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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

未完のそばで

作者: 仄賀 万紘

以前、深大寺恋物語に応募した作品です(改行方法は変えています)。

ほんのりですが同性愛です。


「蕎麦に殺されたい」

「蕎麦になら殺されてもいい」

「死ぬ時は蕎麦を食って死にたい」


 初めて聞いた時、曽場亮介は自分の名を挙げられたと一瞬勘違いした。これらは同僚であり、後に友人ともなる広瀬(たかし)の酔った時の口癖だった。思わず凝視した時に合った目が、曽場の心中を察してか、まろく(たゆ)んで笑った。新卒の内定者同士で集まった、清秋の夜のことだった。


 喬を知らない人間が聞けば、彼を相当な蕎麦好きと思うだろう。現に蕎麦屋の倅であった。けれど、蕎麦屋の跡継ぎではなかった。誰よりも蕎麦に焦がれているというのに、彼は蕎麦アレルギーだったのだ。


 もともと彼の名は「高志」と書く予定だったが、「せっかく蕎麦屋の倅なら」と蕎麦の蕎の字から草冠を取った「喬」と名付けられたらしい。酒の席ではビール片手に「どなたか草でできた冠をお持ちではありませんか? それさえあれば完成なのです!」と冗談を言っている。そんな都合良く持っている人間などいるわけもなく、彼はいつも未完成で、長いこと生き別れた頭の草冠を探し続けていた。


 小中学生の頃は、家が蕎麦屋のくせに蕎麦が食えないなんて変なの、とよく同級生から揶揄われたらしい。喬自身もそう思っていた、と。たくさん蕎麦を食べてきた――喬がお腹にいる時も食べていた母から生まれたのに。同じお腹に入っていたのに、喬と蕎麦は相容れなかったらしい。


 そんな喬に誘われて、初めて深大寺へ行ったのは、社会人一年目の秋だった。

 蕎麦屋に入ると曽場は「なんで深大寺?」と疑問を口にした。ふたりの職場近くの神田にも蕎麦屋は多くある。そう言うと、喬は「あそこはいつでも行けるでしょ」と言った。たしかに、と曽場は思った。喬の言うように曽場は仕事終わりに何度か足を運んだことがあり、時々同僚を見かけたこともあった。せっかく休日に出かけるなら、わざわざ会社近くの店に行くのは勿体ない。だが、本当にそれだけが理由なのだろうか。


 曽場の視線に気づいていないのか、気づかない振りをしているのかはわからないが、喬は店内に掲示された「深大寺そばまつり」のチラシを見て「へえ。こんなのやってるんだ」と呟いた。そこには「目指せ全店制覇!」の文字と絵馬の写真が載っていた。


「……全店制覇か。楽しそうだね」


 寂しそうな顔をしたから。理由はそんなものだった。そば組合のチラシから視線を戻した喬は呆気に取られていたが、すぐに笑みを浮かべた。これがふたりの深大寺そば巡りの始まりだった。


 それから三、四か月に一度、深大寺へ行くようになり、気づけば五年が過ぎようとしていた。残すはあと一店舗。小学校前のバス停で降りて、紅く黄色く染まりつつある葉の下を歩いて、坂を下っていく。曽場は待ち合わせ場所に立つ喬を見つけて、初めて会った頃に比べると大人らしくなったな、と思った。


 蕎麦屋では、いつも喬はビール片手にただじっと曽場が蕎麦を啜るのを眺めた。時折机に跳ねた汁を拭きながら。注文は二人前にして、喬の前にも置かれるが、曽場が一人前を平らげると空になった盆と交換した。そしてまた、食べ始めたところをじっと見つめるのだ。実際、蕎麦を食べる曽場を見るというよりも、蕎麦とそれに付随するものにしか眼中にない。人の手で機械の如く均等に切り分けられた麺の中に出来損ないを探す。何も店の粗を探しているのではない。彼は友を探していた。付け合わせのネギや海苔に不揃いのものがあっても、それらは友ではない。蕎麦だけが彼の友となり得たのだ。彼の目つきはまるで雑踏の中にいるのかわからない元恋人を探しているようでもあった。


 蕎麦を食べた帰りは決まってそば守観音へ。木陰に入ると、喬の肌に木漏れ日が模様を作って、それが、呪いの痣のようだな、と曽場は思った。天気の好い日ほどそれは濃くなる。喬は観音の前で佇み、拝むわけでもなく、ただじっと見つめた。いつもは数十秒もすれば満足するのだが、今日は違った。喬は、俺思うんだよね、と口を開いた。


