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第七話 月は見ている

 アンタロウは何を思って、爆発物を取り付けるよう頼んだのだろう。想像することも叶わず、ハルタは胸が苦しくなった。何より、自分自身が犯罪に加担した。この事実を自覚して、より一層、辛くなる。ハルタは加害者になるのだ。

 爆破テロに加担した罪で──

 下の階層で発生したことは、上の階層に反映される。第〇階層(レイヤー:ゼロ)に取り付けた爆発物は、第一階層(レイヤー:ワン)にも反映され、突然現れたに違いない。それはかなり不思議な光景だっただろう。専門家であれば爆発するとわかっていて尚、取り除くことは不可能なのだから、不気味に思ってもしょうがない。

 ハルタは溜め息を吐いた。

 簡易ベッドの上──大部屋に沢山の兵士に囲まれて。

 時はもうすぐ日を跨ぐ頃合いだった。

 罪の自覚。それ自体が罰のように思われる。

 爆発物の設置という現実が頭から離れず、眠ることができない。目は嫌に冴えて、かといって目蓋を瞑れば、今度は悲劇的な未来ビジョンが映像的に流れてくる。

 それはハルタのトラウマでもあった。

 爆発し、多くの犠牲者が出るのだ、九年前のように……。

 輾転反側しながら、自分はどうするべきなのか、迷った。父の無実を信じたい。またそれが、己の行いの正当性をも信じることになる。けれど事実を知ってしまった。いつかゴドー刑事も言っていた──真実は知らない方が良いこともある、と。

 事実は変わらない。変わるのは解釈だけ。かと言って都合の良い解釈を持ち合わせてはいない。このまま何もしないで目を瞑っていては、いずれ後悔するだろう。未然に防げたと言うのに……。それでも、人殺しの片棒を担いだことになるのだけど。

 だから何もしないのか? それはナイスガイとは言えない。

 ハルタは業火に焼かれる思いで決意した。

 周りの兵士達に気取られぬよう、ベッドから降りると、音もなく部屋を立ち去る。向かうのは観測室。その機材内、回路から繋がる──第〇階層へ。

 複数人で半日かけて設置した爆弾を、たった一人、この数時間のうちに取り除くなど不可能だろう。それはわかっていた。だが作業に遅れが発生するはずだ。時間稼ぎにもならないかもしれない。これは、馬鹿馬鹿しい妨害工作だ。

 けれど、それでも、やらなければいけない。

 人々の命を守るためにも、

 父の行いを見定めるためにも──


 幸いなことに、見張りは居なかった。念の為に第一階層へ移層したのが良かったのだろう。このまま研究所を脱出するのも考えたが、正面玄関はしっかりと施錠されていた。これは第二、第三階層も同じ。

 部屋を移る。誰にも悟られず、観測室に入室。早速機材に手を触れた。アクセスし、サーバーから回路を見つけ出す。

 移動は一瞬。

 第二階層と変わらぬ静寂が、そこにはあった。

 本当に移動できたのか、警戒しながらも、外へ飛び出す。誰も居ない。誰の姿もない。兵士達が担当した区域へ赴く。

 不意に視線を感じた。猫の鳴き声に似たものを聞き、辺りを観察する。問題はその先にあった。

 暗がりの道──まばらに設置された白い街灯の下に、何やら黒いものが佇んでいる。人の形。人間だ。ハルタは思わず息を止め、壁の影に隠れる。


 雲のかかる満月の下──髪の長い女は立っていた。


 解像度が高いから鮮明に見えるのだろう。けれど白いワンピースはか細く光り、虚ろな輪郭を描いていた。まるでこの世のものとは思えない、幽玄の存在。全身から汗が噴き出す。女の前髪が垂れ下がり、表情は窺いようがない。両手も脱力したように下ろしている。奇妙なのは、裸足であること。

