第五話 第〇階層より
まず先に音がした。
名称しがたい入り組んだ音。
それらがやがて風の音だと分類され始めると同時に、言葉を得た。ノイズが走る。言葉が世界を捉え、認知に変化を及ぼした。それは風の音だ、とようやく理解する。やがて認知するもの自体を認知し規定し──ハルタの自我意識は復活した。
次第に全身の感覚が芽生える。
ここは暗闇。ハルタはゆっくりと、目を開けた。視界に映るのは変わらぬ場所。IL社のサーバールーム。何も変わったところはない。階層を変えても景色は同じだ。
けれども、ここは隠された回路の先──第〇階層。現実世界の下。地球の核に近しいのではないだろうか、と思われるほどの引力が感じられる。その引力としか言いようのない、奇妙な感覚の正体が何なのか、ずっと考えた。
「現実味……」ハルタは呟く。
まるで夢の世界から目覚めたかのような。今の身体には、強烈に、はっきりとした、感覚が芽生えている。地に足がついたような安定感があった。今まで居た世界は、まるで幻だったように思えて仕方がない。
隣ではアイノが辛そうな表情を浮かべている。顔貌が切り替わり、ライノが現れた。しかしライノもまた、脂汗を流している。
「ここは、感覚が過敏だな」
確かにそうだ。解像度が高いから──だろう。上の階層へと行けば行くほどに意識や感覚は希薄になる。けれど、下に降りるほどにそれは強まっていくのに違いない。
ただ双子は、ハルタ以上に敏感に感じられているはずだ。何故と言って、二つの意識が同時並行的に存在しているから。ライノ達が、一体どのように感じているのかまでは、ハルタにはわからない。共感不可能だ。だからこそ、理屈で推し量るしかない。
ハルタは自らの手のひらを見つめ──そして思い出した。悠長に構えている場合ではない。発信機を辿って、練路機を見つけ出さなければならないのだ。もう一度サーバーに手を突っ込み、目眩く情報の渦と対峙する。
発信機は今、どこにある?
質問に答えるかのように、応答した。
発信機はビルの屋上。
サーバーから抜け出すと、ライノにそれと教え、頷き合う。
「ハルタ君、警戒は怠るなよ。ここからじゃ所長とは繋がらない。それに」と言って、「移動装置も駄目だ。上階に移層できない。ここは孤立した場所らしい」
確かめてみると、確かに反応しない。
〇は無を表す数字だ。独立して完結し、他を寄せ付けない。戻るとすれば同じ回路を辿るしかないだろう。
「気を引き締めていくぞ。どこに何があるか、わからないからな」ライノは些か緊張した面持ちを作った。
「大丈夫です。ナイスガイを目指してますから」
完璧になるために、これまで一度も怠ったことはない。ハルタは親指を立てて応じた。
ライノはきょとんとした顔を見せた後、「良し……その意気だ」と、鼻息を漏らす。扉を静かに開き、辺りを窺った。誰も居ないとわかるや、ハルタを見つめ、「行こう。階段は向こうにある」
そう視線で示す先を、ハルタは見据える。
二人は壁伝いに道を渡った。どうやら、抜け穴はないらしい。間取り図そのまま、罠はどこにも存在しなかった。同様に、亡霊も居ない。酷く静かだ。それがかえって不気味に感じられる。ハルタにはこれが、嵐の前の静けさのように思われてならない。
階段まで無事に辿り着き、二人は顔を見合わせる。互いに目で頷き合うと、まずはライノが先導した。殿よりも目的地──進行方向をこそ警戒すべきだ、という考えからだろう。ハルタは足音を立てずに後ろ姿を追った。
三階ほど上ると、少しばかり、膝に疲労感がある。
屋上へと続く扉を前に、ハルタは膝を折った。ライノは首だけを回し、ハルタのことを一瞥。
「用意は良いかい」
息を吐くとハルタは親指を立てた。
