第14話 美濃の噂
那古野城の朝は、まだ春の冷えをわずかに残していた。
本丸へ続く廊下の板は夜露の気配を含んで少しだけ冷たく、庭の松には朝の光が斜めに差して、長い影を白砂へ落としている。城の奥では小姓たちが水を運び、兵たちは槍の柄を拭き、台所では味噌の匂いと炊き上がる飯の湯気が立っていた。武家の朝らしい、張りつめているようでいて、毎日繰り返される営みの落ち着きもある時間である。
その朝、城の空気はいつもより少しだけざわついていた。
理由は、ひとつの噂だった。
美濃の話である。
織田家の家臣たちが集まる控えの間では、朝からひそひそと声が交わされていた。別段、大声を上げて騒いでいるわけではない。だが、皆が同じ名を口にし、同じ相手のことを思い浮かべていると分かる独特の空気がある。
「また美濃で国人衆が揉めたらしい」
「揉めるだけならいつものことだが、どうも蝮殿が動いたようだ」
「……蝮、か」
その呼び名が出た途端、何人かの表情がわずかに変わった。
美濃の蝮。
斎藤道三。
その名は尾張においても知らぬ者のないほどに響いていた。武門の名家に生まれたわけではない。守護でも守護代でもなく、はじめは油売りとも、行商人とも、寺に出入りする商人上がりとも言われる男だ。それが美濃へ入り込み、己の才覚と腹の据わりだけでのし上がり、ついには国そのものを掴んでしまった。どこまでが本当で、どこからが誇張かは分からない。だが、そうして分からぬまま膨らんだ噂こそが、戦国という時代では人を怪物に見せる。
「まこと、恐ろしいお方よ」
年配の家臣が腕を組みながら言う。「主を追い落とし、家中をまとめ、いまや美濃の実権を握っておる。あれぞ下克上の化け物よ」
別の武士がうなずく。
「油売りが大名になるなど、昔なら笑い話にもならぬ」
「だが今は笑えぬ。美濃の兵も、道も、城も、あの男の手の内にある」
「美濃がひとつになれば、尾張にとっても厄介だがや」
最後の一言には、わずかに尾張訛りが混じっていた。
国境を接する美濃の動きは、尾張の武士にとって決して他人事ではない。守護土岐氏の権威が揺らぎ、その下で力を蓄えた者たちが争い、最後には斎藤道三という一匹の大蛇のような男が全てを呑み込んでいく。彼らはその流れを耳で知っている。だからこそ恐れるのだ。名門の血も、家柄も、古い道理も、あの男の前では当てにならぬのではないか、と。
その話を、少し離れた縁側で吉法師が聞いていた。
本来ならば、こうした大人の話に子供が割って入ることを好む家臣は少ない。だが吉法師という少年は、好かれようが嫌われようが、自分の耳に入ったものをそのまま素通りさせるような性格ではなかった。縁側に腰を下ろし、片膝を立てたまま庭の方を見ていたが、耳だけはこちらに向いていることを、平手政秀はとっくに見抜いている。
「吉法師様」
平手が近づくと、少年は庭から目を離さずに言った。
「美濃の蝮、か」
その口ぶりには、恐れより先に興味があった。
平手は少し表情を引き締める。
「どこまで聞いておられたのです」
「油売りが大名になった、というところまでだ」
「……余計なことばかり耳に入るお方ですな」
「面白い話だからな」
吉法師はそう言うと、ようやく顔を上げた。まだ幼さの残る顔立ちだが、その目だけは妙に冴えている。平手政秀は、その目が戦の話や国の話になるたびに年齢を裏切ることを、もう何度も見てきた。
「平手、美濃の蝮とはどんな男だ」
政秀は少し迷った。
こういう問いかけが、ただの好奇心では終わらぬことを知っているからである。だが、黙ってもいられなかった。
「一言で申せば……とんでもないお方にございます」
「皆そう言うな」
「そう言わざるを得ませぬ」