 体をくねらせるようにして、一歩。左に向かって道を渡ろうとしている。気味が悪い。合わせるようにしてハルタも後退る。尚も、女は、歩こうとした。でも調子が狂ったように──或いは全身を骨折でもしているかのように──足先から動かし、釣られて胸元、頭、と動かしていく。

 喉がつかえて叫び声も出ない。

 どうもすべてが人間離れしている。連想されるのは、幽霊という言葉。ハルタは息を呑む。

 女が、僅かに顔を上げた。目は空洞。開いた口にも真っ黒闇が広がっていた。ハルタは瞬きをする。姿が消えた。ひたひたと張り付くような足音が、遠くから聞こえる。飛び出してしまいそうな心臓を抱えて、ハルタは確認に向かった。

 足音を殺して歩く。背後からでも目立つ、青白く透き通った肌が見えた。消えた地点を凝視してみれば成る程。マンホールから回路情報が読み取れる。回路を利用しての瞬間移動だ。ハルタは女が、警備AIの一種であることを悟り、溜め息を吐く。

 あんなのに見つかっては大変だ。という思いと、

「回路があるなら、早く回収できるかもしれない」

 という淡い希望が心の内から湧き出すのだった。


 壁や柱に取り付けられた爆発物を手に取る。剥がれることを確認すると、ようやくここが現実の下なのだと実感した。そうして手の上で圧縮すると、懐に仕舞っていく。どれほど設置されたのだろうか。想像しただけで眩暈がする。誰も来ないだろうか。念入りに辺りを見回して、そっと息を吐く。

「やるぞ」頬を叩き、活を入れた。「レッツ、ナイスガイ」

 一つひとつ、抜けがないように回収する。回路があるのだ。区域すべてのものを取り外してしまって良いだろう。担当者に疑われたなら、それはその時だ。ハルタは自身が担当した区域を綺麗に片付けると、回路を伝って移動する。これを繰り返し、警備を気にしながら、街を綺麗にしていくのだ。

 額から流れる汗を拭いながら、ハルタは歯噛みする。夜とはいえ夏なのだ、気温も高く、かなり暑い。その上、日中の疲れもまだ残っている。ポケットを見た。かなりの量を詰め込んだのもあって、膨らんでいる。少しだけ休憩したい。時刻は午前三時。およそ三時間ほど休みなしで作業したことになる。