ノブを捻る音。軋む音を立てながら、扉は開いた。
真っ黒な空。
煌めく星々。
赤く燃える惑星に、青く澄んだ星。
外は非日常に塗れた景色にあった。
ハルタが唖然とする中、屋上に一人、ぽつんと佇む男の姿を認める。男は空を見上げていた。男の居る位置と、発信機の居場所は同一。つまり、男が発信機を持っている、ということ。
「我々が宇宙の下にあるということを、どうも忘れてしまう……君はそう思わないかね?」男は振り返り、こちらを見るなり、片方の眉を上げてみせ、「君達は……」
ハルタはその男を知っている。
カンザキ・リヒト。研究所の所長だった男。爆発事故以来、行方不明になっていた人。
彫りの深い顔立ち。白い髪。白い肌。そして白衣。歳は初老に差し掛かっているはずだが、それよりは若く見える。背は高いが、全体的に不健康に細身だ。茶色く濁った瞳は、果たして、何を映しているのだろう。
「あんたはカンザキだな」ライノが問いかけた。
「いかにも」相手は答える。
「何故ここに居る?」
「それはこちらが聞きたい。君達は何故ここに居る?」
「先に質問したのは俺だ。答えろ」
ライノはリヒトを睨め付ける。
「おお、怖い怖い」リヒトはおもむろに背中を見せると、欄干に手を置いた。次いで大きく息を吐くと、「それを知って何になる?」
「聞いてから考える」
リヒトは肩を竦めてみせ、
「そうだな……ここのことは機密だったが」と言い、「君達がここに居る以上、それも無意味だ。仕方ない」そう独りごちる。「九年前に爆発事故があったな。私は巻き込まれる寸前に、ここへ避難したのだ」
高慢な物言いに、ライノは微かに顔を顰めた。
「ここは何だ。あんたはここで何をしている?」
「ここは第〇階層だ。そう名付けられていただろう?」リヒトはこちらを向く。背中を欄干に預けて、宇宙を見上げる。「簡単に言うなら、基準の世界だ。わかるかね。現実はすべて、ここを基準にしている」
建ち並ぶ建築物は、ここで建てられた。リヒトはそう告げる。だからここにあるものは容易に崩れ、壊れていくわけだ、と。
「でも現実階層では、建物が壊されることはなかった」ハルタの疑問に、
「それはそうだ」とリヒト。「当たり前じゃないか。上で起きたことは、下の階層には反映されない」
「何故こんな場所がある」
「ここが本当の現実だからだ」リヒトは宇宙に目を向ける。「見ろ。あの青褪めた惑星を」
視線を追ってみれば、そこには真っ黒な海に浮かぶ、青褪めた球体があった。その惑星があるのは、月があった位置に同じ。月はどこにも見えない。
「ここは──この惑星はどこなんだ?」ライノが呻くように訊いた。
「さて、な。ここが地球か、月なのかは知らない。何よりいつから我々がここに居るのかすら、わからない。我々はどこから来たのか、我々は何者か? それが研究の出発点だった。わかっているのは、二つ。現実はこの惑星の中にしかないこと」
「どう言うこと……」ハルタの問いに、
「我々もこの世界も、情報からできている。情報の海においてでしか、情報は活動し得ない。そして宇宙に情報はない」
ライノは生唾を飲んだ。
「……それで? 他に何がわかったって?」
「ここは階層世界である──即ち何者かが、この限られた現実の上に階層空間を作り上げたということだ」
「階層空間……」ハルタは繰り返す。
「左様」リヒトは深く頷いた。「ここは三次元空間だ。君も学校で習っただろう。縦、横の二つの軸を持つ二次元正方形を二つ並べ、各頂点を結ぶ」空中に手をかざすと、図が描かれていく。「すると三次元立方体が出来上がる。この二つの正方形を結ぶ線こそが、三つ目のベクトルを持った軸、『高さ』を表すもの──即ち三次元だ。階層空間は、これを更に並列的に置いたものと言えるだろう」
