第12話 尾張の商人
那古野城の城下町は、昼を過ぎるといよいよ人の熱を帯びてくる。
朝のうちはまだ冷えていた土の道も、今では春の日差しを受けてほのかに温み、行き交う人々の足に踏み固められて細かな埃を立てていた。
道の両脇には板張りの店が軒を連ね、米俵を積んだ蔵、干した魚を吊るした店先、布を扱う商家、味噌や塩を並べた小さな店まで、ありとあらゆるものが並んでいる。
鼻をくすぐる匂いも一つではない。
炭の焦げた匂い、乾いた藁の匂い、魚の塩気、味噌の濃い香り、そして人が多く集まる町だけが持つ、汗と土と生活の匂いが重なって、尾張の城下町はひとつの生き物のように息づいていた。
そんな通りを、今日も吉法師は平然と歩いていた。
着ている小袖は上等なものではあるが、着方がいかにも雑で、片袖が少し崩れ、腰には木刀。
武家の嫡男らしい威厳はまるでない。
だが足取りには妙な迷いのなさがあり、道の真ん中を歩いていても不思議と人が避けていく。
町人たちも、もうこの奇妙な少年を見慣れていた。
「あれ、また吉法師様だがや」
八百屋の女房が野菜籠を抱えたまま笑うと、魚屋の親父も顔を上げた。
「今日は何しに来たんだ。魚なら高いぞ」
吉法師は魚屋を一瞥しただけで言った。
「魚はよい。今日は商売の話だ」
その返しがあまりに唐突で、近くにいた町人たちが一斉に顔を見合わせた。
「商売?」
「殿様の子が?」
「また妙なこと言い出したがや」
笑い声が起きる。だが吉法師は気にも留めず、人の流れを眺めていた。荷を運ぶ男、値を交渉する商人、帳面を抱えて忙しなく走る奉公人。
城の中にいれば見えないものが、町にはいくらでもある。
その一つ一つが、吉法師には面白くて仕方がないらしい。
少し離れたところから、その背を追っている者がいた。
平手政秀である。今日ばかりは怒鳴るでもなく、やや疲れた顔で少年の後を見守っていた。
昨夜のことを思えば、今はただ城下町を歩いているだけでも穏やかに見える。
もっとも、吉法師が穏やかなまま終わるはずがないという予感は、政秀にもはっきりあった。
案の定、吉法師は通りの一角で足を止めた。
そこには大きな米俵がいくつも積まれ、店先では小柄な男が帳面をめくりながら客と話していた。
色の落ちたがよく洗われた着物に、指先は米糠で白くなっている。米商人の店だ。
吉法師は積み上がった俵を見上げて言った。
「おぬし、これを皆売るのか」
米商人の男は最初、目の前の少年が誰か分からずにいたが、後ろの平手政秀を見て慌てて姿勢を正した。
「こ、これは吉法師様で」
「よいよい、堅くなるな」
吉法師は俵をぽんと叩いた。「で、これを売るといくらになる」
男は目をしばたたいた。
「いくら、と申されましても……年や出来によって違います」
「ふむ」
「それに、すぐ全て売るわけでもありませぬ。蔵に入れるものもあれば、約束した先に回すものもあります」
吉法師は面白そうに眉を上げた。
「約束した先?」
「はい。町の商家もそうですし、寺や武家屋敷に納める分もございます」
「先に決めておくのか」
「決めておかねば商いになりませぬ」
男はそこまで言ってから、恐る恐る付け加えた。
「……吉法師様は、商いのことにご興味が?」
「ある」
吉法師は即答した。そして通りを指さす。
「米が動けば、人も動く。人が動けば銭が動く。城の中におると、その動きが見えぬ」
米商人はぽかんとした。周りで聞いていた町人たちも、笑うつもりで寄ってきたのに、妙に真面目な話になったので黙っている。
吉法師はさらに聞いた。
「今年、米が不作ならどうする」
「値が上がります」
「値が上がれば、買えぬ者が出るな」
「……出ます」
「すると町は荒れるか」
米商人の顔が少し強張った。
「荒れぬとは言えませぬ」
「つまり米は食い物であるだけでなく、町を動かすものだ」
男は答えに詰まり、やがて低く頭を下げた。
「恐れながら……その通りにございます」
吉法師は満足そうに頷いた。その様子は、子供が面白い玩具を見つけたときの顔にも見えるし、武将が新しい武具を手にしたときの顔にも見えた。
「面白いな」
その一言に、米商人は思わず苦笑した。