 息を漏らして、研究所を向いた。


 ──と、影が目の前に覆い被さった。ぽっかりと空いた穴がハルタをじっと見つめる。生温い風が頬を撫でた。全身の毛が逆立つ。二人の手足は重なり、一体化していた。


「おやおや、悪い子が居ますねえ」

 背後から女の声。一秒遅れてから、それがジータのものであると理解して、僅かに安堵する。

「どうしてここに……」恐怖で声が掠れ出た。

「誰かが第〇階層に移動すると、記録が残るんですよ。それで──」足音が近づく。「貴方はここで何をしているのかな……っと」

 ジータがハルタの身体を改め、ポケットの中を弄った。無論、そこに収められているのは爆発物。ほお、とジータは感心した素振りを見せて、

「気付くのが早いですね」

「そうだな」と言ったのは、背後のまた別の声──アンタロウのものだ。「そう言えば、探偵に拡張プラグインしてもらっていたんだったな? 電子機器にアクセスできる」

「成る程、道理で……」ジータが息を漏らす。

「流石だな。警備AIを観察して、回路を見つけたか。良い洞察力だ」

「父さんは」ハルタは後ろを見ようと首を捻った。「何をするつもりさ」

「わからないか? 爆破テロだ」

「どうして」

「どうして」からかうようにアンタロウは繰り返す。「それを聞いて何になる」

「俺は、父さんの無実を信じてた」

「今は信じてないのか?」

「……わからない」

 ハルタは胸を掻きむしりたくなった。心の中では答えが出ている。

 真っ黒だ。けれど、それと認めたくない。

 空は曇り始めていた。雨が降るかもしれない。辛い時は重なるものなのだろう。

「わかる必要はない。俺だけが知っていれば良いことだ」吐き捨てるような言い方だった。「連れて行け」

「はい」

 ジータの返事とともに、幽霊が歩き出す。ハルタの手足が勝手に動いた。抵抗する術はない。

「父さん!」ハルタの叫びも虚しく、虚空に消えた。

 機材から、第一階層へ移される。

「またまた自由に動けないようにしましょうね」

 不気味なほど丁寧な口調で、ジータは言った。幽霊とジータが消失し、代わりに車椅子が埋め込まれる。身体はぴったりと密着し、立ち上がることさえ叶わない。移動装置は勿論のこと封じられている。爆発物は回収された。

 また、ジータに押されている。

 通路をからからと回る車輪の音。

 無機質な光景。

「何を企んでいるんだ……」ハルタは半ば絶望的な思いで呟いた。

「天国」と、一言。ジータは息を吸い、「この世に天国を創造する。それが当面の目標です」

「は……?」

 一瞬、ハルタは呆気に取られた。天国の創造。それが意味することが何なのか、具体的に想像つかない。ジータは可笑しそうにくすくすと笑う。

「ものが圧縮できるのは何故だと思います?」

 想定していない方向からの質問に、またもハルタは驚いた。翻弄されている。主導権を握られていると感じながら、

「情報を変換しているから、でしょう……」

「私が訊いているのは更に奥の話ですよ。どのようにして情報を変換すると、圧縮されるのか」

 ものの姿形はそのままに、大きさだけが変わる。情報の変換──圧縮。いわば解像度の低下。

 解像度。

 いつかの話を思い出す。リヒト──厳密にはそう演技していたアンタロウ──は言っていた。ここは階層空間だと。曰く、

「立方体が並立しているが、実際には空間ごとの大きさが異なっている。上の階層に行くほど解像度が下がるのは、段々と縮小し、容量が減っているから」であり、「上の階層に向かうほど、空間の容量は三分の一ずつ減って」いると。


「これを結ぶ線こそが四つ目のベクトルを持った軸となる。即ち四次元空間を構築するための線だ。私達はこれを、便宜上『回路』と呼んでいる。階層移動はこの回路に従って行われる」


 ものの圧縮や展開も同じ方法を使っているとしたら?


「上の階層に送ることで、解像度を減らしている……」ハルタの呟きに、

「貴方は本当に物分かりが良い」ジータは楽しそうに笑い混じりで言う。「ご名答。そうすることで、ものの情報かたちは変わるんです」

「でも、それじゃあ──」

 問題があるではないか。ジータが遮るように、

「ものが手元に残るはずがない。そう言いたいのでしょう?」と先手取り、「ここが妙な点なんです。惑星の核に干渉したことで、世界が階層現実へと改変された時──同時に、我々人間の機能にも干渉があったらしいのですよ。つまり例外規定が適用された」

「そんなまさか……」ジータは自分を騙そうとしている。「そんなことまで核の書き換えで出来るわけないじゃないですか」

「どうしてそう思いましたか?」

「だって……惑星の核を変えた結果が、他のもの──この場合は俺たち人間ですけど、それ──に反映されるはずが……」

「反映されるとしたらどうですか?」

 車椅子が止められた。そういえばどこへ連れて行かれているのだろう。何も聞かされていない。にわかに不安が生まれ出した。ジータは背後で、小さく独り言。誰かと通話しているのか、会話のようだった。しかし死角に居るので、実際はどうなのか、どうあがいても確認できない。

 と、どこからか怒号がした。外からだろう。拍手のような乾いた音が、二度。断続的に鳴り響いた。どん、と壁の叩く音がこだまする。

「さあ、行きましょうか」素知らぬふりをして、ジータはまた、車椅子を押し出した。「それで……先ほどの続きですが、もしも惑星の核を書き換えた時、人間にもその影響があるとすれば、どのようなことが考えられれると思いますか」