言葉に合わせて、立方体が幾つも並び置かれた。リヒトは無感情に説明する。
「三次元立方体を二つ並べ、各頂点を結ぶと、奇妙な構造物が出来上がる。これこそ四次元空間だ。立方体を一つの空間と見做した時、隣に並ぶ空間はいわば並行世界と言えるだろう。例えば第〇階層、第一階層、第二階層……というように」
ハルタはリヒトに見つめられたので、理解したと示すために首肯した。ライノは怪訝そうな表情をするのみで、変わらず顰め面を浮かべている。しかし、リヒトは気にした様子もなく、
「これを結ぶ線こそが四つ目のベクトルを持った軸となる。即ち四次元空間を構築するための線だ。私達はこれを、便宜上『回路』と呼んでいる。階層移動はこの回路に従って行われる」
ハルタは目を見開いた。ライノも流石に驚いたらしい。一度、ハルタへと顔を向ける。
「この図形では」とリヒトは誰にともなく説明した。「立方体が並立しているが、実際には空間ごとの大きさが異なっている。上の階層に行くほど解像度が下がるのは、段々と縮小し、容量が減っているからだ。十二年前の計測によると──」
「十二年前!」ハルタは叫ぶ。「まさか、それって」
「そうだったな。世間でも有名だった。確か、大量自己喪失者と言ったか」リヒトは悪びれずに、「研究所内の人員ではバッファが足りなかったのだ。だから、近隣の方々にも頭脳をお借りした」
「自分が何をしているのか、わかっているのか?」ライノは呆れたように訊いた。
「その結果を君達に説明しているところだ」さてと言い、「上の階層に向かうほど、空間の容量は三分の一ずつ減っており、すべてで二十の階層があることが判明した。このため土台は太く、先端に向かって細くなっていくという塔のような全体像となっている。おわかりかね?」
ライノは舌打ちした。
「そんなの知ったことじゃない。再三訊くが問題は、あんたがここで何をしているか、ってことだ」
「発信機の持ち主を待っていた」リヒトはポケットから、ベリコが仕掛けた発信機を取り出して言う。「恐らく君達のものだろう?」
ライノは歯噛みして、「練路機はどこにある」
「今はもう、ない。どこに運ばれたのかは、私にもわからない」
ライノは距離を詰めると、リヒトを羽交締めにした。手のひらから圧縮されたものを取り出すと、展開させ、探知機へと変化した。それでリヒトに埋め込まれてある、移動装置を探したが、見つからない。探知機を仕舞うと、同じように懐からものを取り出し、今度はロープへと展開させた。それをハルタへと手渡す。
「これでこいつを縛ってくれ」
「何の真似だ?」冷たい声色でリヒトは訊ねた。
「あんたのことは警察に引き渡さなけりゃならない。知りたいことはまだまだあるからな。ハルタ君」
突然呼びかけられ、ハルタは上擦った声で返事する。
ライノは口元を歪ませて、「扉を開けて、ホテルまで先導してくれ。多分何もないとは思うが、これを」
と投げ渡されたのは、鉄パイプだった。棒術の心得などない。もし亡霊と対峙しても、一人しか持っていけないのではないか、とハルタは思う。手にしっかりと持つと、
「武器になるかは、まあ、君次第だ」
ライノの言葉に頷いた。
三人は第〇階層からサーバー内の回路を伝い、第三階層へ渡る。オフィスからの脱出は、難なく成功。ホテルへ向かい、第一階層に戻ると、途端に安心感が芽生えた。解像度はやはりこれくらいが丁度良い──と。
リヒトを引き渡すため、ゴドー刑事に連絡。空中に展開されたウインドウからは、嬉しそうな様子が見てとれた。いずれ警察が到着するが、それまで十分ほど掛かるだろう。それまで、聞き出せることを聞いておくことになった。
