第13話 金の力
那古野城の一角にある広間は、昼を少し過ぎた頃のやわらかな光に満たされていた。
障子越しの日差しは白く、まだ春の冷たさを少し残した風が、ときおり庭の松を揺らしている。
畳の上には重臣たちが座し、脇には若侍や小姓が控えていた。
本来ならば、こうした場で語られるのは兵の動きや近隣の国衆の不穏な様子、あるいは田畑の出来や年貢の取り立てのことだ。
武士の広間である以上、話の中心にあるのは常に「戦」であり、「治めること」であり、そして「守ること」である。
だがその日の広間には、どこか落ち着かぬ気配があった。
理由は一つ。
上座でもなく、かといって末席でもない微妙な位置に、吉法師が平然と座っていたからである。
まだ年若いとはいえ、織田家の嫡男。だがその座り方には妙な気負いがない。
背筋は伸びているが、肩肘張ってもおらず、目だけがきょろりと人の顔や広間の様子を見回している。
その表情には、退屈しているような、逆に何かを待っているような、不思議な落ち着きがあった。
平手政秀は、その横顔をちらりと見て、胸の奥でひとつ息をついた。
昨日、城下町で商人たちと話して以来、吉法師は妙に静かだった。それがかえって不気味である。
騒がぬ時ほど、この少年は頭の中で何かを組み立てている。長く見てきた政秀には、それが何となく分かるようになっていた。
やがて、年配の家臣が口を開いた。
「このたびの小競り合い、兵の数をもう少し増やせば、より早く片がついたかもしれませぬな」
別の武士がうなずく。
「うむ。やはり戦は数です。兵が多ければ押し切れます」
「足軽の数を増やし、槍を揃えれば、近隣の小勢など恐るるに足りませぬ」
いかにも武士らしい話だった。
広間にいる者の多くも、それに異論はないように見える。
戦とは兵を集め、槍を揃え、勢いを持って相手を押し潰すものだ。
戦国の世に生きる武士にとって、それは半ば常識のようなものであった。
その時、吉法師がぽつりと言った。
「兵を増やすにも金がいるな」
声は大きくなかった。だが、不思議と広間の空気を切るようにはっきり響いた。
何人かの家臣が吉法師を見る。
先ほどまで兵数の話をしていた年配の武士が、少し困ったように笑った。
「それは、まあ……おりますな」
吉法師はそこで終わらなかった。
「槍を増やすにも金がいる」
広間が少し静かになる。
「弓も金、馬も金、鎧も金だ。兵を集めれば飯も食わせねばならぬ」
その言葉に、若侍の一人が眉をひそめた。武士の広間で「金」という言葉をそれほど露骨に重ねること自体が、どこか生々しく感じられたのである。
だが吉法師はまるで気にしない。
「兵は飯を食う」
そう言って、畳の上を指で軽く叩く。
「飯は田から取れる。だが田を守るにも兵がいる。兵を動かすにも金がいる。武器は金がいる」
そして、広間にいる全員を見回しながら、あっさりと言った。
「つまり戦は金だ」
空気が止まった。
誰もすぐには口を開けなかった。
あまりに身も蓋もない。だが、言っていることが間違っているとも言い切れない。むしろ正しすぎるほど正しいからこそ、武士たちは一瞬返す言葉を失ったのである。
やがて、ひげを蓄えた年配の家臣が咳払いをした。
「吉法師様、それではまるで商人のようですぞ」
「そうか」
吉法師は平然としている。
「だが、商人の言うことの方が、戦よりよく回っておるように見えた」
この言葉に、数人の武士が顔を見合わせた。
平手政秀は黙ったまま、吉法師の横顔を見つめていた。
城下で何を見てきたのか、その答えが少しずつ広間にこぼれ落ちてきているように思えた。
若侍の一人が、やや反発するように言った。
「しかし武士が銭勘定ばかりしていては、武士の誇りが立ちませぬ」
吉法師はその言葉に少しだけ首を傾げた。
「誇りは飯になるか」
若侍が言葉を詰まらせる。
吉法師はさらに続けた。
「腹の減った兵は動かぬ。槍の折れた兵は戦えぬ。馬に飼葉をやれねば駆けぬ。皆、金だ」
その言い方は、幼子の無邪気な残酷さとでも言うべきものだった。理屈に一切の遠慮がない。武士の面目も、建前も、綺麗ごとも、片端から剥いでしまう。
広間の端に控えていた小姓たちでさえ、息を呑んでいる。
年配の家臣がやや慎重に言った。
「では吉法師様は、金さえあれば戦に勝てるとお考えですか」
「いや」
吉法師は即座に否定した。
「金だけでも勝てぬ。だが、金がなければもっと勝てぬ」
この返しには、さすがに平手政秀も心の中で唸った。
武士たちの中には、露骨に眉をしかめる者もいた。
織田家の嫡男が、まるで商家の若旦那のように話している、と感じた者もいるだろう。
だが同時に、その理屈の芯にある冷静さに、誰もが少なからず圧されていた。
吉法師はその空気の変化に気づいているのかいないのか、さらに言葉を重ねた。
「城下の米商人は、今年の米の出来で町が荒れるかどうかを考えていた。鍛冶屋は、戦が近ければ槍先と鏃の注文が増えると言っていた。薬売りは、戦の後ほど薬が売れると言っていた」
そこまで言って、少し笑う。
「つまり、戦が起こる前から、町はもう戦っておる」
平手政秀の目が細くなった。