 人間が惑星の影響を受ける理由。

「惑星の核の中に、人間にまつわる情報も組み込まれている、とか……」

 ぱぱぱん、と乾いた音がする。

 何気なく見た窓からは、軍隊だろうか、隊列をなす者の姿があった。隊員達は研究所に向かって盾を向けている。乾いた音──閃光。それらが同時に起きた。銃声かもしれない。ハルタはそう考えたけれど、実際のところを知らなかった。

 ただ、そこで対立が起きている。それは確かだ。

 雨が降り出して、窓を濡らす。もう外は見えなくなった。

「恐らくは、その通り」とジータは指を鳴らしたらしい。「惑星の核情報には、それと思しき文字列があったと、フタミヤは言っておりました。従って我々という情報はこの惑星の一部ということになります」

 意識を外からジータへ移す。

「外では何が?」

「さあ。それより、私が言ったことはきちんと理解していますか?」

「そりゃ聞いてますよ……でも」

 赤い何かが窓の外から煌めいた。ガラスの割れる音。それは曲線を描いて着地し、辺り一面に赤色が広まっていく。小さな悲鳴。確か、そこには隊員達が立っていた。

 脈拍が早まる。

「外で何が……!」

「フタミヤ・ハルタさん」ジータの冷たい声が意識を引き戻した。「今は、会話を楽しみませんか?」

 提案ではなく脅しに近いニュアンスを感じ取り、ハルタは僅かに顎を引く。選択の余地はないらしい。

「素直で宜しいです」とジータ。「さて、惑星の核を書き換えることが、どれだけの影響を及ぼすのか、おわかり頂けたと思います。そして、我々の目的も」

「天国の創造……」

「彼の表現によれば、天国下ろし──」ぱちん、と音を鳴らす。「そう、探偵さんにお伝えください。それで彼女はご理解頂けるはず。では、また」

「また? またって……」近くにジータの気配がない。置いて行かれた。「ちょっと! 解いてから行ってくださいよ!」と呼びかけても応じない。「なんてこった」

 どこからか爆発音。父はボタンを押したのだ。始まってしまったらしい。胸が苦しくなった。立て続けに耳をつんざくほどの爆音が鳴り、避難警報が響く。

 突発的な雨のせいで、肌にまとわりつくような、じめっとした空気。


「なんてこった……」


 恐れていた事態が現実となった。ハルタは下唇を噛む。自力で車椅子から脱出しようとしたが、埋め込まれているのがネックだ。核情報が混ざり合っている以上どうしようもない。通路の奥から防護服に身を包み、銃を構えた男が一人。こちらに走り寄ると、

「フタミヤ君か?」ゴドー刑事だった。ハルタが頷いて応じると、「凄いことになってるなぁ」車椅子と一体化した姿を見て驚くと、困ったように頭を掻いた。

 ハルタはこれを流して、

「良くここがわかりましたね?」

「ハムロさんの通報があったからね。調べてみれば、確かにチェン社長の出入りが確認できた。君が誘拐されていたから、突入出来たんだ。不幸中の幸いってやつだね」ぺしん、と音を立てて薄くなった頭を叩く。「さあ、ここは危ない。早く出るぞ」

 ゴドー刑事に車椅子を押されながら、ハルタは教えた。

「この街全域に爆弾が取り付けられているんです」

 刑事は目で頷くと、無線機を取り、連絡を入れた。それからハルタを車椅子ごと出口へと運んでいく。研究所内からも火の手が上がっていた。爆発音や地鳴りと相まって、時折り、地面が大きく震動する。

 研究所の外には、どこもかしこも煙が上がり、景色といえばどこも赤と黒のコントラスト。出入り口付近ではアイノが車を停めて待機しており、助手席にはベリコが座っていた。市内全域が危険だということは、皆にも既に伝わっていたらしい。

