第9話 戦術少年
那古野城の夕暮れは、どこか静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように収まり、城の庭には長い影が落ちている。西の空は朱色に染まり、石垣の上を吹き抜ける風はほんのりと冷たくなっていた。
城門の前に、土煙を上げながら軍勢が戻ってくる。
槍を担いだ兵、疲れた馬を引く足軽、鎧の継ぎ目を緩めながら歩く武士たち。戦はすでに終わり、那古野城は再び日常を取り戻そうとしていた。
その隊列の中に、小さな影があった。
吉法師である。
小さな胴丸を着けたまま、馬の上でじっと前を見ていた。戦場から戻ってきたばかりだというのに、顔には疲れよりも考え込むような表情が浮かんでいる。
城門をくぐると、小姓たちが慌てて駆け寄った。
「吉法師様、お怪我はございませぬか」
「ない」
吉法師は短く答え、馬から降りた。
平手政秀がその様子を見て、ほっと息をつく。
「無事で何よりです」
「うむ」
吉法師はそう言いながら、城の庭をゆっくり歩いた。
しかし足取りはどこか落ち着かない。
平手が気づく。
「どうされました」
吉法師は少し考えたあと、ぽつりと言った。
「戦は面白い」
平手は眉をひそめた。
「……面白い、ですか」
「うむ」
吉法師は振り返る。
「だが下手だ」
平手は一瞬言葉を失った。
「誰がです」
吉法師は真顔で言った。
「皆」
その言葉に、近くにいた若い家臣たちが顔を見合わせる。
吉法師はそのまま歩き出した。
「集まれ」
平手が慌てて言う。
「吉法師様?」
吉法師は庭の白砂の上にしゃがみ込んだ。
指で地面に線を引く。
「戦場はこうだった」
砂の上に、道の形を描く。
田んぼの形、丘の位置、兵の動き。
驚くほど正確だった。
平手は思わず身を乗り出す。
「……よく覚えておられますな」
吉法師は言った。
「見たからだ」
そして小石を拾い、砂の上に置いた。
「ここが敵」
次に別の石を置く。
「ここが父上」
家臣たちも、いつの間にか集まっていた。
若侍が言う。
「それで?」
吉法師は石を動かした。
「ここが悪い」
田のあぜ道の部分を指す。
「兵が詰まった」
平手が頷く。
「確かに、あそこは狭い」
吉法師は言う。
「だから崩れた」
家臣の一人が腕を組む。
「それは偶然では」
吉法師は首を振った。
「偶然ではない」
石を動かす。
「ここに弓を置けばよかった」
平手が目を細める。
吉法師は続けた。
「弓で押さえれば逃げられぬ」
若侍が言う。
「しかし兵が足りませぬ」
吉法師は笑った。
「足りる」
「どうやって」
吉法師は言った。
「兵を半分にする」
皆が顔を見合わせた。
「半分?」
吉法師は石を動かす。
「ここに隠す」
丘の影を指す。
「最初は少なく見せる」
平手の目が鋭くなる。
吉法師は続けた。
「敵が来たら、横から出る」
庭の砂の上で石が動く。
戦の形が変わる。
平手は思わず呟いた。
「……奇襲」
吉法師はうなずく。
「そうだ」
家臣の一人が言う。
「それは危険では」
吉法師は答える。
「戦は危険だ」
皆が黙った。
吉法師は石を置き直す。
「戦は数ではない」
平手が聞く。
「では何です」
吉法師は言った。
「場所」
砂の上に大きな円を描く。
「道」
線を引く。
「人」
石を置く。
そして言う。
「全部だ」
夕暮れの庭に、風が吹いた。
砂の上の図が少し崩れる。
だが家臣たちは動かなかった。
誰もが少年を見ている。
まだ八つの子供。
だが。
戦の話をするとき、その目は武将のものだった。
平手は小さく息を吐く。
「……吉法師様」
「なんだ」
「どこで覚えました」
吉法師は首を傾げる。
「見た」
「戦を?」
「うむ」
そして少し笑った。
「簡単だ」
家臣たちは顔を見合わせた。
若侍がぽつりと言う。
「天才か」
別の者が言う。
「いや」
「うつけだ」
平手はその言葉を聞いて、ふと空を見上げた。
夕焼けが城の屋根を赤く染めている。
この少年は――
どちらなのだろう。
天才か。
それとも。
尾張のうつけか。
まだ誰にも分からなかった。




