第18話 信長の発想
那古野城へ戻る道すがらも、吉法師の頭の中には、あの少女の姿がまだくっきり残っていた。
地味な小袖。町娘にしか見えぬ顔つき。だが、足の運びは静かすぎ、目の動きには無駄がなく、言葉の選び方も、どこかこの尾張の城下に生きる娘のそれではなかった。
隠しているつもりでも、隠しきれぬものはある。そういうものが、人にはある。
城下町は今日も賑やかで、表通りへ戻れば、先ほどと変わらぬ人の流れが続いていた。
米俵を担いだ男が肩で息をし、薬売りが客へ胡散臭い笑みを向け、子供たちは犬を追いかけて駆け回っている。
その雑多な喧騒の中を歩きながらも、吉法師の目には、さっきまでとは少し違う景色が映っていた。
人の動き。
声の流れ。
立ち止まる場所。
視線が集まるところ、逆に集まらぬところ。
商人は物を運ぶ。
武士は兵を動かす。
では、忍びは何を動かすのか。
そう考えた時、自然と答えは出ていた。
「……情報か」
ぽつりとそう呟くと、後ろをついてきていた小姓がびくりと肩を揺らした。
「き、吉法師様?」
「なんでもない」
そう言いながらも、吉法師の足取りは少しだけ速くなった。
誰にも見つからずに近づき、誰にも気づかれぬまま見て、聞いて、戻っていく。あの少女は、まさにそれをしていたのだろう。
もし尾張の城下で、こちらが気づかぬうちに他国の忍びが歩いているのだとすれば、それはひどく厄介な話である。
だが同時に――
ひどく、面白い。
城へ戻ると、いつものように平手政秀が待ち構えていた。
広間へ上がる前の廊下、その角に立つ姿だけで、何やら説教の匂いがする。
白髪交じりの髪をきちんと結い、背筋を伸ばした政秀は、遠目には隙のない重臣そのものだが、吉法師の姿を見つけた途端、その眉がわずかに寄るところまで、もはや見慣れた光景であった。
「吉法師様」
「なんだ、平手」
「今日はどこを歩いておられました」
「町だ」
「それは見れば分かります」
「なら聞くな」
平手は一度、目を閉じた。
この少年との会話では、真正面から言葉をぶつけると、たいてい余計に疲れる。長く付き合ってきた経験が、それを教えていた。
「妙なことはなさいませんでしたか」
「妙なこと、とは何だ」
「例えば、見知らぬ者に話しかけるとか」
吉法師は少しだけ口元を上げた。
「したな」
平手の片眉がぴくりと動く。
「……誰に」
「町娘だ」
「町娘」
「たぶん忍びだ」
廊下の空気が一瞬、固まった。
後ろに控えていた小姓が、思わず息を呑む音まで聞こえた。
平手政秀はすぐには言葉を返さず、ただじっと吉法師の顔を見つめた。その目が冗談を言う時の色ではないことを確かめるように。
「詳しくお話しください」
声の調子が変わった。
吉法師はそれに気づくと、むしろ少し楽しそうに、城下での出来事をかいつまんで話した。
井戸端で見かけたこと。
尾張の言葉ではないと思ったこと。
歩き方が静かすぎたこと。
目が町娘の目ではなく、人を見張る者のそれだったこと。
そして、向こうもまたこちらを観察していたこと。
平手は黙って聞いていた。
話の途中で何度か眉をひそめたが、最後まで遮ることはしない。
聞き終えると、腕を組み、しばらく廊下の先の庭を見た。
「……本当に忍びかもしれませぬな」
「だろう」
「嬉しそうに言うことではございませぬ」
「なぜだ」
吉法師は不思議そうに首を傾げる。
「敵の手の者が城下に入っているなら厄介だ。だが、厄介だからといって、見つけたのは面白い」
平手は深く息を吐いた。
実にこの少年らしい返しである。危機感がないわけではない。
むしろある。
ある上で、それを面白がっているのだ。
火事を恐れぬ者ではなく、火の燃え方に見入る者。そういう種類の危うさがある。
「吉法師様」
平手は低く言った。
「忍びというものは、ただ怪しいだけの者ではございません。敵の数、兵の動き、城の造り、武器の備え、米の蓄え、そうしたことを盗み見る者です。戦の前には、そういう者が動きます」