 移層して車椅子を解いてもらうと、

「今のは……」刑事が目を瞠って言う。

「後で説明します」アイノが無理矢理、刑事を乗車させた。そしてすぐ発進。「安全運転は望まないでくださいね」

 シートベルトをつける余裕もなかった。

 街はパニックに襲われている。車道の上であるというのに、人々がでたらめに走り回るので、車で通るのも危険だ。近くでは爆発に次ぐ爆発。しかし連続的ではない。断続的だ。悲鳴と号泣。それは車内からもあがった。

「お帰りなさい、フタミヤ君。無事だった──」

 きゃあ、と甲高い悲鳴。ベリコは乙女のように胸の前で両手を握りしめる。

 計算され尽くしているかのように、行く先々で爆破は起こった。意思を持って追いかけてきているようにも思える。アパートが吹っ飛び、壁面は瓦礫となって、車の窓ガラスを割った。死角から、逃げてきた親子連れが飛び出し、轢きそうになる。爆発のせいなのか、地面が盛り上がり、車を浮かせた。その度にベリコが叫ぶ。ハルタも生きた心地がしなかった。アイノは冷静にハンドルをさばき、道を変えていく。

「今のは危なかった」と刑事が眉を顰めた。

 シートベルトを握りしめながら、後部座席から背後を見やる。ビルやマンションが崩れ、今や見る影もない。ハルタが回収した建物も、何故か爆発していた。まさか、と直感する。自分が取り付けたものとは別の爆弾が、既に取り付けられていたのではないか。ハルタは戦慄して、息ができない。

 もっと以前から仕掛けられていたのなら、この街に無事な場所はないだろう。なら、どうすれば良い?


「次の道を右に」と女の声がした。

 ベリコでもアイノのでもない。誰の声だろうか? ハルタはきょろきょろと回りを見る。誰も居ない。

「今、声が……」狼狽しながらハルタは訊く。

「何を言ってるんだ」額に汗を滲ませながら、訝しげにゴドーが聞き返した。

 破裂音が鳴る。爆炎とともに左の道が塞がれて、アイノは右へとハンドルを切った。声の通りに車は進む。

「次は左へ曲がってください」

 また、女の声。

「次の道を左へ進んでください」ハルタは叫んだ。

「了解です」

 アイノがハンドルを切る。右のルートからは爆音が轟き、空気を震わせた。窓ガラスが割れる。冷や汗が出た。

「次は!?」ベリコが催促する。

「えっと──突き当たりを右です!」

 すぐ傍で爆ぜたらしい、光が見えて、遅れて爆風が車体を揺らした。横転しそうになり、何とか凌ぐと、アイノはアクセルを踏み鳴らす。車が唸った。瓦礫だらけの道の上を、がたがたと揺らされながら進む。座席上で身体が跳ねた。途中、飛んできた破片がフロントガラスに突き刺さる。ひび割れて視界が悪くなったので、運転手(アイノ)はライノと入れ替わり、これを肘で()った。

 もう生存者の姿は見えない。どれだけの人が無事なのかさえ、想像を絶した。火と灰が舞い、真っ黒な雨が降っている。煉獄だ。ハルタは自らの業がもたらした現状に、叫び出してしまいそうになるのを抑え、道案内ガイドに徹する。

「君は爆発する場所がわかるのか!?」びっくりした顔でゴドー刑事がハルタを見た。

「説明は後です! 次は真ん中を進んでください!」

 炎に包まれる高層マンションを仰ぎ見て、空へ視線を移す。厚ぼったい雲に満月は覆い隠されていた。夜はまだ明けそうにない。

 車はやがて、海上を跨ぐ橋の上まで差し掛かった。流石にここら一帯には仕掛けられていないはずである。誰もが安心しかけていた。けれど、既に大きな問題が起きた後だったらしい。


