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虹色の雷撃機 二代目相撲の神様 幡瀬川 邦七郎

作者: 滝 城太郎

近年は、小兵力士と呼ばれていても100kg超えは当たり前だが、幡瀬川はちょっと体格のいい常人がそのまま土俵に上がったようなものだった。それでいて195cm160kgの横綱を投げ飛ばすのだから、これはもう神業としか表現のしようがない。当時の観客の目にはまるでスーパーマンのように映ったに違いない。

 柔よく剛を制す、を地でいった大男キラーである。

 対空砲火をかいくぐり、たった一発の魚雷で敵艦を轟沈させる雷撃機のような業師ぶりは「あっぱれ」の一言だった。それも小兵の力士にありがちな、変化技で翻弄して相手の自滅を待つような消極的なものではなく、攻め貫いて倒すところに味があった。


 秋田県雄勝郡幡野村出身の幡瀬川こと佐藤邦七郎は、同郷の人気力士清瀬川敬之助のいる楯山部屋に入門した後、清瀬川が伊勢ヶ濱部屋を興して独立した際に行動を共にした。

 ”相撲の神様”と謳われた名大関大ノ里の好敵手だった清瀬川(最高位関脇)から鍛えられた技のキレは天下一品で、大ノ里とも互角以上の勝負(六勝三敗)を演じている。

 清瀬川は大ノ里に十二勝十一敗一引分とかろうじて勝ち越しているが、この二人の顔合わせはいつも手に汗握る名勝負で、昭和の始め頃には「模範的相撲」と称されるほどだった。しかも、兄弟子は体格的にも一七三センチ七十八キロの幡瀬川より十キロ程度重いだけだったため、その相撲スタイルは格好の手本となった。

 小型軽量の清瀬川が、奇策に頼らず正攻法の相撲で三役の地位を保ち続けられたのは、力士ながら講道館に通いつめ、柔道三段の腕前にまでなった強靭な足腰のおかげである。幡瀬川は柔道経験者でないが、柔軟で体幹も優れていたため、取り組んでいる最中にも相手の出足に合わせて力が集約するポイントを外すような動きをとることが出来た。

 ホームラン打者がいくらタイミングよくフルスイングでボールを捉えても、スイートスポットから少し外れているだけで凡ゴロやポップフライになってしまうのと同様に、突進力のある力士や巨漢力士でも、重心がずれていると力が削がれてしまう。非力な幡瀬川が目指したのはそこにつけこむ相撲だった。

  

 幡瀬川というと、小股掬いと足取りが有名だが、最も多い決まり手は突き出しと寄り倒しで、出羽ヶ嶽、男女ノ川、相模川といった代表的な巨漢力士からもこれらの正攻法で白星を挙げているところなどまさに兄弟子譲りである。

 小兵の力士がいなしやはたきで相手に触れさせずに勝つ相撲も面白いが、幡瀬川は差してから投げ技や足技で相手を振り回して十分な体勢を作ってゆくプロセスに見所があった。逃げの一手の相手であれば、腕力と体格で勝る攻め手は焦らず腰を落として追い詰めてゆきさえすれば勝機が見出せるが、緩急自在の技を次々と繰り出してこられては、じっくり構える間合いが取れないため、いつの間にか浮き足立ってしまい、そこをつけ込まれるのだ。

 「幡瀬川は相撲を取っている最中にも頭を使っている」と言われたのは、常に相手の次の一手を想定しながら体をさばいていたことによるものだ。相手が突くと見ればいなし、引くと見れば懐に飛び込み、相手の力を利用して自身の軽量非力を補う術に長けていた。加えて平素から対戦相手をよく分析しており、右四つなり左四つなり、相手が得意とする組み手とは逆を心がけるなど、土俵上で十分に実力を発揮させない戦略にも抜かりがなかった。


 小さな隙をも逃さない相撲上手の上位力士には、さりげなく仕掛ける誘い手が効果的だった。

 投げ技の巧さでは同時代随一の清水川(大関)が、突っ張り合いの最中に幡瀬川の左脇が甘くなったところをすかさず右を差そうとしたところ、そのまま体を開かれて突き落とされた一番などは、相手の得意技を誘っておいてから、その逆を取る典型的なトラップだった。