「うむ」
「見つけたなら、本来はすぐに捕らえるべきです」
「だが、捕らえれば次は見えぬ者が来るぞ」
平手は口をつぐんだ。
吉法師は続ける。
「今回は見えた。なら、見える者の方がよい」
その言葉に、平手はわずかに目を細めた。
たしかに一理ある。露骨に追い払えば、相手はもっと巧妙な者を差し向けるかもしれない。
だが、まだ幼い少年がそこまで自然に考えていること自体が、また政秀の頭痛の種でもあった。
吉法師はそのまま、廊下の欄干に肘をついて庭を見下ろした。
「平手」
「はい」
「忍びは役に立つな」
政秀は思わず聞き返した。
「……役に立つ、とは」
「戦でだ」
吉法師はまるで当然のことのように言う。
「戦う前に敵のことが分かれば、兵を減らさずに済む。どこにおるか、何を持っておるか、どこが弱いか、先に知っておれば、勝ちやすくなる」
平手の背後にいた小姓が、ぽかんとした顔をした。
武士の家の少年なら、ふつうは剣や槍の強さに憧れる。
正面から敵を打ち破ることにこそ、武の華があると教わる。
だが吉法師の頭は、いつも少し違う角度から戦を見ていた。
「正面からぶつかる前に、勝てる形にしておく方がよい」
吉法師は言う。「戦ってから考えるのでは遅い」
平手は静かに問い返す。
「忍びを、武士の戦に使うと?」
「なぜ使わぬ」
「あまりに裏働きが過ぎると、卑怯と申す者もおります」
「負けて死ぬよりよい」
あっさりと返され、平手は一瞬だけ目を閉じた。
この少年は、武士の見栄より勝ちを取る。しかも、ただ勝てばよいという乱暴さではなく、どうすれば無駄なく勝てるかを先に考えてしまう。戦の前にすでに戦が始まっている、という見方をしているのだ。
そのときだった。
廊下の先、開け放たれた障子の向こうに、ひらりと人影が動いた。
平手政秀は即座に振り向いた。だが、吉法師の方がわずかに早かった。
「……おるな」
障子の外、庭に面した植え込みの影。その向こうに、一瞬だけ小袖の端が見えた。
平手が声を張る。
「誰だ!」
だが、返事はない。
ただ、風が葉を揺らしただけのように見える。
吉法師はむしろ口元を緩めた。
「来たか」
「来たか、ではございませぬ!」
平手が前へ出ようとした時、植え込みの向こうから、あの少女がすっと姿を現した。
今日の姿も町娘そのものだった。だが、城の庭先にまで入り込んでおきながら、その顔には不思議と怯えがない。むしろ、試すような目をしていた。
平手政秀は一気に表情を険しくする。
「無礼者、ここがどこだと――」
「よい、平手」
吉法師が片手を上げた。
平手はぎり、と奥歯を噛んだが、すぐには動かない。相手がただの賊ではなく、本当に忍びなら、ここで大声を上げて騒ぎ立てるのが正しいかどうか、判断が難しいからだ。
少女は廊下の下で立ち止まり、吉法師を見上げた。
その目には、昨日よりはっきりした驚きがあった。
「……本当に気づいてたのね」
「言っただろう」
「まさか、ここまで話してるとは思わなかった」
吉法師は肩をすくめる。
「おぬしこそ、まさか城まで来るとは思わなかったぞ」
少女は少しだけ口元を引き結んだ。
そして、平手政秀をちらりと見たあと、もう一度吉法師へ視線を戻す。
「ひとつ聞いてもいい?」
「なんだ」
「さっき、聞こえた」
吉法師は目を細める。
「何をだ」
少女は言った。
「忍びは役に立つ、って」
ほんのわずかだが、その声には本心の揺れがあった。
忍びはたいてい、嫌われる。武士からは卑しいと見られ、町人からは不気味がられる。裏で動き、汚れ仕事をし、名も残らぬ。それが当たり前のはずだった。なのに目の前の少年は、それをあっさり「役に立つ」と言ったのだ。
吉法師は、何でもないことのように頷いた。
「うむ」
「どうして」
「どうして、とは」
「普通、武士はそう思わない」
平手政秀は横で複雑な顔をしている。
たしかに、普通はそうだ。だが吉法師に「普通」を説いても、あまり意味がない。
吉法師は少女を見ながら答えた。