ウインドウよりゴドー刑事も尋問に参加すべく、入室の許可が求められる。ベリコはこれを了承した。程なくして、刑事はホログラムとなって展開。その場に現れた。頭を手で叩き、軽快な音を鳴らして、
「やはり生きていたか、カンザキ所長」
にこにこと笑顔で話しかける。対するリヒトは無言を貫いた。
第〇階層で聞いた話を、そのままベリコ達にもする。探偵はリヒトから受け取った発信機を手に、微妙な顔で、
「成る程ね」の一言。
それから、ロープで椅子に埋め込まれ、縛り上げられたリヒトを見据えていた。更に念のため、脱走しないように、ハルタとライノの間──玄関から離れた位置に座らせる。
ベリコは出口を塞ぐようにして、リヒトに相対した。
「さあ、知っていることは全部吐き出して貰いましょうか」
「言うことはない」リヒトは目を閉じる。
「そうかそうか」何故かゴドーは嬉しそうに、「だがこちらには訊きたいことが沢山あるんだよ。まず……爆発事故を起こしたのはお前さんか?」
「言うことはない」とまた繰り返し。
「否定しないか」
「誰と協力しているの?」ベリコが訊いた。
「言うことはない」
「練路機を使って何を企んでいるの?」と探偵が、
「目的は何だ?」と、刑事が立て続けに質問。
リヒトは口を開く。しかしそれも「どちらも言うことはない」の一点張り。答えようとしなかった。
このままじゃ埒があかない。ハルタはライノを見やったが、目が合った瞬間、黙って首を振る。仕方なく視線を戻した。
「貴方、表情一つとして変えないわね」ベリコは目を細める。「もしかして、顔にホログラムを施してるんじゃないかしら?」
「言うことはない。しかし──」リヒトは目を開けた。「面白い推論だ」
「あら、図星? 言ってみるものね」
「君は何故そう考えた?」
「そうね……」ベリコは鼻息を漏らし、「本当にカンザキ所長が生きているのか疑わしいから、かな。爆発したから回路を使って逃げ延びたとして、果たして間に合うのかしら」
「とは言え、例外もある。爆発することを見越して避難した場合だ」とリヒト。
「けれど、事故直前まで所長は中に居たことがわかってる。居なかったのは私の兄だけ。でもその兄の死体も、研究所の外で見つかっている」ベリコはゴドー刑事に顔を向けて、「そうですよね?」
「うん、その通り」との返事。
「所長が生きているはずはない」答えを受けて、ベリコはリヒトを睨みつける。
「なら私は何者かね?」
「所長の死体は見つからなかった」傍からライノが口を挟んだ。「あんたが所長である可能性を俺は支持するね。その上で、表情が出ないようにしている──いや、というよりも本当に、まったくないんだな。あんたはまるで、木偶の坊だ」
「貴方も感情がないのね。そこは、兄さんと同じ」
「言うことはない」リヒトはやはり、顔色を変えない。
「死体が見つからなかったのは」ベリコはリヒトから目を逸らさずに言い出す。「爆発で跡形も残らなかったから、という可能性もあるわ。見つからないから生きているとは断言できない。貴方は確かにカンザキ・リヒトの姿をしている。でも、偽装する方法なら幾らでもあるでしょう? ホログラムで姿を似せることもできるし、或いは──」そこで一度、唾を飲み込んだ。「AIかもしれない」
ハルタは絶句してベリコを見た。これが本命だったのだろう。死者が甦る方法として、AIに模倣して貰うわけだ。それはさながら、ジータ・チェンの経験を、警備AIが引き継いだように。
「私は私を複製したと?」リヒトは首を捻る。「その理由は?」
「さあ、ね。それはわからないわ。でもあたしが知る所長さんは、何を答えても鉄仮面みたいに何の反応も示さなかったりはしなかった。少なくとも、もっと感情があったように見えたわ」