これは、ただ商人を面白がっている子供の話ではない。戦の外側にあるもの――米、鉄、薬、道、人の流れ。そうしたものが武士の戦にどう繋がっているかを、この少年は感覚で掴んでいる。
若侍の一人が、おそるおそる口を開いた。
「ですが、金を集めるにも限りがありましょう。年貢を重くすれば民が苦しみます」
吉法師はうなずいた。
「そうだ」
「では、どうするのです」
広間にいた者たちが、自然と吉法師の方を向いた。
吉法師は少し考えるように障子の外を見た。
庭の向こうには、那古野城下へ続く町並みがある。多くの人が行き交い、物が運ばれ、銭が回る場所だ。そこで昨日見た光景が、まだはっきりと頭に残っているのだろう。
「人を集める」
ぽつりと吉法師は言った。
「は?」
「人が集まれば物が動く。物が動けば銭が動く」
年配の家臣が首をひねる。
「それは町の理でございましょう」
「国も同じだ」
吉法師は言う。
「売る者が多く、買う者が多く、道が通っておれば、国は栄える。国が栄えれば兵が持てる」
そして、その年齢には不釣り合いなほど落ち着いた声で言った。
「ならば、商いしやすい国が強い」
広間は再び静まり返った。
それは武士の理より、まるで国を治める者の理屈だった。
しかもただの理想ではない。人と物と金の流れから戦の土台を作るという、現実そのものの考えである。
平手政秀は、自分の手の内にある扇をゆっくり握り締めた。
この子は、戦場で兵の動きを見ていた時もそうだったが、何かを一つだけで見ない。
戦なら戦だけ、町なら町だけでは終わらない。それらを繋ぎ、一つの大きな流れとして見ている。
普通の武士が「槍を何本増やすか」を考えるところで、この少年は「そもそもどうすれば槍が増やせる国になるか」を考えている。
ふと、広間の上座から低い笑い声が聞こえた。
「面白いことを言う」
織田信秀である。
いつから聞いていたのか、広間の奥で腕を組んで座していた。豪胆な顔に、いつもの笑みが浮かんでいる。
「殿」
家臣たちが慌てて姿勢を正す。
信秀はそれを手で制し、吉法師を見た。
「おぬしは、戦の話をしておるのか、それとも商いの話をしておるのか」
吉法師は一瞬だけ考え、すぐに答えた。
「同じことだ」
広間のあちこちで息を呑む気配があった。
信秀はしばらく黙っていたが、やがて楽しそうに笑った。
「なるほど」
そして家臣たちを見渡した。
「武士らしからぬ、と言いたい者もおろう。だが、こやつの言うことにも理はある」
年配の家臣が慎重に言う。
「しかし殿、あまりに商いを重んじれば、武士の家が商家のように見られかねませぬ」
信秀は笑みを消さずに答えた。
「武士の面目で国が強くなるなら、それもよかろう。だが国が痩せては意味がない」
そして吉法師を見る。
「おぬしは、どういう国がよいと思う」
吉法師は迷わなかった。
「人が集まる国」
「なぜだ」
「人が来る国は、物が集まる。物が集まる国は、金が集まる。金が集まる国は、戦にも強い」
信秀はその言葉を聞くと、ゆっくり頷いた。
平手政秀は横目で家臣たちの表情を見た。困惑している者、納得しきれずにいる者、そしてわずかに感心したような顔をしている者。反応はまちまちだったが、一つだけ確かなのは、この場にいる全員が吉法師の言葉を無視できなくなっているということだった。
若侍がぽつりと呟く。
「まるで、商いを開いて国を強くしようと言っておるようだ」
その何気ない一言を、吉法師は聞き逃さなかった。
「そうだ」
若侍が目を見開く。
吉法師は続けた。
「道が開け、人が来て、物が売れる。皆がそこで得をすれば、国も強くなる」
そして少しだけ笑った。
「戦で奪うばかりが能ではない」
その言葉は、まだ幼い吉法師が気まぐれに口にした理屈に過ぎないのかもしれない。
だが平手政秀には、そうは思えなかった。
尾張の城下町で見た人の流れ。
商人との会話。
戦場で見た兵の動き。
それらがこの少年の中で結びつき始めている。
今はまだ形のない発想に過ぎない。だが、もしこれが本当に国の形を変える考えだとしたら――。
平手は、静かに息をついた。
吉法師はもう議論の熱から半ば気持ちを離し、庭の向こうへ視線を流していた。風が松を揺らし、障子越しの光が少しずつ傾いていく。
信秀が最後に笑いながら言った。
「平手」
「は」
「また面倒なことを考えるようになったな、こやつは」
平手政秀は一瞬返す言葉を失ったが、やがてごく静かに答えた。
「……はい。されど、面倒なだけで済むかどうか」
信秀はその言葉に、ますます面白そうな顔をした。
広間にいた武士たちはまだ困惑を顔に残していたが、誰も先ほどまでのように「兵の数だけで戦は決まる」とは言わなくなっていた。
そして吉法師は、畳の縁に指先を置きながら、まるで独り言のように小さく言った。
「強い国は、戦の強い国ではないのかもしれぬな」
その声はあまりに小さく、誰に向けたものでもなかった。だが平手政秀だけは、それをはっきり聞いていた。
広間の外では、那古野城下の賑わいが、春の風とともに遠く微かに届いている。人の声、荷車の軋み、どこかで店を閉め始める音。そのすべてが、武士の広間の向こう側で、絶えず国を動かし続けていた。
そして吉法師の視線は、まるでその流れの先を追うように、静かに町の方へ向いていた。