米の値で頭を抱える側からすれば、到底「面白い」で済む話ではない。
だが吉法師は本気でそう思っているらしい。
そこへ、通りの向こうから甲高い鉄の音が響いた。
かん、かん、かん、と規則正しく鳴るその音に、吉法師はすぐ振り向く。鍛冶屋の店先で、赤く焼けた鉄を打っているのだ。
「今度はあっちだ」
平手が小さく言った。
「……やはりそうなりますか」
吉法師はすでに歩き出している。
平手はため息をつきながら後を追った。
鍛冶屋の前は、米屋とは違う熱気に満ちていた。
炉の火が赤々と燃え、炭の匂いが鼻をつく。鍛冶屋の主人は上半身を汗で光らせながら槌を振るい、若い職人がふいごを動かしている。
打たれる鉄は火花を散らし、そのたびに店先の空気がびりっと震えるようだった。
吉法師はしばらく黙ってそれを見つめた。
「それは刀か」
主人は槌を止め、汗を拭いながら振り返った。
「いえ、今日は槍先にございます」
「槍か」
吉法師は鉄の形を眺める。「これ一本作るのに、どれだけ銭がいる」
鍛冶屋の主人は眉をひそめた。
「また変わったことを聞かれますな」
「よいから言え」
主人は少し考えたあと、材料の鉄、炭、手間、職人の賃のことまで、おおまかに話してみせた。
普通の武家の子なら、槍ができること自体には興味を持っても、その値や手間にまでは目を向けない。
だが吉法師は一つ一つを聞き漏らすまいとするように耳を傾けていた。
「つまり、武器は鍛冶屋だけではできぬのだな」
「は?」
「鉄を持ってくる者が要る。炭を焼く者が要る。打つ者が要る。売る者も要る」
主人はしばし黙り込み、それから不思議そうに笑った。
「そう言われれば、まあ……そうで」
「戦の前には注文が増えるか」
「増えますな。槍も、鏃も、鎧の修理も」
吉法師は目を細めた。
「戦は始まる前から金を食うのだな」
その言い方に、平手政秀が思わず顔を上げた。鍛冶屋の主人も、口を半ば開けたまま止まる。
吉法師は炉の火を見ながら続けた。
「兵を集めるにも金がいる。米にも金がいる。武器にも金がいる。勝ったあとも褒美で金がいる。では、戦とは結局なんだ」
誰も答えない。
吉法師は、自分で答えを言うのを楽しむように口元を少し緩めた。
「金だ」
鍛冶屋の主人が目を丸くする。
「そこまで言いますか」
「言う」
吉法師は振り向いて、通りを行き交う人々を見た。
「刀を振るうのは武士だが、武士が戦うための土台は町が作る。ならば、強い国とは兵が多い国ではなく、銭が動く国だ」
平手は何も言えなかった。
戦場図を砂に描いて見せた昨夜も驚かされたが、今日はまた別の方向から胸を衝かれる。
戦を戦としてだけで見ていない。戦の周りにあるもの――米、鉄、人、町、その全てを一つにつなげて考えている。
鍛冶屋の主人は、やがて乾いた笑いを漏らした。
「武士なのに、まるで商人みたいなことをおっしゃる」
「商人の方が面白いかもしれぬな」
吉法師は平然と言う。「戦より儲かるのではないか」
その言葉には、さすがに周囲がざわついた。
「な、何を」
「殿様の子が」
「戦より商い、だと?」
鍛冶屋の主人も、米商人も、いつの間にかついてきた町人たちも、皆一様に驚いた顔をしている。
武士とは戦うものだ。
土地を守り、奪い、刀で生きるものだ。そんな時代に、織田家嫡男が「戦より儲かる」と言う。
その感覚は常識から少し外れすぎていた。
だが吉法師はまったく悪びれなかった。
「戦は勝っても損をすることがある」
「損、でございますか」
米商人が思わず聞き返す。
「兵が死ぬ。田が荒れる。金が減る。勝ったと言っても、減るものばかりなら下手な戦だ」
そして吉法師は、通りの向こうに見える多くの店先を顎で示した。
「だが商いは違う。物が動き、人が集まり、銭が回る。皆が得をするなら、その方が強い」
薬草の香りが風に乗って漂ってきたのは、その時だった。
振り向けば、通りの端に荷を広げた薬売りがいる。小箱に干した草、粉薬、丸薬、小さな壺。旅をしながら商う類の男らしく、日に焼けた顔に、人の懐へ入り込む柔らかい笑みを浮かべていた。
どうやら話を聞いていたらしい。
「坊ちゃん、面白いことを言いなさる」
