第16話 忍びの少女
那古野城の城下町は、昼を少し過ぎた頃になると、朝とはまた違う顔を見せる。
朝の市がひと通りの熱を吐き出したあとの通りには、まだ人の流れが絶えず続いていた。
米俵を担いだ男が汗をぬぐいながら蔵の方へ向かい、干した魚を並べた店先では女房衆が値の駆け引きをしている。
鍛冶屋からは鉄を打つ甲高い音が響き、どこかの軒先では味噌を煮る匂いが漂っていた。
土の道には荷車の轍が深く刻まれ、春の終わりを思わせる少し湿った風が、その上の細かな埃を静かに撫でていく。
吉法師は、そんな城下町を一人で歩いていた。
正確には、少し離れたところに平手政秀の差し向けた小姓がついているのだが、吉法師に言わせれば「一人」である。
本人がそう思っている以上、周囲の人間にとっても半分はそういうことになってしまうのが、この少年の厄介なところだった。
今日は特に何か買うつもりがあるわけでもないらしい。ただ、町を見ていた。
米屋の前で人が何人立ち止まるか。鍛冶屋の炉の前には何人の奉公人がいるか。
薬売りの荷箱を覗き込む者は、どんな顔をしているか。
そんなことを一つひとつ眺めながら、吉法師は気ままに歩いていく。
だが、今日は少しだけ、いつもと違う感覚があった。
視線だ。
誰かに見られている。
最初にそう感じたのは、古着屋の前を通った時だった。
背中のあたりに、針の先ほどの小さな違和感が走った。
振り向いても、そこにはただ買い物をする女房と、荷を抱えた男と、遊び回る子供たちしかいない。
だが、違和感は消えない。
吉法師はそのまま何事もなかったように歩き続けた。
気づいていないふりをする時の方が、相手は油断する。
そういう理屈を、この歳にしてどこで覚えたのかは平手政秀にも分からない。
ただ、吉法師という少年は、妙なところで勘が鋭かった。
角を一つ曲がり、人通りが少し細くなる路地へ入る。
表通りほどの賑わいはないが、その分だけ、店の裏手や住まいの気配が生々しく近い。
干された着物が風に揺れ、井戸端では二人の女が小声で噂話をしている。
路地の奥には小さな祠があり、その手前で猫が昼寝をしていた。
そこで、吉法師はふと足を止めた。
井戸のそばに、一人の少女が立っていた。
年の頃は、自分とそう変わらないか、少し上か。
町娘らしい地味な小袖を着て、髪も派手ではない。手には小さな籠を提げていて、ぱっと見たところでは、ごく普通の娘にしか見えなかった。
だが――
普通すぎた。
吉法師は目を細める。
城下町の娘なら、もう少し町の空気に馴染んでいる。
視線の置き方も、立ち方も、足の開き方も、この町の女たちはもっと生活に寄っている。
だが目の前の少女は違った。
立っているだけなのに、どこか無駄がない。
力が抜けているように見えて、いつでも動ける体の置き方をしている。視線もぼんやりしているようで、実際には周囲をきちんと拾っていた。
そして何より、この路地にいる理由が薄い。
井戸のそばに立つなら、水を汲むか、誰かを待つか、噂話に加わるか、そのどれかであるはずなのに、少女はそのどれでもない顔をしていた。
吉法師は何気ない調子で近づいた。
「水を汲まぬのか」
少女が顔を上げる。
黒目がちの、静かな目だった。驚いたようにも見えたが、それは一瞬だけで、すぐに町娘らしい穏やかな顔へ戻る。
「……え?」
「籠を持って井戸の前におる。だが桶も持っておらぬ」
少女は少しだけ笑った。
「少し休んでいただけよ」
「そうか」
吉法師はそう言って、その場で立ち止まった。
少女も黙る。
二人の間を、春の終わりの風が静かに抜けていった。
どこかの家の軒先で風鈴代わりの小さな鈴が鳴り、遠くの表通りからは商人の呼び声がかすかに聞こえてくる。
しばしの沈黙のあと、吉法師は何でもないように言った。
「おぬし、尾張の者ではないな」
その一言で、少女の目がほんのわずかに揺れた。
それはほんの一瞬のことだった。普通の大人なら見逃す程度の揺れだ。だが吉法師は見逃さなかった。むしろ、その一瞬を待っていたかのように口元を緩める。
少女はすぐに首を傾げてみせる。
「何を言ってるの」
「言葉だ」
「言葉?」
「尾張の町娘なら、もう少し音が柔らかい」
少女は沈黙した。
たしかに今の一言には、わずかにこの土地とは違う響きがあった。だがそれだけで断ずるのは乱暴すぎる。普通ならそう思う。だからこそ、少女もすぐには認めなかった。
「人違いではなくて?」
「では、歩き方だな」
今度こそ、少女はわずかに眉を動かした。
「歩き方?」
「静かすぎる」
吉法師は、少女の足元に目を落としながら言った。
「音を立てぬように歩く癖がある。町娘なら、そんな歩き方はせぬ」
少女の唇がほんの少しだけ引き結ばれた。
それでもまだ、彼女は逃げも怒りも見せない。むしろ相手の出方を見ている。そこで吉法師は、さらに一歩だけ踏み込んだ。
「おぬし」
そう言って、真っ直ぐにその目を見る。
「忍びだな」
空気が、ぴたりと止まった。
路地の奥で鳴いていた鳥の声が急に遠く感じられる。井戸の縁に落ちた木漏れ日さえ、少し硬くなったように見えた。
少女は明らかに動揺していた。
だがそれは、腰を抜かすような動揺ではない。心の中で何かを素早く組み替えている時の顔だった。目の前の少年が何者で、どこまで気づいていて、自分がどう返せば最も安全かを、息を吸うより早く考えている顔である。
