プロローグ〜初出勤前の夜〜
部屋の中には、時計の針が一つだけ。
秒針がカチカチ……と音を立てていた。
夜の寮は静かで、窓の外では遠くでフクロウが一声、ホウと鳴いた。
ミレイユ・フォーンは、制服のリボンをじっと見つめていた。
ギルド支給のそれは濃い臙脂色で、少しだけ硬い素材でできている。
何度結び直しても左右がずれてしまう。
「もう……これでいいや。どうせ誰も見てないし……」
ひとりごとの声が、少し震えていた。
明日は初出勤。ギルド直属の“ダンジョン広報課”。
冒険者たちに迷宮の情報を伝える、いわば命を守る仕事だ。
ずっと、ずっと憧れていた仕事だった。
でも今は、それ以上に。
――とてもとても怖かった。
ベッドの下から、古びたノートを取り出す。
表紙は擦れて読み取れないけれど、中には小さな字が並んでいる。
ページの端に、こんな言葉が書かれていた。
「将来のゆめ:人をたすける仕事をすること。だれかの“しなない”をふやしたい」
それは幼い頃、まだ“冒険者”というものがただカッコよく見えていた頃に書いたものだ。
けれど、そう。 あの出来事が起きてから――。
ページを閉じる。
いまはまだ、そこには触れたくない。
代わりに制服をもう一度手に取り、そっと胸元に当てた。
明日、これを着て、初めての“放送ブース”に座る。
魔導端末に向かって話す。きっと、手が震える。
「……でも、わたし……選んだから。あのとき逃げなかったって、言えるようになりたいんだ」
月明かりが、制服の翠を少しだけ柔らかく照らしていた。