平手は吉法師の横に立ち、庭を見ながら続けた。「もとは高い家柄でも何でもない。されど、人の心を掴み、敵を欺き、時に主をも押しのけ、美濃一国を呑み込みつつある。武だけではない。策、金、婚姻、脅し、懐柔、使えるものは何でも使う男と聞いております」
吉法師はそれを聞き、少しだけ口元を緩めた。
「よいな」
平手は思わず顔を向けた。
「よい、とは」
「武だけではない、というところだ」
平手は黙る。
吉法師は縁側から立ち上がり、ゆっくり庭へ降りた。白砂を踏みしめる足音は軽いが、その歩き方には妙に迷いがない。
「大名というのは、立派な家に生まれるものではないのか」
平手が聞くと、吉法師は肩をすくめた。
「それでなれるなら、誰も苦労せぬ」
「吉法師様……」
「下から上へ食らいついていく。面白いではないか」
その言い方があまりに率直で、平手は返す言葉を失った。武士の家に生まれた者が、他家の下克上を無邪気に面白がるべきではない。まして織田家の嫡男である。だが吉法師の興味は善悪や格式の外側にある。強いか、弱いか。面白いか、つまらぬか。使えるか、使えぬか。その見方でしか人を見ていないようなところがあった。
やがて、控えの間にいた家臣の一人がこちらへ歩み寄ってきた。
年の頃は四十を少し過ぎたあたりで、髭をきれいに整えた男である。吉法師にも一礼したが、その目には「子供の前で話しすぎたか」という色がまだ少し残っていた。
「吉法師様、美濃の話はあまりお心に留めぬ方がよろしゅうございます。あれは恐ろしい男にございますゆえ」
吉法師は振り向き、じっとその男を見た。
「恐ろしいからこそ知りたい」
家臣は言葉を詰まらせる。
吉法師は続けた。
「人に恐れられる男は、なぜ恐れられる」
「それは……」
「兵が強いからか。金があるからか。騙すのが上手いからか。あるいは、皆が勝手に恐れておるだけか」
家臣はすぐには答えられなかった。隣で聞いていた平手も、少年の問い方に思わず息を呑む。この子は人の強さを、武勇の一言で片づけない。噂の裏に何があるかを知ろうとする。
やがてその家臣は、慎重に言った。
「美濃の蝮と呼ばれるのは、何を考えておるか分からぬからでしょうな」
「ほう」
「味方のように近づき、敵に回れば容赦がない。家柄に寄りかからず、されど家柄ある者を利用し、使えなくなれば切り捨てる。まるで蛇のように静かで、噛みつく時は一息だと」
吉法師は少しだけ黙った後、くつくつと笑った。
「ますます面白い男だ」
その場にいた者たちは一様に困った顔をした。たいていの子供なら、恐ろしい話を聞けば身をすくませる。だが吉法師は、よい玩具を見つけたような顔をしている。
そこへ、さらに別の家臣が加わった。今度は軍役にも出る壮年の武士である。彼は腕を組みながら言った。
「ですが、吉法師様。ああした下克上の者は、いつかまた自らも下から食われます。古い家柄には古い家柄の強みがありまする」
「血筋か」
「左様です」
吉法師は首を傾げる。
「血筋だけで兵は動くか」
武士はむっとしたが、すぐには言い返せない。
吉法師はさらに問うた。
「血筋だけで城は落ちぬだろう」
「それは」
「結局、人を従わせるものがいるのだ。怖さか、恩か、金か、策か、それとも全部か」
平手政秀は、そのやり取りを聞きながら胸の内で苦笑した。まだ幼いはずの少年が、まるでどこかの老練な武将のように人を値踏みしている。そしてそれを悪びれもせず口にしてしまうから、聞かされる側は困惑するしかない。
その時、広間の奥から低い笑い声が聞こえた。
「朝から随分と難しい話をしておるな」
織田信秀である。
いつからそこにいたのか、廊下の影から歩み出てきた信秀は、家臣たちの間に自然と道を作らせるような存在感をまとっていた。鎧姿ではなく普段着ではあるが、肩幅の広さ、歩き方の重み、目つきの鋭さが、この男をただの父親には見せない。
家臣たちはすぐに居住まいを正した。
「殿」