「人は変わるものだ。さて、君と前に会ったのは何年前だったか」リヒトが試すように訊いた。
「爆発事故が起こる前。十年前だったかしら」
「なら、人が変わるのに充分な期間と言える」
「ね、貴方は本物なの?」
「さあ……それについて、言うことはない」リヒトは薄笑いを浮かべた。「他に考えは?」
ベリコは車椅子を移動して、リヒトに一歩分近づく。それから口を開き、「練路機が盗まれたのは、軍事利用のためだった」と、囁くように言った。
「その根拠は?」
「研究所はジータ・チェンと繋がりを持っていた。貴方はIL社の屋上で、練路機に仕掛けたはずの発信機を持っていた」
「それだけか? 断定するには証拠がない」
「噂が立つには充分じゃないかしら」ベリコは優雅に微笑む。
「面白い」しかしリヒトはにこりともしない。「続けなさい」
「では遠慮なく。練路機は回路を作る……。同じ階層内であれば、身体を圧縮することで、瞬間移動できる。また、貴方の説明の通りならば、異なる階層も道で繋げられるようね。これなら戦場でも役に立つと思うのだけど」
使用法ならば幾らでもあるだろう。敵地への潜入、弾丸に当たらない兵士の創出、爆発物の埋め込みを利用した戦法……など。
しかしリヒトは反論する。
「練路機にそうした使い道があるのは認めよう。だが、それで? 練路機を売って金にするよりも研究に充てた方がメリットも多いのではないかね」
「そうね。解釈が間違っているかもしれない。でも、事実はどれも研究所と民間軍事会社とを繋げるものばかり」
「例えば?」
「先日、研究所から練路機が盗み出された。強盗犯が何者かはわからない。でもフタミヤ君のお陰で、一人逮捕された」
リヒトは二秒ほどゆっくりと瞬きし、「そうか」とだけ。ベリコはそんな様子をじっと観察していたが、説明に戻り、
「警察の取り調べで、彼らは人間だということが判明したわ。つまり、AIではなく人間を従えている。では金で雇ったのか? 彼らは何を理由に協力したのか。それは、どうも口を割らないらしいわね。何故かは知らない。ただ理由を聞けば、『あんたらは信じないから』らしいけれど──同じ目的を共有していることは、何となく察せられるわ」
リヒトは黙って耳を傾けている。脱走しようという気配はない。諦めているのだろうか? ハルタはベリコの話に意識を戻す。
「そんな彼らが練路機を狙った。ということは、練路機で何かをしようとしている。練路機ができるのは、回路を作ること。つまり──」ベリコは首を傾げた。「軍事転用」と、天を仰ぐ。「ねえ、貴方達は何が目的なの?」
「言うことはない」
「そう。言うことは何もありません」
女の声がしたかと思うと、中央にとある姿が幻出した。それはIL社社長──ジータ・チェン女史。撫で付けられた金髪は、綺麗に整えられている。黒いスーツに紫色のネクタイ。ヒールを履いているためか、アイノよりも背が高い。笑みを浮かべるたびに見える八重歯も、獰猛な目つきのために愛嬌を失っている。むしろ鋭利な刃物が連想された。
驚く間もなくジータはハルタの襟を掴む。思い切り引っ張られ、ハルタは間の抜けた声を漏らした。
「姉貴……」
ライノが慌てて掴み掛かろうとしたが、あっさり避けられ、指先は空を切る。
ジータはハルタを抱え込んだ。ハルタの首筋に冷たいものが当たる。ナイフだろうか? わからない。
「お初にお目にかかります」
ジータは丁寧な語調でそう言うと、ハルタを掴む手で、指を鳴らした。と同時に半透明の幽霊達が現れ、ライノとベリコを囲み込む。
「手荒な真似はよせ」リヒトが忠告した。
