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第15話 斎藤家の姫

那古野城の午後は、不思議と人の声がよく響く。


朝の張りつめた空気が少しだけほどけ、広間に差し込む光も柔らかくなる頃になると、城の中には武士たちの話し声、小姓たちの足音、台所から運ばれる椀の触れ合う音などがゆるやかに混ざり合い、ひとつの大きな屋敷が静かに息をしているような気配が生まれる。庭では松の影が少しずつ長くなり、風が通るたびに白砂の上を薄く撫でていく。


その日、吉法師は広間の端に寝転ぶでもなく、かといって殊勝に座学に向かうでもなく、縁側に腰をかけて庭を眺めていた。


先日の「美濃の蝮」の話以来、吉法師の興味はあきらかに美濃へ向いていた。斎藤道三という男の生き方に何かを感じたのか、それとも単純に得体の知れぬ相手に心を惹かれたのか、平手政秀にもまだ分からない。ただ、こういう時の吉法師は、何気ない風を装いながら周囲の話をよく聞いている。だからこそ、平手はできるだけ余計な話題を耳に入れたくなかったのだが、世の中はそう都合よくはできていない。


控えの間で、二人の家臣が美濃のことを話していた。


「斎藤殿は恐ろしいが、その娘もなかなかのものらしい」


「帰蝶殿か」


「そうだ。気の強い姫だという」


その言葉に、縁側にいた吉法師の耳が、ぴくりと動いた。


平手政秀はすぐに気づいた。


――聞いたな。


案の定、吉法師は何でもない顔をしたまま、少しだけ身を乗り出している。


控えの間の家臣たちはまだ気づかない。


「気が強いどころではない、とも聞くぞ」


「父親そっくり、か」


「美濃の蝮の娘だ。大人しい姫であるはずがない」


「それはそうだが、女であっても斎藤の血は斎藤の血ということか」


「美濃では、あの姫が睨んだだけで小姓が泣くなどという話まである」


「それは誇張だろう」


「だが、父親に似て人の顔色を見るのが上手いらしい。笑っておっても腹の内が見えぬとか」


そこでようやく、一人の家臣が妙な気配に気づいて振り向いた。


縁側から、吉法師がじっとこちらを見ている。


「……吉法師様」


「続けろ」


家臣たちは思わず顔を見合わせた。


平手政秀は額に手を当てたくなったが、かろうじて堪える。


吉法師は、面白い見世物の続きを待つ子供のような顔をしていた。


「帰蝶というのだな」


「は、はい」


「気の強い姫」


「そのように聞いております」


「父親そっくり」


「……そのように」


吉法師はふむ、と小さく頷くと、縁側から立ち上がって広間の中へ入ってきた。その目はもう完全に好奇心に火がついている。


「よいな」


ぽつりとそう言ったので、家臣たちは一斉に固まった。


「よい、とは……」


「気の強いのは面白い」


あっさりと吉法師は言う。


平手政秀は咳払いを一つした。


「吉法師様」


「なんだ、平手」


「面白い、で済ませてよい話ではございませぬ」


「なぜだ」


「相手は美濃にございます。しかも斎藤家の姫。遊び半分で語るような相手では」


吉法師は少し首を傾げた。


「遊び半分ではない」


「では何でございます」


「興味だ」


あまりにまっすぐに言い切られて、平手は一瞬言葉を失った。


吉法師はさらに続ける。


「父親が美濃の蝮なら、その娘も普通ではあるまい。なら会ってみたい」


家臣の一人が思わず声を上げた。


「殿……」


その「殿」には、困惑と諫めと、わずかな恐れまで混じっていた。


吉法師はその反応を不思議そうに見た。


「なんだ」


「会ってみたい、とは……そのように軽々しく」


「軽くはない」


「しかし」


吉法師はその家臣の前まで歩み寄ると、まるで何かを確かめるように問い返した。


「おぬしらは、あの道三という男を恐ろしいと言った」


「は」


「なら、その娘も恐ろしいのだろう」


「……恐らくは」


「ますます会ってみたいではないか」


広間に沈黙が落ちた。


平手政秀は、もう止めようがない流れになっていることを悟った。吉法師という少年は、怖いと言われれば身を引くより先に、なぜ怖いのかを見たがる。強いと言われれば、その強さの正体を知りたがる。斎藤道三に対してもそうだったが、その娘にまで同じ反応を示すとは、さすがに政秀も少し頭が痛い。


そこへ、奥の廊下から足音が聞こえた。


織田信秀である。


今日の信秀は鎧ではなく、くつろいだ姿だったが、それでも広間へ入ってくるだけで空気がひとつ締まる。家臣たちは慌てて居住まいを正したが、吉法師だけはその場に立ったまま、振り返るだけだった。