信秀は片手を軽く振ってそれを制し、吉法師へ視線を向けた。
「美濃の蝮が気になるか」
吉法師は少しもためらわず、うなずいた。
「うむ」
「なぜだ」
「下から這い上がった男だからだ」
信秀はわずかに笑みを深くする。
「それだけか」
吉法師は少し考え、それから言った。
「家柄に頼らぬのは強い」
平手政秀は、思わず信秀の表情を見た。信秀もまた、名門の上にあぐらをかいて生きてきた男ではない。尾張の中で諸勢力と渡り合い、力を伸ばしてきた戦国武将である。だからだろうか、信秀は吉法師のその言葉を鼻で笑って流したりはしなかった。
「なるほどな」
そう言ってから、信秀は庭へ視線を流した。
「道三は確かに面白い男よ。敵に回せば厄介、味方にできればこれほど頼もしい者もおるまい。ああいう手合いは、人の上に立つ前に人の下で耐えることを知っておる」
吉法師はその言葉を聞いて、さらに興味を深めたようだった。
「父上は会ったことがあるのか」
「ある」
信秀は短く答えた。その一言だけで、家臣たちの空気が少し変わる。信秀の口から直接、斎藤道三の名が語られる重みがあった。
「どういう男だ」
吉法師の問いはまっすぐだった。
信秀は少しだけ目を細める。
「笑っておっても腹の底が見えぬ。だが、人の腹を見抜くのは上手い。武辺者というより、国そのものを賭場のように扱う男だ」
吉法師は息を漏らすように笑った。
「面白い男だ」
その言葉には、今度こそ誰も驚かなかった。ああ、この少年ならそう言うだろう、という諦めにも似た納得が、その場に流れたのである。
信秀は吉法師を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「ただし」
「なんだ」
「面白いからといって、近づけば食われる」
吉法師は少しだけ口元を上げた。
「食われぬように近づけばよい」
平手政秀は思わず目を閉じた。父に似ているのか、それとも父以上に面倒なのか、いよいよ分からなくなる返しである。
信秀はしかし、腹の底から楽しそうに笑った。
「ほう。言うようになったな」
そして家臣たちの方へ振り返り、どこか面白がるように言う。
「怖い怖いと噂するだけでは相手は分からぬ。蝮なら蝮で、なぜ蝮と呼ばれるのかを見よ。噛みつく牙か、這い回る知恵か、あるいは周りが勝手に恐れておるだけか」
その言い方は、先ほど吉法師が口にした問いとどこか重なるものがあった。平手は、親子だ、と内心で呟く。似てほしくないところほど、妙に似ていく。
しばらくして家臣たちがそれぞれの役目へ戻り始めると、庭には吉法師と信秀、平手政秀だけが残った。
春の風が吹き、松の枝を鳴らす。庭の白砂の上には、雲の影がゆっくり流れていく。
吉法師はその影を見ながら、ぽつりと尋ねた。
「平手」
「は」
「美濃には娘もおるのか」
平手は少しだけ目を瞬いた。
「娘、でございますか」
「蝮の娘だ」
信秀が先に笑った。
「おるぞ。気の強い姫だと聞く」
吉法師は、へえ、とでも言うように小さく息をついた。その顔つきは、まだ何も知らぬ少年のものでありながら、次の面白そうなものを見つけた者の色を確かに帯びていた。
「娘まで面白いのか」
信秀は肩を揺らして笑う。
「さてな。父親があれだ、穏やかな姫ではあるまいよ」
吉法師は少し黙ったあと、あまりにも率直に言った。
「会ってみたいな」
平手政秀は、嫌な予感というものが人の胸にどのように生まれるかを、その一言でよく理解した。
那古野城の庭には、まだ朝の光がやわらかく差している。だが、その光の中で生まれた小さな興味は、吉法師の中でただの好奇心では終わらぬ気配をすでに持っていた。
そして平手は、その横顔を見ながら、静かに眉をひそめたまま何も言わなかった。少年の目は、もう尾張の内側だけを見てはいなかった。