吉法師はすぐそちらへ向かう。
「おぬしは薬売りか」
「へえ。尾張だけでなく、美濃にも伊勢にも参ります」
「国をまたいで商うのか」
「商人は道が続く限り行きますとも」
吉法師の目が少し光った。
「道が続く限り、か」
薬売りは膝を折り、小箱の中身を見せた。
「薬は人が生きる限り要ります。怪我にも、腹にも、熱にも。戦の後はもっと売れます」
その言葉に、吉法師はふっと笑った。
「やはり戦は金を食う」
「食いますなあ」
薬売りも笑う。
「ですが、平和な町でも薬は売れます」
「そこだ」
吉法師は指を鳴らした。
「戦の時も売れる。戦がなくても売れる。ならおぬしは強い」
薬売りは目を瞬かせた。
「強い、ですか」
「武士は敵がいなければ戦えぬ。だが商人は人がいれば生きられる」
その言葉に、周囲の者たちはまた黙り込んだ。
平手政秀は思った。
この少年は、やはりどこかおかしい。
武士の子でありながら、武士の理ではなく、人と物の流れを見ている。
戦場に立てば地形と兵の動きを見て、城下に出れば米と鉄と薬の流れを見る。
その視線は常に広く、そして容赦がないほど現実的だった。
薬売りが、試すように聞いた。
「では吉法師様は、武士より商人になりたいので?」
吉法師は少しだけ考え、首を振った。
「いや」
「ほう」
「武士のままでよい」
そして通りの向こう、那古野城の方を見た。
「だが、武士は商人を知らねば弱い」
春の風が吹き、薬草の匂いと炉の熱と米糠の匂いが一緒に流れていく。
城下町というものが、ただ人の集まる場所ではなく、国の血の巡りそのものなのだと、吉法師はもう感じ取っていた。
米商人がぼそりと言った。
「……殿様の子とは思えぬ」
鍛冶屋の主人も腕を組んだまま頷く。
「だが、変なことばかり言うのに、妙に筋が通っておる」
薬売りはにやりと笑った。
「尾張のうつけ、という噂でしたが」
吉法師はその言葉に反応し、少しだけ口元を吊り上げた。
「そう聞いたか」
「ええ」
「なら、その噂はしばらくそのままでよい」
薬売りは吹き出した。
「面白い坊ちゃんだ」
吉法師は笑わず、今度は本当に真面目な顔で町を見渡した。
行き交う人、荷を運ぶ牛、声を張る商人、値切る女房衆、走り回る子供たち。城の中にいては見えない尾張の力が、ここにある。
「尾張は戦だけでは強くならぬな」
誰に言うでもなく呟いたその言葉を、平手政秀だけははっきり聞いていた。
政秀はすぐには何も言わなかった。ただ、吉法師の横顔を見つめる。
まだ八つか、九つの子供にすぎない。だがその目には、武家の嫡男が持つべき気負いとも、子供らしい無邪気さとも違う光が宿っていた。
それは、新しいものを見つけた者の目だった。戦の外側にある力を、初めて本気で掴みかけた者の目である。
やがて吉法師は、満足したように踵を返した。
「帰るぞ、平手」
「もうよろしいのですか」
「今日は分かった」
「何がです」
吉法師は歩きながら答えた。
「国を強くするには、戦の上手さだけでは足りぬ」
そして少し間を置いて続けた。
「面白くなってきた」
その一言を残し、少年は城の方へ歩き出す。
夕暮れの気配が町に降り始め、店先の影が長く道へ伸びていく。
米商人も、鍛冶屋も、薬売りも、しばらくはその小さな背中を黙って見送っていた。奇妙な子供だ、と誰もが思う。
だが、ただの変わり者ではないことも、何となく分かり始めていた。
平手政秀は少し遅れてその背を追いながら、城下町の賑わいを振り返った。
戦場の土を見て何かを掴み、町の商いを見てまた何かを掴む。
吉法師の中で、それらがどう結びついているのか、政秀にはまだすべてが分からない。
ただ一つ確かなのは、あの少年の頭の中では、もうすでに尾張一国では収まりきらぬ何かが動き始めているということだった。
城へ戻る道すがら、吉法師はふと空を見上げた。
夕焼けが、那古野城の屋根の上に薄く広がっている。
「米も鉄も薬も、人が運ぶ」
ぽつりとそう言って、今度は黙る。
平手は横顔を見るが、吉法師はもう別のことを考えているようだった。その視線は、城下町の先、道の続く向こう側へ向いている。
尾張の町は、まだ賑やかな音を立てたままだった。




