも、家をまとめるには向いている。

その空気が、言葉にならぬまま広間の中に広がっていく。


政秀は苦しかった。


勝家の言うことは、決して間違ってはいない。

家というものは、ただ強いだけでは持たぬ。

人がついてこねば、城はあっても国は空っぽになる。

そして勘十郎には、人を安心させる何かがたしかにある。

政秀もそれを認めぬわけではなかった。


だが。


安心できる器が、乱世に勝てる器とは限らぬ。


政秀の胸にあるのは、その苦い確信だった。


「柴田殿」


政秀が静かに呼ぶと、勝家は視線だけを向けた。


「安定は大事です。されど、安定だけでは生き残れぬこともありましょう」


勝家は少しだけ口の端を動かした。


「平手殿、それもまた分かる」


「なら」


「だが、家中の者どもが、あの若殿についてゆけるかは別の話だ」


その言葉には、武辺者らしい率直さがあった。


吉法師に従えば、大きく伸びるかもしれぬ。

だが途中で振り落とされる者も多いだろう。

勘十郎なら大きくは伸びぬかもしれぬ。

だが、少なくとも家の形は保てる。


そういう現実的な勘定が、勝家の目にはもう見えているのだ。


広間の空気は、ここに来て完全に二つに割れたわけではない。

まだ誰も「吉法師を退けよ」とまでは言っていない。

勘十郎に明確につけと言い切る者もいない。


だが、空気は生まれた。


自然に、ゆっくりと。


吉法師派。

勘十郎派。


その名をまだ誰も口にしていなくとも、もう心の中では線を引き始めている。


そこへ、不意に障子の外で小さな物音がした。


誰かが廊下を通ったのかと思ったが、政秀だけは違うと感じた。

人の足音ではない。もっと軽い、気配を押し殺した何か。


政秀の目がわずかに細くなる。


まさか、と思う。


忍びの少女のことが頭をよぎった。もし本当にあの手の者が城の内外をうろついているなら、この家中の空気すら、すでに外へ漏れ始めているのかもしれない。


だが今はそれを口に出せなかった。余計に場が荒れる。


代わりに、政秀は低く言った。


「今宵の話は、あくまで家を思うゆえのものと承知しております」


誰も答えない。だが、否定もない。


「されど、若殿方を比べて家を揺らすようなことがあれば、それこそ殿に対して申し開きが立ちませぬ。お忘れなきよう」


年配の家臣がゆっくりとうなずいた。


「平手殿の申すことはもっともです」


口ではそう言う。

だが、その目にはなお消えぬものがある。


それを見て、政秀は悟った。


もう遅いのかもしれない。


信秀が病に伏せる前の織田家には、少なくとも「次」を露骨に比べる空気はここまで強くはなかった。

だが今は違う。

誰もが未来を恐れている。


だからこそ、自分にとって都合のよい安定を求める。

そしてその安定の形は、人によって違う。


吉法師の異才を信じたい。

だが家臣たちの不安も理解できる。


その間に立っている自分が、いちばん苦しい。


政秀はそう思いながら、盃にも手をつけず、静かに立ち上がった。


「今宵はこれで」


広間の者たちも、それ以上は言葉を重ねなかった。

もう十分に言ってしまったからだ。言葉に出した以上、それは消えぬ。

今さら綺麗に畳めるような話でもない。


障子を開けて廊下へ出ると、夜の空気が少し冷たかった。


行灯の灯りが細く伸び、板張りの廊下の先には闇が沈んでいる。

政秀は歩きながら、ふと庭の方を見た。月は薄く、松の影は黒かった。

その闇のどこかに、まだ名も形も定まらぬ火種が埋まっている気がした。


いや――埋まっているのではない。


もう、燃え始めているのだ。


ただ、まだ誰もそれを「炎」と呼んでいないだけである。


その夜、政秀は自室へ戻ってもすぐには眠れなかった。


吉法師の目を思い出す。

あの戦を見抜く目。

人の嘘と欲を嗅ぎ分けるような目。

時代の先ばかり見ている、危ういほど澄んだ目。


あの才を、政秀は信じている。

信じたい。


だが同時に、その才が家中の者たちにとってどれほど異物に映るかも、今夜あらためて思い知らされた。


「……殿」


誰に向けるでもなく、政秀は小さく呟いた。


「お残しになったものは、大きすぎます」


夜の那古野城は静かだった。


だがその静けさの下では、もう確かに、人の心が軋み始めていた。

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