「見えぬところを見て、聞こえぬところを聞くのだろう」
少女は黙る。
「なら、役に立つに決まっておる」
「……それだけ?」
「それだけで十分だ」
吉法師は廊下から身を乗り出した。
「戦は、槍で突く前に始まっておる。敵がどこにおるか分からねば、兵をどこへ向ける。何を狙う。どこが弱い。何も知らぬまま正面からぶつかるのは、ただの阿呆だ」
少女の目が少しずつ見開かれていく。
吉法師は続けた。
「忍びは戦で役に立つ」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
軽んじるでもなく、持ち上げるでもなく、ただ必要だから必要だと言う口調だった。
「武士が槍を持つなら、忍びは目だな」
少女は息を呑んだ。
「目……」
「うむ。兵は腕、馬は足、忍びは目だ。目が曇れば、腕も足も役に立たぬ」
平手政秀は、その言葉を聞いて小さく息をついた。
戦国では珍しい考えだった。
忍びを単なる汚れ役ではなく、軍の一部として見ている。しかも武士の下ではなく、武士と同じ戦の道具立ての中に置いている。まだ子供の口から出る発想ではない。だが、吉法師がそう言うと、妙に筋が通って聞こえる。
少女はしばらく何も言えなかった。
自分のような者を、役に立つと言う。それも、使い捨ての影としてではなく、戦に必要な「目」として。
驚いていた。
それと同時に、少しだけ胸の奥を掴まれたようでもあった。
「……変な殿様」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。
吉法師は少しだけ笑った。
「またそれか」
「だって、本当に変だもの」
「そうか」
「普通は、忍びなんて嫌う」
「おぬしは嫌われ慣れておるのか」
少女は一瞬だけ言葉を止め、それから小さく肩をすくめた。
「まあ、そうね」
その声は、冗談めかしていたが、どこか本物の寂しさを含んでいた。
吉法師はその機微にまで気づいたかどうか、表には出さなかった。ただ、あまり深入りせずに言った。
「なら、少しは面白くなっただろう」
少女は思わず笑ってしまった。
「何、それ」
「嫌われるだけではつまらぬ」
「本当に変」
そう言いながらも、その笑みは昨日より柔らかかった。
平手政秀は、二人のやり取りを見ながら深くため息をついた。
厄介だ。実に厄介だ。敵方かもしれぬ忍びと、自家の嫡男が庭先で奇妙に意気投合し始めている。教育係としては胃が痛くなる光景だが、同時に、吉法師がどこへ目をつけているのかが少しずつ見えてきてもいた。
戦は正面からぶつかるものではなく、始まる前から勝ち筋を作るもの。
そのために必要なのは、兵だけではない。
目となる者。耳となる者。流れを掴む者。
吉法師の頭の中では、もうそういう戦が始まっているのだろう。
少女は最後に、吉法師をじっと見つめた。
「……あなた、本当に尾張のうつけなの?」
吉法師は即答した。
「うむ」
「そこは否定しないのね」
「否定するほどのことでもない」
その答えに、少女は呆れたように笑った。
風が吹く。庭の松がざわりと揺れ、木漏れ日が白砂の上で崩れる。少女はその揺れに紛れるように一歩下がった。
「また来るわ」
「うむ」
「今度はもっと上手く隠れる」
「それでも見つける」
少女は、今度ははっきりと笑った。
「そういうと思った」
そのまま、来た時と同じように静かに姿を消していく。植え込みの影をひとつ越えたところで、もう小袖の端さえ見えなくなった。
しばらくその方向を見ていた吉法師は、小さく息を吐いた。
「やはり面白いな」
平手政秀が低い声で言う。
「吉法師様」
「なんだ」
「面白い、では済まぬ相手ですぞ」
「分かっておる」
「本当に分かっておられますか」
吉法師は庭を見たまま答えた。
「だから面白い」
平手は天を仰いだ。
説教は、また別の機会にせねばならぬらしい。那古野城の午後は静かだったが、その静けさの下では、目に見えぬやり取りがすでに始まっていた。




