第2話 「外套に残るもの」
侯爵の死は、まだ屋敷の中だけの秘密だった。
使用人たちは噂を恐れ、廊下を忍び足で行き交う。だが沈黙は決して平穏を意味しない。むしろ、音を殺すことで疑念が強まっていく。
私は書斎に残り、机の周囲を一歩ずつ確かめていた。
散らかった書類、杯に残る赤ワイン、革手袋。そして――机の下から見つけた、わずかな松ヤニの欠片。
「東の林の松ね……」
指先でそれを転がす。屋敷の庭にあるのは西側の松。香りがまるで違う。つまり、侯爵と共にここにいた者は、一度屋敷を離れ、東の林を通ったのだ。
「リリアーナ様」
執事レオポルドが声を掛けてきた。厳しい表情の奥に、動揺を隠しきれない。「長居はお体に障ります。……お戻りを」
私は紙片を机に置き、彼に向き直った。
「レオポルド。父上は誰と会う約束をしていたの?」
彼は一瞬、口をつぐんだ。だが観念したように答える。
「……ヴァルムント伯爵にございます。昼間の式典の後も、執務について語り合いたいと」
「伯爵は大広間にずっといたはずじゃなくて?」
「はい。使用人たちもそう証言しております」
完璧なアリバイ。けれど――それこそが最も怪しい。
私は伯爵の名を胸に刻み、次に侍女クラリッサを呼んだ。
「リリアーナ様……本当にお調べになるのですか?」
怯えた声。彼女は扉の前で足を止めていた。
「もちろんよ。父上の死を『事故』で片づける気はないわ」
私は微笑みを浮かべる。「それに、私にはわかるの。……痕跡は嘘をつかない」
クラリッサは俯いたが、やがて小さく頷いた。
「……昨夜、わたくし、少しだけ廊下を通りました。……そのとき、侯爵様の部屋の扉が半ば開いていて……中に、黒い外套を羽織った方が見えたのです」
「黒い外套?」
「ええ。背が高くて……でも顔までは」
私は息を呑んだ。
机の下の松ヤニ。侯爵の外套に付いた欠片。それは――黒い外套の人物がこの部屋にいた証だ。
だが侯爵は普段、黒ではなく濃紺の外套を纏う。つまり、これは別人の外套。
「ありがとう、クラリッサ。大事な証言よ」
侍女の小さな勇気を胸に刻み、私は考えを巡らせた。
黒い外套。東の林の松ヤニ。磨かれた革手袋の擦れ。――すべては一人の人物を指し示している。
夜更け、大広間に再び人が集められた。侯爵夫人、執事、侍医、侍従。そして――ヴァルムント伯爵。
私は一歩前に出た。
「侯爵の死は自然ではありません。密室は偽装されました。……証拠はここにあります」
人々の視線が私に集中する。私は机の下から取り上げた松ヤニの欠片を見せた。
「これは東の林のもの。屋敷の庭では手に入りません。つまり、誰かが夜に林を通った」
伯爵の目が一瞬揺れた。
「さらに、昨夜、黒い外套の人物が書斎に入った証言がある。その外套に松ヤニが付着し、侯爵の机に残ったのです」
沈黙が落ちた。炎がはぜる音だけが響く。
私は伯爵を見据えた。
「伯爵。あなたは式典の最中、大広間にいたと証言されましたね。でも、それは使用人たちが『あなたを見た』と信じているだけ。……本当に、常にそこにいたのですか?」
その言葉に、場が凍りつく。夫人が息を呑み、侍従は顔を青ざめさせた。
伯爵は口を開こうとしたが、すぐに閉じた。冷たい汗が額に光る。
――私は確信した。
この男の「完璧なアリバイ」こそ、最も脆い。
月明かりが再び差し込む。
私は静かに言った。
「真実はひとつ。密室は、あなたのために作られた舞台にすぎない」
大広間に、誰も声を発せない沈黙が広がった。
だがその奥で、私は感じていた。まだ真相はすべてを語っていない。
黒い外套の伯爵――その背後に、さらに深い影が潜んでいる。