「わかってますって。こういうのは第一印象が大事なんです」ジータのそれは、笑いを堪えているように聞こえる。「さて、今日はお日柄も良く、日差しも強いようで、散歩には向きませんね。しかしどうやら──話によると、我が社へおいでなさったようで。忙しい身のため、応対もできず、申し訳ありませんでした」
耳元で短く嘆息して、また指を鳴らした。亡霊達が機敏に動き、移層。ベリコら三人の中に埋め込まれていく。そうして亡霊は手足を壁や床に埋め、皆と融合した。ライノはもがいていたが、体内のAIが邪魔で、思うように身動ぎ一つとしてできないらしい。ゴドー刑事はホログラムだったから助かったものの、状況が飲み込めず、困惑しきっていた。
また、ナイフが首筋に当たる。
生きた心地がしない。血管が収縮したような気がする。脈が強く波打った。指先が冷たい。ハルタは目を瞑り、そっと息を吐く。ナイスガイを目指すなら、もっと堂々としていなければ。
「ナイフを持っての謝罪だなんて、卑怯だ」ハルタは震える声で言い退ける。
ジータのくすくすと笑う声。
「ええ……。お詫びしたいのは山々なのですが、状況が状況ですからね。それにしても、気に入りました。貴方、名前は?」
ジータの顔が近づく。
ハルタは離れるように、ベリコを見つめた。探偵はじっとハルタを見つめ返す。
「フタミヤ・ハルタ」
「フタミヤ……どこかで聞いた名前ですね。ああ、もしかして、フタミヤ・アンタロウのご子息とか」
「さあ、どうかな」知らないふりをしたけれど、ハルタは下手な演技だな、と自覚した。「フタミヤ姓がどれだけ居るのか知らない」
「これはこれは……。面白い問題に当たりましたが──今は時間がありません。今回は挨拶のみとさせて頂き、ここで失礼します」ジータはナイフを放し、リヒトの腕を取ると、「それでは、また──」
視界からベリコとライノが消えた。
否──ハルタの方が階層を移ったのだろう。
第二階層……第三階層……第四階層──と、どんどん上へ向かっていった。次第に自分というものが薄められている。自我を保つのが難しい。これが、昇天だろうか。やはり、わからない。
何も、
何も。
何もかも。
震え、ぼやけ、液状化。輪郭が失われていく。
「苦しいですか?」どこからかジータの声がした。「なら、手放してしまえば良いのです。そうすれば、楽になりますよ」
「楽に……?」返事をするのも苦痛に感じる。
「そう」声は楽しそうに笑った。「無我は快楽ですからね。例えば物語に浸ることも、サウナで整うのも、薬物で気絶するのも、眠りにつくことも、すべて。快楽と呼ばれるものは、どれも我を失うためにあるんです」
あやふやな思考が流れ込んでくる。まるで、思考を埋め込んでこようとするかのように。抗う術が見当たらない。
「俺を、殺すのか……」溜め息のように疑問が出た。
起きているのに眠っている。そんな、夢のような時間に晒されていた。これは圧縮される時と同じ。自分という情報が、別のものに置き換わ ている。
「いいえ」ジータは吹き出して、「今は、まだ」と、そう付け足した。
そうか……とハルタは納得する。と言 よりは、思考に穴が空いていて、結果としてそうなった、と表現すべきかもしれない。今にな て思えば、受け入 てしまったことは不服だった。
拙い……。
何が不味い?
思考回路が遮断されて、上手く考え れない。言葉が波となって揺らぎ、捉えようとすれば、形は崩れて った。
「さあ、目を瞑りなさい」
言われるがまま、ハルタは目を閉ざし、静寂と暗黒の中に、沈澱して く。時間は、重力を失くし、どこかへ消え去 た。
「そして、忘れるのです」
可笑しそうに言う魔術師の催眠に、ハルタは掛けら てしまったらしい。
そう、他人事に思 ながら、やがて気を失った。それはそれは、心地良い快楽。
ゼロになる感覚だった──