第18話 邂逅
「……そろそろいいか」
馬車が動き始めてから数分。おれはキャビンの出入り口扉に手をかけた。
「行くのか?」
声をかけてきたのはバッカスだった。その言葉に、同乗している村人たちの視線が一斉に向けられる。
「おう、行ってくる」
「そうか……」
「バカを言うでない!」
噛みつくような勢いで向かってきたのはログソンだった。彼は老体とはとても思えない力でおれにしがみつく。
「行かせんぞ! ミセルと約束したんじゃ! 天使様のためにも、もしおまえさんがバカなことをしでかそうとしたら、残りの寿命を削ってでも止めるとな!」
ありがたいことだ。それに、ログソンに触れられても抵抗感がない。おれの対人恐怖はすっかり治ってしまったようだ。
すべて天使のおかげだ。
「アイン、ひとつきいていいか」
バッカスの言葉に、おれは黙ってうなずいた。
「おれに同情したから行くのか? それともあの方のためにいくのか? あるいは村そのもののためか?」
長ったらしい質問だったが、つまりおれはいま動機を尋ねられている。
答えはこうだ。
「全部あってるけど、全部違う。恩を返さねえと、おれはおれじゃなくなる。だから行くんだ」
「おまえらしいな。バカ生真面目め」
バッカスは笑いながらそう言った。そして、小さなカギを手渡してきた。
「これがないと開かないぞ。それくらい先に調べておけ」
「また手落ちか」
おれはどうも詰めが甘い。ひょっとすると一生治らないのかもしれない。
カギを使い扉を開く。視界に飛び込んでくる砂漠。ログソンを振り切り、躊躇せず飛び降りた。
「じゃあ、後でな!」
走り去っていく馬車を見送る。
すぐに村へ向けて歩き出す。赤竜は昼頃に到達するという話だ。それまでにできうる限りの準備をしておきたい。
ミュリデにたどり着いた。真っ先に水くみ場へ向かう。
ありったけのバケツを集め片っ端から汲んでいく。村に点在する広場、おそらく戦いの舞台になるであろう場所の近くにある家々にひとつずつ配置。
「気休めだな……」
バケツ1杯の水を被ったところで、赤竜の炎にたいしてどれほどの効果が期待できるか。が、やらないよりはましだ。
「次は武器──」
おれの狙いは夜まで時間を稼ぐことにある。夜になりさえすれば勝負になるはずだ。
だが、それまではおそらくこちらの攻撃が通じることはない。時間を稼ぐための武器がいる。
家へ向かう。玄関のすぐ横にある地下倉庫の扉を開く。
剣、槍、弓矢。様々な武器がそこにはあった。
すべて先生が置いていったものだ。そして、その使い方も先生から教わった。
「先生、おれに力をくれ。あなたの1万分の1でもいい。それだけあれば、どんな敵にも勝てるはずだ」
すべて担いで家から離れる。そして、バケツを置いて行ったのと同じ家に配置していく。
昼間の拳では鱗を貫くのには足りない。だが、鋼鉄の武器なら通るはずだ。
「これくらいか……?」
できることは。ほかに何かないか。自分の力、先生が残していったもの、頼れる誰か──。
ふと、天使の顔が脳裏をよぎった。バカか、おれは。あいつを危険に巻き込まないためにひとりで残ったのに、まだ未練がましい。
「そうだ、名前……」
名付け親になってほしいと頼まれていた。実のところ、もう決めてある。今朝に伝えておけばよかった。生き死にを賭ける前に。
太陽が頂点に達しつつある。そろそろだ。そろそろ来る。
赤竜。空の血潮。昼を終わらせる者。夜の炎。
ラディアバスが、来る。
「…………!」
砂漠の海の彼方に赤い点が見えた。それは急速に近づいてきて、どんどん大きくなっていく。
空を覆う巨大な翼。森林をたやすく薙ぐ長く太い尾。大地を砕く四肢。あらゆるを噛み砕くアギト。
ラディアバスはおれが立っている広場の反対側に着陸した。大きい。周りの建物の優に5倍はある。コカトリスなどとは比べ物にならない。
黄金の双眸がおれを見据える。牙の隙間から漏れる息が信じられないほど熱い。頭だけでもおれの背丈の倍以上はある。
ラディアバスを見るのは初めてではない。が、直に相対するのは初めてだ。これほどとは。
「ビリビリ来やがる……!」
圧倒的な気迫。そのすべてがおれに向けられている。肌の表面に電気が走るようだ。
さあ、どう出る。竜よどう来る。最初の一手はなんだ。
竜を見据え、その一挙手一投足を注視する。そのとき、ふと違和感に気が付いた。
「傷…………?」
遠くから見ていたら気が付かなかったが、真新しい傷が無数にある。まるで圧倒的な強者との戦いを終えたばかりのような。まるで逃げてきたかのような──。
刹那、全身の皮膚が泡立った。何かが来る。何かが、上からくる。
「そうだ、監竜院の知らせじゃ──」
ミュリデに迫っている竜は黒化種のはず。だが、こいつは違う!
反射的に後ろへ飛びのく。瞬間、世界が揺らいだ。漆黒の存在が上からすさまじい速度で落ちてきた。
轟音。広場に立ち込める砂埃。何も見えない。一度引くべきか。
だが、それは許されなかった。
「──オオォォォォ!」
耳をつんざく咆哮。とてつもない風圧。砂埃が晴れる。
赤いラディアバスは首をへし折られ大地に倒れ伏していた。その上に鎮座するのは漆黒の竜。
形は先に現れた赤竜と同じ。だが色は光を吸い込むような黒。体躯も少し小さくどこか細身だ。全身にはおびただしい古傷が刻まれている。翼には穴が開き、爪や牙は折れ、尻尾は先が曲がっている。
だが、発する威風は先の竜とは格が違う。まるで大気をゆがめるような。
「こいつは……」
本能が察知する。これは、いままで戦ってきたどの怪物よりも強い。
漆黒のラディアバスがこちらを見る。
そして、笑った。
背筋に怖気が走る。そう、笑ったのだ。その爬虫類的な顔をゆがめて、笑ったのだ。
再びの咆哮。それは歓喜の雄たけびだった。まるで得難い好敵手を見つけた戦士が、たまらず空に叫ぶような。
「……おまえ、おれを探してたのか?」
問いかけに言葉はない。しかし、魂が肯定を捉えた。
「そうか……」
おれは欠けていた。そして、きっとこの竜も。
この戦いを経てどちらかが欠けを埋め、どちらかが死ぬ。
戦いが始まった。