をとめ蟹淵の伝え語り
――某県某所、ある暑い夏の昼飯時。
雑木林奥の崖っぷちで、ぼくは頭を抱えていた。
「だぁから言ったじゃないの! 県道外れたら 方角 分からなくなるよって」
「悪いの、おれじゃないです。ナビが古いのが悪いんです」
「そのナビを無視して余計なことしたの、加藤くんでしょ」
この日は後輩の加藤くんを連れて、隣の県にある地区本部センターまで向かうことになっていた。
ぼくたちの勤務地にはまだ、地区本部と呼べる建物はない。会社主導の商品知識講習や資格試験の勉強会は、いつも県外の地区本部の会議室で催される。ぼくはもう何度か参加していて、部門によっては講師を務めることもあるのだが、加藤くんはこれが初参加になる。
地区本部の場所確認も兼ねて相乗りし、社用車の運転を彼に任せた結果がこの有り様だ。
「おれに運転任せるって言ったの、寺内さんじゃないですか」
「確かに任せたよ。ナビ通り走ってくれると思ってたからね」
通い慣れた県道では たまたま 除草作業が行われていて、交通量のせいもあってか片道一車線の道路は酷く渋滞していた。現地到着まで 思っていたよりかかりそうだぞ、と ぼくが呟いた途端に、加藤くんは「近道 探しましょう」と 止める間もなく細い小道へと左折してしまったのだ。
そうしているうちに 何処に辿り着いたのかというと、完璧な行き止まりであった。
舗装された道路は、雑木林に突入した辺りでとうに終わっていた。両脇に木々が生い茂り、草だらけの 明らかに車が通るに向かない でこぼこ砂利道をガタガタと進んできた先が、崖だった。
「もう、仕方ないね。取り敢えず引き返そう。運転 代わるから、加藤くんは降りて後ろ見てて」
「ちょっと待ってください、自分のスマホで現在地 確認するんで……あれ?」
「この道がどこに出るかも見といて」
「……無理です、圏外になってて」
眉間をぎゅっと狭めながら、加藤くんは ぼくにスマホの画面を向けてきた。確かに『現在地が取得できません』の表示がある。ぼくも自分のスマホを取り出して地図を表示しようとしたが、同じ画面が出てきただけだった。
「……なんだろうね。とにかく、県道に出てからもう一度 確認しよう」
渋々といった顔で 加藤くんは運転席を出る。ぼくも車を降りて、何の気なしに崖の向こうに目をやった。
「下、川がありますね」
正面に立ち塞がる木々を眺めていると、不意に加藤くんの声が隣から聞こえて 飛び上がりそうになってしまった。努めて冷静を装い、視線を下げる。と、そこに加藤くんの茶色い後頭部が。
「何してるの!! 落ちたら危ないでしょ!!」
隣にいると思ったら、いつの間にか崖の下を覗き込んでいる。気配もなく動き回るのはやめてほしい。
「そうだぞ、兄ちゃん。ここの姫さんは、兄ちゃんみてぇなの 大好物だで」
車の向こうから、さらに別の知らない声が飛んできた。これには ぼくも加藤くんも、驚きのあまり 叫び声を上げてしまった。声の主はさも可笑しそうに笑いながら、車の向こうから姿を見せる。
「この下の川は《をとめ蟹淵》っていってな、ちょいとした曰くがあんのよ」
笑い皺の多い、人の良さそうな小柄なお爺さんだった。ちろ、と崖の方を一瞥してから手近な木の根元に腰かけると、ぼくたちが何を言う前に お爺さんは曰くとやらを語りだした。
**
こいつぁ むかーしむかし、いつの頃かはよくわからねぇが、確かにここであった話だ。
ここに集落ができるよりずうっと前からな、この川淵にはきれぇな水精の姫さんが棲んでいたんだと。
姫さんは年ごろの娘らしく恋多き女でな、好みの若い男が近くを通れば チョチョイと手招きしては引きずり込んぢまうんだってよ。こわいねぇ。うらやましいねぇ。
あるとき ここの集落にな、父子で商売をしているらしい旅の二人連れが立ち寄ったんだと。どっちもあか抜けた いなせな親子でよ、特に息子の方は 集落中の年ごろの娘っこらがみぃんな夢中になっちまうほどだったんだってさ。うらやましいねぇ。
まあ、でもよ? 娘っこが夢中になっちまうのも、仕方ねぇことだったんだわ。どういうわけか集落には、年ごろのいい男なんぞ一人も居なくてよ。そりゃあ、みんな惹かれちまうわな。
商人の父親が不思議に思って、
「このい辺で、いくさでもあったのかい? 若丈夫が見当たらんが」
と 集落の長に訊いてみるとな、
「いんや。……いい男はな、みぃんな蟹淵の姫さんに 持ってかれちまうのよ」
と ニタニタ笑って返したそうな。
こいつぁどうも気色が悪ィ、用が済んだら疾うと出ていくに限る。嫌ぁな気をかんだ父親は、早々に荷をたたみ始めたんだよ。
そうしているうちに、今の今まで青々してた空に真っ黒な雲が湧き出してな、雷が鳴ったと思ったら ザンザンと大雨が降ってきた。日が落ちても 雨は止む様子もなく、商人の父子は途方に暮れておった。
「もし、旅の御仁。この雨にお困りでござんしょ。よろしければ、うちでしのいでくださんせ」