 大関昇進前の清水川は幡瀬川をカモにしていたが、昇進後は四勝三敗と拮抗しているのは、自身の相撲の型が完成したぶん、勝利の方程式を逆手に取られたからだろう。新大関の場所は十勝一敗の準優勝(優勝同点)だったが、優勝力士の玉錦に唯一土を付けたのが清水川であり、この場所幡瀬川に負けていなければ優勝していたため、その翌場所の優勝と合わせて二場所連続優勝で横綱に推挙されていた可能性は高い(当時は横綱不在で大関が四人という変則的な番付だった)。

 相手に考える余裕を与えず、どう反応してくるかを常に先読みしながら、落とし穴に誘い込むように技を繰り出してゆく攻撃的な相撲こそが幡瀬川の真骨頂だった。


 天龍と鏡岩とは特に仲が良く、巡業先の稽古では本気で立ち合い、一番負けた者が三人分の荷を担いで銭湯に行き、あとの二人の背中まで流すという取り決めがあったそうだ。長身で懐の深い天龍は、組んでも剛力の鏡岩に引けを取らなかったが、幡瀬川はめまぐるしい動きで鏡岩を翻弄し、滅多に褌を取らせなかった。結局、一番背中を流させられたのはこの中で唯一大関まで昇進した鏡岩だったというところが面白い。ちなみに本割りでの対戦成績も、幡瀬川は天龍に五勝三敗、鏡岩に五勝五敗、天龍は鏡岩に三勝一敗で鏡岩が一番分が悪かった。

 また、理論派の天龍とは技術論についてもよく意見を交わしていたというから、幡瀬川の緻密さは、このような意見交換によって磨きがかけられたのだろう。


 出世は早かった。入門から負け越し知らずのまま大正十五年には十両に昇進すると、翌昭和二年には二場所連続十両優勝しながら十両留め置きという珍記録を残している。

 昭和三年三月場所で新入幕を果たした時は、師匠清瀬川は小結だったが、四年秋場所を最後に清瀬川が引退するまで、一度たりとも番付で師匠を超えることは出来なかった。

 この三年三月場所八日目、五勝二敗で勝ち越しに王手をかけた幡瀬川が迎えた相手こそ”相撲の神様”大ノ里だった。

 円熟の極みにある大関大ノ里は、ここまで六勝一敗の好成績から伺えるように、動きも良く、突っ張り合いから素早く二本差したが、これを振りほどいた幡瀬川が低い体勢から潜り込み、太股を内側から掬うと、さすがの神様も後頭部から土俵に落ちた。発表された決まり手は足取りだったが、幡瀬川の名人芸、小股掬いは神様を血祭りにあげたことでさらなる自信を深めた。

 この場所大ノ里を六勝三敗と圧倒したことに加えて、昭和七年の春秋園事件で大ノ里が関西相撲に走ったこともあって、以後は、幡瀬川が「相撲の神様」の名跡を引き継ぐことになったが、当時の相撲雑誌の評論でも、「幡瀬川の技術は大ノ里をしのぐ」と太鼓判を押されている。


 番付上の全盛時代は七場所連続三役を務めた昭和六年から八年にかけてである。この間勝ち越しは一場所、五分の場所が一場所あるだけで、残りの五場所は負け越している。にもかかわらず三役に留まれたのは、春秋園事件で幕内力士がごっそり抜けた影響によるものだ。不慮のアクシデントのおかげとはいえ、これもまた珍記録といっていいだろう。


 全盛期を過ぎても“魅せる”相撲は健在で、相撲内容だけに絞ればむしろ若い頃よりも円熟した“神業”を見せる頻度が高くなっている。中でも角界最大の人気者武蔵山と剛力巨人男女ノ川との対戦は、この二大関が将来の横綱と目されるスケールの大きな相撲取りだっただけに、神業がどこまで通用するかがファンの関心を呼ぶ人気カードだった。

 幡瀬川が平幕に落ちた昭和八年夏場所七日目の武蔵山戦は、変幻自在の技を披露した人生会心の一番だった。

 過去の対戦成績では十勝二敗と圧倒している武蔵山は、気迫に満ちた強力な突っ張りであっという間に幡瀬川を土俵に追い詰めたが、あと一突きで勝負が決すると思われた瞬間、よもやのとったりで大きくバランスを崩したところで懐に組みつかれてしまう。

