表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第2話 「外套に残るもの」

 侯爵の死は、まだ屋敷の中だけの秘密だった。

 使用人たちは噂を恐れ、廊下を忍び足で行き交う。だが沈黙は決して平穏を意味しない。むしろ、音を殺すことで疑念が強まっていく。


 私は書斎に残り、机の周囲を一歩ずつ確かめていた。

 散らかった書類、杯に残る赤ワイン、革手袋。そして――机の下から見つけた、わずかな松ヤニの欠片。


「東の林の松ね……」

 指先でそれを転がす。屋敷の庭にあるのは西側の松。香りがまるで違う。つまり、侯爵と共にここにいた者は、一度屋敷を離れ、東の林を通ったのだ。


「リリアーナ様」

 執事レオポルドが声を掛けてきた。厳しい表情の奥に、動揺を隠しきれない。「長居はお体に障ります。……お戻りを」


 私は紙片を机に置き、彼に向き直った。

「レオポルド。父上は誰と会う約束をしていたの?」


 彼は一瞬、口をつぐんだ。だが観念したように答える。

「……ヴァルムント伯爵にございます。昼間の式典の後も、執務について語り合いたいと」


「伯爵は大広間にずっといたはずじゃなくて?」

「はい。使用人たちもそう証言しております」


 完璧なアリバイ。けれど――それこそが最も怪しい。

 私は伯爵の名を胸に刻み、次に侍女クラリッサを呼んだ。


「リリアーナ様……本当にお調べになるのですか?」

 怯えた声。彼女は扉の前で足を止めていた。


「もちろんよ。父上の死を『事故』で片づける気はないわ」

 私は微笑みを浮かべる。「それに、私にはわかるの。……痕跡は嘘をつかない」


 クラリッサは俯いたが、やがて小さく頷いた。

「……昨夜、わたくし、少しだけ廊下を通りました。……そのとき、侯爵様の部屋の扉が半ば開いていて……中に、黒い外套を羽織った方が見えたのです」


「黒い外套?」

「ええ。背が高くて……でも顔までは」


 私は息を呑んだ。

 机の下の松ヤニ。侯爵の外套に付いた欠片。それは――黒い外套の人物がこの部屋にいた証だ。


 だが侯爵は普段、黒ではなく濃紺の外套を纏う。つまり、これは別人の外套。


「ありがとう、クラリッサ。大事な証言よ」


 侍女の小さな勇気を胸に刻み、私は考えを巡らせた。

 黒い外套。東の林の松ヤニ。磨かれた革手袋の擦れ。――すべては一人の人物を指し示している。


 夜更け、大広間に再び人が集められた。侯爵夫人、執事、侍医、侍従。そして――ヴァルムント伯爵。


 私は一歩前に出た。

「侯爵の死は自然ではありません。密室は偽装されました。……証拠はここにあります」


 人々の視線が私に集中する。私は机の下から取り上げた松ヤニの欠片を見せた。

「これは東の林のもの。屋敷の庭では手に入りません。つまり、誰かが夜に林を通った」


 伯爵の目が一瞬揺れた。


「さらに、昨夜、黒い外套の人物が書斎に入った証言がある。その外套に松ヤニが付着し、侯爵の机に残ったのです」


 沈黙が落ちた。炎がはぜる音だけが響く。


 私は伯爵を見据えた。

「伯爵。あなたは式典の最中、大広間にいたと証言されましたね。でも、それは使用人たちが『あなたを見た』と信じているだけ。……本当に、常にそこにいたのですか?」


 その言葉に、場が凍りつく。夫人が息を呑み、侍従は顔を青ざめさせた。


 伯爵は口を開こうとしたが、すぐに閉じた。冷たい汗が額に光る。


 ――私は確信した。

 この男の「完璧なアリバイ」こそ、最も脆い。


 月明かりが再び差し込む。

 私は静かに言った。

「真実はひとつ。密室は、あなたのために作られた舞台にすぎない」


 大広間に、誰も声を発せない沈黙が広がった。

 だがその奥で、私は感じていた。まだ真相はすべてを語っていない。

 黒い外套の伯爵――その背後に、さらに深い影が潜んでいる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