第11話 平手政秀の悩み
那古野城の夜は静かだった。
昼の喧騒がすっかり消え、廊下には行灯の灯りだけが揺れている。城の外では夜風が松の枝を揺らし、遠くの櫓から番兵の声が聞こえていた。
平手政秀は、部屋の中で深いため息をついた。
机の上には書きかけの書状が置かれている。だが筆は途中で止まり、墨の跡がじわりと紙に広がっていた。
政秀は筆を置き、額に手を当てる。
「……困った」
誰に言うでもない独り言だった。
織田家に仕えて長い。戦場も幾度となく見てきたし、家中の騒ぎも一通り経験してきた。
だが今、政秀の頭を悩ませているのは――
吉法師である。
今日の夕方、庭での出来事を思い出す。
砂の上に描かれた戦場図。
地形。
兵の動き。
奇襲。
あれは遊びではなかった。
政秀は小さく呟く。
「うつけかと思えば天才」
そしてすぐに眉を押さえた。
「天才かと思えば…」
昼の出来事を思い出す。
城下町。
町人たちと気軽に話す吉法師。
魚屋と笑いながら話し、子供と追いかけっこまでしていた。
政秀は思わず頭を抱えた。
「……殿の嫡男とは思えぬ」
戦の話をすれば武将のような目をする。
だが普段は町の子供と変わらぬ。
まったく掴めない。
政秀は椅子にもたれ、行灯の光を見つめた。
「天才なのか」
少し考える。
「それとも馬鹿なのか」
しばらく沈黙が続いた。
そのとき、廊下から小さな笑い声が聞こえた。
政秀は眉をひそめる。
こんな時間に、誰が騒いでいるのか。
立ち上がり、廊下へ出る。
声は中庭の方から聞こえていた。
月明かりの下。
庭の松の影の近くで、二つの人影が見える。
一つはすぐ分かった。
吉法師である。
もう一人は――
見知らぬ少女だった。
年は吉法師と同じくらいか、少し上。
町娘の格好だが、どこか身のこなしが軽い。
政秀は思わず足を止めた。
吉法師が言っている。
「おぬし、尾張の者ではないな」
少女が少し驚いた顔をする。
「どうして分かるの」
吉法師は笑った。
「言葉」
少女は少し黙った。
政秀の眉がぴくりと動く。
吉法師は続けた。
「それに歩き方」
少女は目を細めた。
「歩き方?」
吉法師は肩をすくめる。
「静かすぎる」
少女は少しだけ笑った。
「面白い殿様ね」
吉法師は答える。
「殿様ではない」
少女は言う。
「そう?」
そして少し近づいた。
「噂は聞いてる」
吉法師が首を傾げる。
「何の」
少女はにやりと笑った。
「尾張のうつけ」
政秀は思わず額を押さえた。
よりによってその言葉である。
吉法師は笑った。
「そうか」
少女はじっと吉法師を見る。
「でも違うわね」
吉法師は首を傾げた。
「何が」
少女は言う。
「うつけじゃない」
そして少し楽しそうに笑った。
「変な男」
政秀はその様子を見ながら、深くため息をついた。
戦の話をすれば天才。
町では人気者。
そして今は見知らぬ少女と夜の庭で話している。
教育係として、どこから手をつければよいのか分からない。
政秀は空を見上げ、小さく呟いた。
「……殿は」
信秀の顔が浮かぶ。
豪胆な武将。
尾張の主。
そして父。
政秀は静かに言った。
「……殿はとんでもないものを残された」
その夜、那古野城の庭では、月明かりの下で吉法師と少女の会話がまだ続いていた。




