序章 ――燃え残った謎
六月の終わり、梅雨の湿気がまだ朝の空気に残る時間だった。
都内のマンションの一室では、つけっぱなしのテレビが白々しい光を部屋の中へ流し込んでいる。ソファの上には脱ぎ散らかした上着、ローテーブルには飲みかけのペットボトルと昨夜のコンビニ弁当の空き容器。休日の朝らしい、少しだらしない静けさの中で、テレビだけが妙に張り切った声を上げていた。
『次のニュースです。京都市中京区にある本能寺跡周辺の発掘調査で、新たに地下へと続く未完成の通路状遺構が確認され、その内部から戦国時代後期のものと見られる人骨の一部が発見されました』
画面には、朝の情報番組らしく大きなテロップが躍っている。
“本能寺の変に新展開?”
“地下道発見 信長の遺骨か”
スタジオの空気は、いつもの芸能ニュースとは明らかに違っていた。派手すぎない緊張感と、しかし視聴率の匂いを隠しきれない高揚が混ざっている。キャスターは神妙な顔つきを作っているが、その目はどこか興奮していた。
『現場から中継です』
画面が切り替わる。
朝の京都。曇り空の下、ブルーシートと仮囲いに囲まれた発掘現場の前に、ヘルメット姿のレポーターが立っていた。背後には警備員、忙しなく出入りする研究員らしき人々、そして規制線の外から様子を窺う野次馬たちが見える。
『はい、こちら本能寺跡発掘現場です。現在も調査は続いておりますが、関係者によりますと、今回見つかったのは地中へ向かって斜めに掘り進められた通路状の空間で、幅はおよそ一・二メートル、高さは大人がかがんで進める程度。途中で工事が止まったような痕跡があり、壁面には煤の付着も確認されているとのことです』
画面の端には、現場の俯瞰映像が小さく映っていた。
土を切り開いた断面の中に、確かに人工的な空間が覗いている。ただの穴ではない。逃げ道にしては狭いが、偶然にできたものにしてはあまりにも真っ直ぐすぎる。途中まで作られ、そして放棄された何か。まるで誰かが、どうしても完成させたかったのに間に合わなかった通路のようだった。
『さらに、この地下通路の最深部付近から、焼損した木材片、鉄製品の一部、そして成人男性のものとみられる骨の一部が出土しました』
スタジオが一瞬静まり返る。
レポーターは、あえて一拍置いてから続けた。
『専門家の一部からは、これが本能寺の変に関連する遺構である可能性、さらには織田信長、もしくは近臣の遺骨である可能性も指摘されています。ただし現時点では断定できず、京都市埋蔵文化財研究所などが慎重に調査を進める方針です』
その直後、画面には歴史学者と紹介された白髪の男のコメントが流れた。
『本能寺の変において、信長の遺体は確実には確認されていません。これは歴史上、非常に大きな謎のひとつです。もし今回の遺骨が信長本人、あるいは本能寺で焼死した重要人物のものだとすれば、日本史を書き換える発見になる可能性があります』
“日本史を書き換える”
その言葉は強かった。
強すぎるほどに。
スタジオに戻ると、女性キャスターが少し興奮を抑えた声で言う。
『本能寺の変といえば、一五八二年、明智光秀が織田信長を討ったとされる、誰もが知る歴史的大事件です。ただ、信長の最期については資料によって異同があり、遺骸の扱いについても長年議論が続いてきました』
隣のコメンテーターが、いかにも“分かりやすく説明します”という顔で身を乗り出す。
『地下道というのが気になりますよね。本能寺には以前から、信長脱出説とか、密かな抜け道説もありましたから』
別の歴史好きタレントが、少し身を震わせるように言った。
『えっ、じゃあ本当に信長って、最後の最後で逃げようとしてた可能性もあるってことですか?』
すると学者が、リモート画面の向こうで穏やかに首を振った。
『現段階では何とも言えません。ただ、仮に地下道があったとして、それが脱出路なのか、別の目的の未完成施設なのか、あるいは後世のものなのかも含めて、今後の精査が必要です。ただし、もし本能寺の変当時のものなら、極めて興味深いのは間違いありません』
画面には再び現場の映像が映った。
白い手袋をした研究員が、発掘された骨片を小さなケースに収めている。焼けた木材の黒、湿った土の褐色、その中で、薄く白く浮かぶ骨はひどく脆そうに見えた。
たったそれだけの映像なのに、妙に生々しかった。
四百年以上も前に燃えた寺。
燃えたはずの男。
見つからなかった遺体。
そして今になって、地中から現れた未完成の地下道と、誰かの骨。
歴史の授業で聞けば遠い昔話にすぎないはずのものが、画面の中では急に息を吹き返したように見える。
キャスターが原稿に目を落としながら読み上げる。
『現場周辺では、今月に入ってから本能寺旧跡に関する再調査が進められており、今回発見された地下通路について、研究チームは「通常の基礎工事とは異なる目的性が見られる」とコメントしています。また、焼損状況や出土位置の分析から、通路内部が火災当時すでに使用不能だった可能性もあるということです』
使用不能だった可能性。
その言い回しが、妙に耳に残る。
まるで、誰かがそこを使おうとして使えなかった、とでも言うように。
画面下のテロップが切り替わる。
“本能寺の変 新史料につながるか”
“地下道は脱出路?防火構造?”
“焼損人骨 DNA鑑定へ”
そして最後に、レポーターが声を潜めるように言った。
『なお、現場関係者によりますと、地下道の最深部付近からは、骨のほかに、焼損した扇の金具のような金属片も見つかっているということです。これが本能寺の変とどう関係するのか、今後の調査が待たれます』
扇。
その一語が落ちた瞬間、部屋の中の空気がわずかに変わったように感じられた。
テレビの光は相変わらず白く、部屋は相変わらず散らかっていて、窓の外では車の走る音もしている。何ひとつ変わっていないはずなのに、画面の向こう側だけが急に深くなった気がしたのだ。
キャスターは最後にまとめるように言う。
『本能寺の変から四百四十年以上。最大の謎のひとつとされてきた織田信長の最期に、新たな光が当たることになるのでしょうか』
画面がスタジオ全景へ戻り、番組は次の話題へ移ろうとしていた。
だが、発掘現場の映像は、しばらく脳裏から離れない。
燃えた寺。
未完成の地下道。
見つからなかったはずの骨。
そして、焼けた扇。
もしあの夜、本能寺の炎の中で、誰かが本当に地下へ逃れようとしていたのだとしたら。
もしそこに、信長自身が立っていたのだとしたら。
歴史は、教科書に書かれた形とは少し違っていたのかもしれない。
あるいは――
最初から、まったく別の姿をしていたのかもしれない。
その答えを知る者は、もう誰もいない。
ただ一人を除いては。




