第10話 黒酸蛸ヴィアキラ
「やばいやばいやばい!」
叫びながら走り出す。危険な夜獣だとは聞いていたが、正直なところ油断していた。ここまでとは。
「そのまま走るんだ! わたしが炎で食い止める!」
天使が叫ぶ。それとほぼ同時に、背中を焦がすような熱気が。遅れてとんでもない爆発音と風圧。
「うおお!?」
筋肉のせいでかなり体重があるはずだが、それでも吹っ飛ばされた。うまく着地できずに砂を飲む。だが、これなら。
「さすがに堪えただろ……」
認めるのは少し癪だが、天使の操る奇跡は大したものだ。あれを耐えるとしたら炎に特別な耐性を持つ生き物、例えば赤竜くらいのものだろう。
尻もちをついたまま振り返る。
傷ひとつ付いていないヴィアキラがそこにいた。
「嘘だろ……」
「効かない!?」
信じられない。タコだかイカだか知らないが、水の生き物があれだけの炎を食らってただで済むはずがない。
じっと目を凝らす。ぬらぬらした体表を何かがしたたり落ちている。それは砂に落ちるたびにシュウシュウと音を立てて煙を吹いていた。
「硫酸、か……!?」
とんでもない劇物だ。だが、液体は液体。それを纏っていたから炎を無効化できたのか。
というか、それはつまり。
この場において役に立つ人間がひとりもいない。
「逃げるぞ!」
なんとか立ち上がって天使のもとへ走り出す。向こうもどうするべきかわかっているようで、こちらに両腕を伸ばしていた。
すれ違いざまにその小柄な体を抱き上げる。ネコスケのときと同じ要領だ。
幸い、羽毛のように軽い。これなら走力を落とさずに済む。
ヴィアキラのほうを振り返りながら、砂の上を駆けていく。かなり怒らせたらしい。湖から出てきて、まだ追いかけてくる。
「けど、これなら……!」
陸上でも活動できるようだが、それでも水の生き物だ。動きはのろい。触手を叩きつけてくるが、避けられないほどではない。
と、思っていた。
「ギュリギュリギュリ……」
何やら不穏な音。どうも鳴き声らしい。何かを引き絞るような、差し迫った音だ。
「何する気だと思う!?」
「口だ! 口から、口から!」
「あれ口じゃないらしいぞ!」
口、つまりタコで言うところの漏斗。そこからひときわ黒々とした液体がとめどなくあふれ出てくる。その奥に、槍のような形をした硫酸の塊が見えた。
「おいおいおい!」
まさか、あれを撃ってくるのか。どれくらいの速さで来る? 避けられるくらいならいい。だが、もしおれに見えない速さで飛んでくるなら。
「走り続けるんだ、アイン!」
いきなり天使が叫んだ。確かにひとつの選択肢ではある。だが、足を止めてじっくり構えないと避けられない速度のものだったら。
「大丈夫、わたしが防いでみせる!」
天使はそう言った。不思議だ。人を恐れるおれなのに、彼女の言葉だけは信じたくなる。だから今日もここまで来てしまったんだろうが。
「わかったよ!」
もう振り返るのはやめだ。小細工なし、全速力で砂漠を駆ける。
それとほぼ同時に、後方でパンと弾けるような音がした。引き絞られた矢が放たれたような。
風切り音が聞こえる。それはおれのすぐ後ろまでやってきて──。
バン! なにかにぶつかった音といっしょに消え去った。
思わず振り返る。半透明な白い半球が、おれと天使を包んでいた。
「よし、成功!」
「おお!」
ネコスケのときに足場にしたものによく似ている。というか、きっと同じものなのだろう。
おれは奇跡には詳しくない。だが、物質を遮る防壁というのはかなり高位の奇跡だったはずだ。さすがに天使っぽいだけある。
それなりに体力を使う攻撃だったらしく、ヴィアキラはそれ以上追いかけてこなかった。
ビンを見る。中の花も無事だ。
こうして、なんでも屋アイン史上最悪の仕事は無事に終わりを迎えた。