ややあって、少女は笑った。
「面白いことを言うのね」
「面白いだろう?」
吉法師は平然としている。
「普通の町娘ではない。尾張の者でもない。立ち方に隙がない。人を見ている目をしておる。なら、忍びか、どこかの手の者だ」
少女は籠を持つ手に少しだけ力を込めた。
吉法師はそれにも気づく。
逃げる気か、攻める気か、あるいは誤魔化し通すつもりか。いずれにせよ、ただの町娘ではないという確信だけは、もう揺るがなかった。
「誰の命で来た」
吉法師が訊く。
少女は答えない。
沈黙の代わりに、じっと吉法師の顔を見る。驚きの色はまだ残っていたが、それ以上に、目の前の少年そのものに興味を持ち始めているようにも見えた。
「……おかしな子ね」
ようやく出た言葉は、それだった。
吉法師は少しだけ眉を上げた。
「おかしいのはおぬしだ」
「いきなり人を忍び扱いする方がよほどおかしいわ」
「違うなら、違うと言えばよい」
「言っても信じないでしょう」
「うむ」
あっさり答えられて、少女は本当に少しだけ目を丸くした。
それから、小さく息を吐く。
「……なるほど」
「何がだ」
「尾張のうつけ、という噂」
その言葉に、吉法師の目がわずかに細くなる。
「聞いておるのか」
「ええ。変わり者で、礼もなく、城を抜け出して町をうろつく、どうしようもない嫡男だと」
吉法師は肩をすくめた。
「だいたい合っておるな」
少女はその返しに、一瞬だけ吹き出しそうになったが、かろうじて堪えた。
「でも」
「なんだ」
「噂とは少し違う」
「どう違う」
少女は、今度ははっきりと吉法師を見つめた。
その目には、先ほどまでの警戒に加えて、測るような色が混じっている。
「もっと、馬鹿だと思っていた」
吉法師は口元を少しだけ上げた。
「おぬしも失礼だな」
「先に忍びだなんて言い出したのはそっちでしょう」
その返しがあまりに自然で、吉法師は逆に面白くなった。
この少女、ただ隠れるだけではない。受け答えに無駄がなく、気も強い。それに相手を見て、すぐに口調を変えている。やはり只者ではない。
「名は」
吉法師が問う。
少女は、少しだけ間を置いた。
「それを聞いて、どうするの」
「呼ぶ」
「呼ばれるほど親しくなった覚えはないわ」
「では、忍び」
少女がとうとう笑った。
ほんの短い、だが確かな笑みだった。
「それは嫌」
「なら名を言え」
「嫌よ」
そう言って少女は一歩下がった。逃げるような動きではない。
距離を測り直す動きだ。だが吉法師も追わない。追えば逃げる。
逃げれば次は見つけづらい。そこまで考えているのか、単に面白がっているだけなのかは、本人にしか分からない。
路地の端の方で、隠れて様子を窺っていた小姓が、どう動くべきか分からず困り果てているのが見えた。
平手政秀がここにいたら、きっと頭を抱えたに違いない。
「また会えるか」
吉法師が不意に聞いた。
少女は、その問いに少しだけ驚いたようだった。
「どうして?」
「まだ、おぬしのことを何も知らぬ」
「知らない方がいいこともあるわ」
「だが、知った方が面白いこともある」
少女はその言葉を聞いて、少しのあいだ黙った。
風が吹き、路地の端に干されていた手拭いがはためく。
井戸の水面が小さく揺れ、白い雲の影がそこに崩れた。
やがて少女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……本当に変な子」
「よく言われる」
「知ってる」
そう言うと、少女はくるりと身を翻した。
その動きがまた、町娘らしくなかった。軽い。音がない。
体の軸がぶれず、ひと息で路地の影へ溶け込んでしまう。次の瞬間には、もう人の流れの向こうへ紛れて、どこへ消えたのか分からなくなっていた。
吉法師はその場に立ったまま、しばらくその消えた先を見ていた。
そして、小さく笑う。
「やはり忍びだな」
ようやく駆け寄ってきた小姓が、おそるおそる声をかける。
「き、吉法師様……今の娘は」
「忍びだ」
「えっ」
「たぶん美濃だな」
小姓は目を白黒させた。
「み、美濃!?」
「うむ」
吉法師は平然と頷く。
「美濃の蝮の匂いがしてきた」
小姓にはまったく意味が分からなかったが、吉法師はそれ以上説明しようとはしなかった。
ただ、さきほど少女が立っていた井戸のそばをもう一度見やり、その目を少しだけ細める。
普通の町娘に見えて、普通ではない。
隠していても、隠しきれないものがある。
そして、あちらもまた、こちらを見に来ていた。
そう考えると、妙に胸が躍った。
尾張の城下町は相変わらず人で溢れ、物が動き、声が飛び交っている。
その喧騒の中に、たしかに今、別の国の気配が混じった。
吉法師は踵を返し、那古野城の方へ歩き出した。
「平手に話すか」
そう呟いてから、すぐに首を振る。
「いや、もう少し黙っておくのも面白いな」
それを聞いた小姓は、ますます困った顔をした。だが吉法師は気にも留めず、春の終わりの風の中を機嫌よく歩いていく。
その背の向こうで、城下町の喧騒は絶えず続いていた。
そして、見えないどこかで、あの少女もまた、少年のことを思い返していたかもしれない。