 ブリッジシティは大陸間を繋ぐ大きな機械仕掛けの橋だ。自転する、一つの島──孤島なのである。

 地下から軋むような、変な音がした。地面に亀裂が入って歪んでいく。まるで回転しているかのように。

 いや──まるで、ではない。

 橋があるべき場所から大きくずれている。これでは脱出は不可能だ。だが問題は更に、

「今、ぴき、って音したよな」ゴドーが耳にした音から判明する。

 真下の亀裂から溝が生まれた。枝分かれして、広がっていく。やがて車を取り囲むように亀裂は増え、いつ落下してもおかしくない状況にあった。

 さながら薄氷の上。ルームミラーには、ベリコの真っ青な顔が見えた。

 車体が大きく前に傾く。

 重力の向きが変わった。

 前髪が前方へと垂れ下がる。

 道路に穴が空いていた。そこへ嵌まったらしい。ぽっかりと空いた穴から、闇が覗き見える。海が広がるはずだが、その先には何もない。ハルタにはそう見えた。落ちても、きっと着水することはないだろう。

 しばらく静止していた。誰も何も言わない。祈りの時間が過ぎていく。だが、ハルタは悟った。車は落下すると──


 そして、地面が抜け落ちた。


 悲鳴をあげる。けれど何も聞こえない。風を切る音が、耳に蓋をしているのだ。胃が浮くような浮遊感。立ちくらみの感じがずっと続いた。眼前へと急速に近づいてくる闇を、ヘッドライトが明るく照らす。車を飲み込もうと、海は大きく口を開いていた。


 揺れる波間を、ボンネットが貫く。飛沫とともに頭が大きく揺さぶられた。万歳をするように両腕が上がる。血の気が引き、意識が遠のいた。

 薄く開いた目蓋から──欠けたフロントガラス越しの海は、深く、暗く、とても蒼い。

 沈みゆく車内では、全身を漂う泡の音がして、息ができなくなる。これが罪に対する罰とでも言うように。夏の海の生温さが、酷く気持ち悪かった。

 前の座席では、ベリコが気絶しているのか、まったく動かない。髪が四方八方に揺らめいて、藁をも掴もうとして見える。隣では、ライノがナイフを手に、シートベルトを切っていた。切断し終えると、真っ先にベリコの救助へ向かう。

 薄れる意識下で、ハルタの口から息が漏れた。脱出しなくてはと意識した頃には、もう、体内に酸素は残っていない。

 と、そこへゴドーから手が差し伸べられる。掴むと、強く引き寄せられ、フロントガラスから外へ出て、浮上した。もがくように顔を出すと、大きく息を吸う。隣では、ベリコがライノに抱えられるまま海面に顔を出していた。四人は仰向けになると、海面を力なく漂う。

 生きている──ハルタは泣きそうになった。冷たい雨粒が頬を撫でるように伝い、海へ消えていく。街の方では、煙が高くそびえ立っていた。先端は夜空と繋がり、境目がわからない。ハルタの目には塔のようにも、竜のようにも、魂を鎮める墓碑のようにも見えた。

 火はいずれ雨によって消されるだろう。しかし壊れてしまえば、元には戻らない。それがこの世の(ことわり)なのだ。いつかどこかで聞いたことがある。時間と重力は、どのような次元や空間であっても、変わらず存在するということを。

 どれだけの魂が昇天したのだろうか。上層には、天国と呼ばれる階層(レイヤー)があるらしい。けれどそんな事実では、生と死の重みは変わらない。変わりようがない。消えた命は帰ってこないのだから。

 目を瞑り、ためらいがちに息をする。

 瞼を開ければ夜空が見えた。

 空の上には宇宙などない。

 それというのに満月は、雲の切れ間から煌々と輝いて、その存在を確かに示していた。ずっと昔から、そこに居たことを示すように。ハルタにじっと、視線を注いでいた。

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