「きっと前世の俺がさ、観音様の不興を買うようなことをしたんだ」


 だからさ、拝んだところで許してくれねぇのさ。諦念の滲む表情で、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、喬は冗談めいた口調で言った。仮に観音様が怒っていたとして、そんなだから許してもらえないんじゃないだろうか。だが、本人がそう言うのだから、そうなのだろう。否定することは彼にとって少しの慰めにもなりはしないのだ。そんなものはこれまで幾度も振りかけられてきたに違いない。初めは響いた言葉も、聞き飽きて、今は何も棲んでいない池に餌を撒くようなものだろう。曽場は、観音の左右に浮いている葉を見つめながら、「なんだ、蕎麦畑でも荒らしたか? それとも供え物でも盗んだか?」と調子を合わせれば、「そうかもな」と喬は息を吐き出すように笑った。呼気からはビールの香りがして、そのさっぱりとした喉越しと苦味を曽場に思い出させた。


「お前ってさ、俺が蕎麦食ってるとこ見てるだけなのに、よく飽きなかったよな」

「そうだね。麺を啜る音とか、食器のぶつかる音、蕎麦を切る音、風の音、話し声、壁や床の造り、机の木目、シミ、香り、温度……なんていうか雰囲気? を楽しんでたよ」


 蕎麦を食えない分、いつもよりもそういうのが強く感じられるんだ、と。



「五感のひとつが欠けると他の比重が増えるのと一緒だよ。目を閉じれば匂いとか音とかが強くなるみたいなさ」


 わかるような、わからないような理屈だ。曽場は「……ほ~ん」と生返事をした。



「お前が蕎麦食ってるの見てたら、なんか自分が食ってるみたいな気持ちになれたんだよ」


 喬は別れ際に「ありがとな。これは全店制覇記念に」と達磨が描かれた湯呑みをくれた。




 蕎麦巡りを終えてから三か月程経った頃。定期的に蕎麦を食べていたせいか、食べないと調子が狂う気がして、曽場は仕事終わりに道端で見かけた蕎麦屋に立ち寄った。混んでも空いてもいない、ちょうどいい店だった。冷えた体を温めるべく、かき揚げ蕎麦を食べ始める。うん、美味い。一口食べて、そう思った。続けて二口目、三口目と蕎麦を啜っていく。……おかしい。たしかに美味いはずなのに、食べ進めれば食べ進めるほど物足りなさを感じ、首を傾げた。なんだろう、と思った時に、沸々と丼ぶりの底から油が浮き上がってくるのを見て、原因がわかってしまった。


 焦がれるような視線が足りないのだ。その視線を間近で浴びて、脳が送った何かの信号が皮膚の下で行き場なく彷徨うのを感じたいのだ。神経が昂られ、研ぎ澄まされたからこそ、最高の味に感じられたのだろう。思えば、ひとりで蕎麦を食べるのは随分と久しぶりだった。曽場は目の前の蕎麦に申し訳なさを感じながらも、かきこむように完食して、立ち上がった。


 行き先は深大寺だった。時刻は二十時を過ぎており、ひと気を失った深大寺は、余計に寒々しく感じる。通りの奥に見えた山門の灯りが、鬼灯のようにぼんやりと浮いていた。


 曽場は、目的のそば守観音の前に着くと、手を合わせて目を閉じた。拝むのは初めてだった。純粋な気持ちで拝んでいるわけじゃない。都合良く利用しようとしているのを、その温かくも冷たくも見える眼差しは見透かしていることだろう。今にも、浅ましい、という声が聞こえてきそうだ。今が暗くて良かった。夜じゃなかったら、拝んでいなかったかもしれない。


 しばらくして目を開けると、夜目に慣れてしまったようで、思いの外くっきりと観音の顔が見えた。思い浮かべていたよりも優しい顔をしていて、勝手に許された気持ちになった。今だけはそう思いたかった。


 観音の視線の先には朧めく空があって、その奥に隠しきれない月の丸い息吹が確かにあった。少し眺めてから振り返ると、また観音の表情は薄暗くはっきり見えなくなっていた。


 帰りのバスを待つ間、かじかんだ震える手で携帯を操作する。「二巡目、しないか?」と誘えば、数拍の後、携帯越しに意地の悪い笑い声が聞こえた。声震えてるぞ、外か?、と言う喬の声に、寒さで鈍くなった耳がじんわりと溶けていくような感覚があった。いつだって誘うのは喬からで、曽場から誘うのは初めてだった。


『いいよ。お前の下手な蕎麦の啜り方、嫌いじゃないし』


 降り注いで、少しずつ深いところに流れ着いて溜まった水が、湧き出してまた流れだす。曽場の中に蓄積した、ここ数年分の水――喬に関するこれまでのすべての事象が噴き出して、初めて内にある水に気がついた。その水はどれほど蓄えられているのだろう。見られるものなら見てみたいな、と曽場は思った。


 喬を蕎麦に殺させないために、喬の分もまた蕎麦を食う。そんな自身を見つめる喬を想像して、曽場の喉は鳴った。


 引っかかっていた蕎麦の端切れが胃の中に落ちていった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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