 そこから左からの掬い投げの連続で身体を起こされた武蔵山が、差された左腕をつかんで蹴手繰ろうとした瞬間、まるで仕掛けてくるタイミングを見計らっていたかのような幡瀬川の二枚蹴りで蹴り足を掬われ巨体が宙に舞った。

 短い時間の中にこれだけ高度な技の応酬を見せ付けられた観客は息をつく暇もなかっただろう。

 幡瀬川は続く九年春場所でも、武蔵山を立ち合いから一瞬の小股掬いで土俵中央に横転させ、平幕になっても伝家の宝刀はいささかも錆び付いていないことをアピールした。

 この一番は、組んだ瞬間に武蔵山の差し手が浅いとみた幡瀬川が身体を左に開きながら出し投げを打ち、踏ん張った武蔵山の重心が後方に乗ったところを見計らって軸足を掬うという一連の流れが数秒間に凝縮されたもので、見ている観客にとっては一瞬でも、取り組んでいる武蔵山の脳裏には、罠にはまってゆくまでのプロセスがしっかりと焼き付いていた。

 「起き上がりながら、笑うしかなかったです」というのが敗者武蔵山の弁だが、この場所初日に対戦した優勝候補筆頭の大関清水川も、一方的に攻めながら土俵際で絵に描いたような巻き落としで土俵の外に吹っ飛ばされているせいか、「あんなふうに負けると苦笑せざるにはおられない」と脱帽の体だった。

 大ノ里とは同門で何度も申し合いの経験がある武蔵山は「(幡瀬川は)大ノ里関より強い」と断言していた。

 幡瀬川は玉錦や五ツ島のような短躯の突貫型は不得手としたが、大型力士や四つ相撲を得意とするタイプの力士には強く、男女ノ川(三勝三敗)、双葉山(二勝二敗)、安芸ノ海(一勝一敗)といった後の横綱とも五分の成績を残している。

  

 昭和十年夏場所二日目、この場所九勝二敗(準優勝)と好調だった大関男女ノ川との対戦は、変化技を封印して巨艦を爆沈させた名勝負として知られる。

 軽量の幡瀬川が横綱候補の男女ノ川とまともにぶつかっても勝ち目はないことは、観客はもちろんのこと本人が百も承知だった。ところが幡瀬川は、その圧倒的な攻撃力に比べると、四つに組んだ時の方が多少なりとも取りこぼしがあった太刀山の例から、男女ノ川も組まれた方が嫌がると考え、この場所はあえて褌を取る相撲を選んだ。

 長身の男女ノ川が二階から叩きつけてくるような突っ張りはまるで砲丸で、何度飛び込もうとしても弾き返されたが、はたこうとしたところに低い体勢からようやく潜り込み、太股を抱えるようにして押し込むと、腰が浮いた男女ノ川はそのまま土俵を割ってしまった。決まり手は押し切りだったが、土俵上で横転させていれば足取りになっていたところだ。


 幡瀬川の決まり手総数三十六は昭和戦前の力士の中では最多を誇り、平成に「技のデパート」と称された舞の海の三十四をもしのぐ。現在の最高記録保持者である安美錦の四十六手は、十五日制、年六場所時代の記録であって、総取組数が三倍以上違う。

 引退後は年寄千賀ノ浦を襲名し、伊勢ヶ浜部屋で指導者として横綱照国以下、数々の関取を育てる一方、出羽海理事長時代(元・出羽ノ花)には協会理事としても辣腕ぶりを発揮した。角界の重鎮でありながら、雑誌のコラムや座談会での発言は辛辣で、「角界の大久保彦左衛門」の異名を取った。

 雑誌の評論でのペンネームである「魚雷亭主人」は、たった一本の魚雷で重武装の大型艦を撃沈する雷撃機のような彼の相撲ぶりを象徴しているかのようで、傑作なネーミングだと思う。

幡瀬川が育てた横綱照国は、あんこ型で師匠と真逆の体格であったが、低い重心とリズミカルな動きでいかなる業師にも対応できるよう徹底的に指導を受けたおかげで、極めて欠点が少ない力士になった。大型力士の攻略法に長けた幡瀬川だからこそ、万全な防御法も考案できたのだろう。もし戦争がなければ、照国は戦後の食糧難の時代に体調を崩すこともなく、双葉山に匹敵するような大力士になったかもしれない。

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