見れば昼間に手鏡を買っていった娘っ子が、引き戸を少ぅし開けて手招いておる。ずぶ濡れの父子を不憫に思い、声をかけてくれたんだな。気立ての良い娘さんだ。
父子を招き入れた娘は 客人に吸い物を振る舞いながら、父親を亡くしてから 年老いた母親と二人で暮らしているのだと言った。幼い頃には年の離れた兄姉もこの家に居たのだが、姉たちは嫁に行き、兄ぃはいつの間にか 居なくなっていたのだと。と、ここまで娘が言うなり、
「何言ってんだ、おまいに兄ぃなんか 居ねぇだろが」
と 老いた母親が口を挟んだんだ。娘っ子は悲しそうに俯いてな、小さく「そだな」と答えたそうだ。
なにか訳ありのようにも見えたが、商人の息子は可哀想に思ってしまってな。娘っ子を元気づけようと、珍しい品だのきれぇな髪留めだのを取り出しては、見せてやったんだってさ。
父親はそれを微笑ましく思ってな、
「なあ、おかみさんや。娘さんには、いい人とかいねぇのかい?」
と 軽い気持ちで訊ねてみたんだと。お似合いの二人だ、うちの倅ぁの嫁にどうかってよ。
すると突然、老いた母親の形相が変わってな、
「なんねぇ。冗談でも、んなこと言っちゃなんねぇ」
と 拝むように両手を擦り合わせながら、何度も繰り返したんだと。
やっぱり、この集落は 何やらおかしい。雨が止んだらすぐに出んべと息子に耳打ちし、父親は土間の隅で夜が明けるか雨が上がるかするのを一晩げ中 待っていたそうだ。
結局、雨は朝方まで降り続いてよ、商人の父子が出立したのは お天道さまが高ぁく昇ってからになっちまった。
娘っ子とすっかり打ち解けていた息子は 名残り惜しいような顔をしていたが、かまわず父親は集落を発とうと急かした。
ことが起こったのは、集落を出てすぐの雑木林ン中を歩いて 川淵の崖に差し掛かったときだった。
集落から尾けてきたのだろう複数の男らが 商人の父子を取り囲み、寄ってたかって棒だの石だの 手にした凶器でめった打ちにしてきたんだ。「よくも俺等の女に色目を使ったな」「こんの助平屋が」「誰が余所モンにでぇじな娘っ子をくれてやるか」口々にそんな勝手を言いながら、とうとう集落の男どもは、商人の息子を殴り殺してしまったのさ。
父親の方はといえば 一命は取り留めたものの、起き上がるどころか這いずるのがやっと という有り様だ。自分によく似たその顔貌も解らんほどに殴り潰された息子の姿に、はらわたが煮えくり返るようだったろうな。憎々しげな父親を気にすることもなく、集落の醜男どもは息子の亡骸を崖下の川に蹴落としたのさ。そう、そこにある《をとめ蟹淵》にさぁ。
こうして、父親は理解したわけよ。この集落では、年ごろの若丈夫に数少ない娘っ子を奪られまいと、こうやって蟹淵の姫さんに食わせてるんだって。
跡取り息子を殺した醜男らの下卑た笑い声がすっかり消えてしまうまで、商人の男は声を上げて泣いたそうだ。辛かったろうなぁ、そりゃあ悔しかっただろうよ。
泣き足りねぇのに涙の方が間に合わなくなった頃、下の川から上がってきたのか、一匹の桜色をした沢蟹が商人の男の顔の前を横切った。男の耳元で一旦 立ち止まると、
「御馳走様」
と 鈴を転がすような女の声がしたんだってよ。
するとどうだろう。あれほど殴られたというのに 体中の痛みはなくなり、 商人の男は何事もなかったかのように立ち上がることができた。驚き足元を見やったが、もう桜色の沢蟹はどこにも居なくなっていた。
まったく、ひどい目に遭った。金輪際、この集落には近づかないようにしようと心に誓い、商人の男は足早にその場を立ち去ることにした。もう帰ろう、早く帰ろうってよ。
いっときも早く、村で帰りを待っている 可愛い一人娘と妻の顔を見たくなったんだとさ。
**
「……この父子の他にもよ、いるんだろうなぁ。さっさと帰った方が、身のためだで」
そう 話を結ぶと、お爺さんは どっこらせ と 立ち上がった。
「もと来た通りに引き返せば、県道に出られるよぉ」
草に覆われたでこぼこ道の先を指差してから、お爺さん自身は 崖に沿って茂る木々の中へと消えていってしまった。茸でも採りに来たついでだったのだろう。
腕時計に目をやれば、体感以上に時間が経っていた。商品知識講習には確実に遅れてしまう。
運転席に乗り込もうとしたぼくの足元を、淡いピンク色の物体が横切った。屈んでよくよく見ると、小さな蟹だった。珍しい色だな、と思いながら 轢いてしまわないように車から離れるよう誘導する。
ピンク色の蟹が草むらに潜り込む、ちょうどその瞬間に――
「御馳走様」
風鈴が鳴らす音のように涼やかな、女性の声が耳元を通り過ぎた。
思わずぼくは周囲を見回したが、それらしき人影は見当たらない。あんな話を聞いた直後だからだ、風の音でも聞き違えたのだろう。
「……早く戻らなくちゃな」
今さっきの出来事をかき消そうと頭を振り、今度こそ社用車に乗り込んだ。
それにしても。
何度も走らせて ひとりでもすっかり通い慣れた県道なのに、どうしてぼくは こんな外れた道になんか 入ってしまったのだろう。