「父上」


「何だ、ずいぶん賑やかだな」


信秀はそう言って笑ったが、すぐに家臣たちの困り顔を見て、何があったかを察したらしい。


「また吉法師が何か言うたか」


平手が深く頭を下げる。


「美濃の姫の話が出まして」


信秀の眉がわずかに動く。


「帰蝶か」


「はい」


信秀はそこで吉法師を見た。


「それで」


吉法師は少しも隠さずに言った。


「会ってみたい」


一拍置いて、信秀が笑った。


「ははは」


腹の底から出るような笑いだった。


家臣たちはますます困った顔になる。


信秀は笑いを収めながら言う。


「おぬし、本当に物怖じせぬな」


「怖いのか」


吉法師が聞き返す。


「相手次第だ」


「では父上も、その姫は普通ではないと思うのだな」


信秀は少しだけ考え、口元に笑みを残したまま答えた。


「普通の姫なら、蝮の娘などとは言われぬだろう」


「やはり面白い」


平手は内心で呻いた。


もう駄目だ、と。


信秀はそんな政秀の心中を知ってか知らずか、わざと面白がるように続ける。


「美濃では、父親に似て気丈な姫だと聞く。物怖じせず、口も立つとか」


吉法師は目を細めた。


「なおよい」


家臣の一人が、たまらず口を挟んだ。


「吉法師様、相手は姫君にございますぞ。戦場の相手のように面白がるのは」


「戦場の相手ではないから面白いのだ」


あっさり返され、家臣は言葉に詰まる。


吉法師はさらに言った。


「男の武将なら、強いか弱いかで大体分かる。だが姫は分からぬ」


「分からぬ、とは」


「本当に気が強いのか、ただ噂が大きいだけか。それに父親そっくりと言うが、どこまで似ておるのか見ねば分からぬ」


信秀は腕を組み、楽しそうにその様子を見ていた。


平手政秀は、吉法師の言葉の中に、ただの色恋ではない知的な興味が混じっていることに気づいていた。だからこそ厄介なのだ。女の噂を聞いて浮き足立つ少年ならまだ扱いやすい。だがこの少年は、相手の「中身」を見たがる。しかも、それを悪びれもなく口にしてしまう。


信秀はふと、少しだけ真面目な顔になった。


「吉法師」


「なんだ」


「人を見る時は、噂を半分に聞け」


「半分か」


「褒める噂も、貶す噂もだ。どちらも勝手に膨らむ」


吉法師は少しだけ黙った後、うなずいた。


「では、なおさら会ってみたい」


その返しに、信秀はまた笑った。


「そう来るか」


平手政秀は、もはや制止する言葉を探すのも面倒になりつつあった。とはいえ教育係として黙っているわけにもいかない。


「吉法師様」


「なんだ」


「姫君に会うというのは、そのように軽々しい話ではございませぬ。国と国の繋がり、家と家の立場、様々なものが絡みます」


吉法師は平手の顔を見た。


「つまり大事ということだな」


「……はい」


「なら、なおさら会ってみたい」


再び同じところへ戻ってきた。


平手は、静かに天を仰ぎたくなった。


信秀はそんな政秀を横目で見ながら、いかにも面白がるように言う。


「平手」


「は」


「諦めよ。この顔は、もう頭の中で会うておる顔だ」


確かにそうだった。


吉法師の目は、すでに見ぬ相手を相手にしている時のそれになっている。戦場図を思い描く時と同じ目だ。まだ会ってもいない美濃の姫のことを、気の強さも、父親に似ているという話も、その噂の奥にある何かも、全部ひっくるめて面白がっている。


広間の空気が少し和んだ頃、信秀はふと口元を緩めたまま言った。


「もっとも」


家臣たちが耳を傾ける。


「向こうもおぬしを見れば、同じことを思うやもしれぬぞ」


「何をだ」


吉法師が聞き返す。


信秀は答えた。


「尾張のうつけとは、どれほどの変わり者かとな」


広間のあちこちで小さな笑いが起きた。


吉法師は一瞬だけむっとした顔をしたが、すぐにそれも消えた。


「なら、なおよい」


「なおよい、とは」


「お互いに面白がれば、話は早い」


信秀はとうとう声を立てて笑った。


平手政秀は、もうどうにでもなれという気持ちで静かに息を吐いた。


庭の外では、午後の光が少しずつ傾き始めている。那古野城の白砂は淡く光り、春の風が松葉を鳴らしていた。まだ顔も見ぬ美濃の姫。その名だけが今、吉法師の中で小さな火のように灯り始めている。


そして吉法師は、誰に聞かせるともなく、だがはっきりとした声でもう一度言った。


「帰蝶、か。会ってみたいな」


家臣の一人が、ほとんど呻くように呟いた。


「殿……」


その声に混じる困惑と不安を、吉法師だけは少しも気にしていないようだった。彼の視線はもう、那古野城の外、美濃へ続く道の向こうに向いていた。

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