第三話 現実の歩き方
爆発事故が起きた九年前──ハルタは七歳だった。母親に連れられた祝日、向かった先は両親の勤める研究所だったのを覚えている。
その日の母は研究員ではなかった。社内見学と称して、ハルタは次々と部屋を通り、数多の装置を目にしたのを覚えている。記憶の中には、もしかするとこれが練路機ではないか、と思われるものもあった。説明してくれたのは父だったか、母だったか……もう覚えていない。
曰く、
「これは回路を作るための装置」とのことだった。だから、路を練ると書くのだろう。今になってそう解釈できた。当時の自分は、上手く理解できていなかったに違いない。確かこうも言っていた。「世界に一つだけしかない」のだと。
それから何をしていたのだったっけ。
遠い記憶の彼方にあって、どうも思い出せない。
覚えているのは、研究所の外。カフェテラスに一人きり。研究所に呼ばれた母を待ちながら、ハルタがサンドイッチを頬張っていると──すべてが一瞬にして白く染められた。次いで、遅れてから音が失われていき、気付くと吹っ飛んでいる。
瓦礫、倒れた人々、青空の下に舞う砂埃。何もかもが壊され、辛そうな呻き声や咳き込む音がこだましていた。ハルタの視界も、次第に霞んでいき、朧気に。
深く息を吐くと──目を瞑り、目を開ける。
と、現実に戻ってきた。
場所は廃校の教室。ハルタはソファに座っていた。隣にはライノ。対面にはベリコが居る。
「気絶してしまって、そこから先は、あんまりよく覚えていないんですけど」何の情報にもならないと思い、取り繕うようにハルタは笑った。「目が覚めたら入院していて、祖母が居て。政府から貰った部屋に暮らしていました」
聞き入っていたベリコは静かに頷く。
「話してくれてありがとう」おっとりとした口調だった。「嫌な記憶なのに、辛かったでしょう」
「いえ、別に……」
もう遠い昔の話だったからか、他人事のような感じ──というのが正直なところだった。ハルタは人差し指で軽く、こめかみを掻く。
「あたしもね、あの時研究所に居たの」ホログラムの研究所に向かって、車椅子に座るベリコから、もう一人のベリコが立ち上がる。「研究員だった兄に、忘れ物を届けていたのね……」ベリコは瞬き一つせず、ハルタを見つめながら、「頭が良くて、要領も良かった──それこそ、貴方の目指す完璧に近かった兄が、書類を忘れていっただなんて、あたしには信じられなかったけど……。頼まれて、あたしは、研究所に向かったわ」
そうして爆発事故は起きた。
書類を手渡した帰り道のこと。
兄の声がして振り返れば、瞬く間に閃光し、意識は途切れていく。この時に両足は機能を失った。
ベリコは続ける。
「誰かに庇われたの。多分、兄さんだったと思う。助けて貰わなければ、貴方に会えることもなかったでしょうね」言い終えると、探偵は目を伏せて微かに微笑した。「これがあたしの経験した爆発事故。いや、爆破テロだった」
「ば、爆破テロ……?」ハルタは驚いて繰り返す。
「そもそも事故なんて起きていなかったんだ」ライノが後を引き継いだ。「あれは事件だった」
「どういうことですか」
「事故が起きる五日前に、脅迫状が届いていたの。『事実を公表しなければ研究所を爆破する』ってね」ベリコは口を曲げてみせる。「ゴドー刑事から教えてもらったのよ。彼によると、送り主はフタミヤ・アンタロウ」
「父さんが?」ナイスガイという生き方を伝授してくれた父が、そんなことをするだろうか。「まさか……」
と、鼻息を漏らしながら、ハルタは頭を振る。
けれど、動機が正義観から来るものならば? 『事実を公表しなければ』という点が引っかかる。父もまた、ナイスガイの精神を軸としていた。嫌な考えが頭を過ぎる。
ナイスガイとは完璧な人間のことだ。即ち正しく在らなければならない。だからこそ間違いは──自他共に──正されなければいけなかった。
けれど、間違いを正すために間違いを犯すことなどあるだろうか──それと考慮すると、可能性は低い。ハルタはすぐさま父の無実を信じた。
ベリコは続ける。
「少なくとも警察はフタミヤ・アンタロウ──貴方のお父さんともう一人……カンザキ・リヒトを疑っているわ」
誰だろうか、知らない名前だ。訊ねると、
「所長だよ。当時、彼も研究所に居た」とライノが説明してくれる。「彼のデータファイルにも同じ脅迫状が含まれていた」
「父さんとその人が脅迫状を持っていたってことですか」ライノたちが頷くのを見て、「じゃあその人が作ったってことはないですか。父さんに限って、テロを起こすようなことはあり得ません」
「断言するのね」ベリコは面白そうに聞いた。「うん。あたしもそう思う。昔、会ったことがあるの。彼はそんな人じゃない。無謀だけど、間違ったことだけは絶対にしなかった」それに、と付け加えて、「人の信頼を裏切るような人でもないわ」
ハルタは口元を緩めて、首肯した。それから一つ疑問が湧いて、
「そのカンザキって人は、どうなったんですか? 爆発に巻き込まれたんですか」
「いいえ」ライノはアイノへと切り替わり、否定する。「カンザキの遺体は発見されていません。その上、行方不明です」
変身して、またライノが現れた。
「そ。だから警察は彼の行方を追っているんだ。でも未だ見つからない」
「じゃあその人を見つければ良いんですね?」
しかしハルタの言葉に、ベリコは緩々と首を横に振った。
「それは警察に任せておけば良いわ」
「なら俺は何をすれば良いんですか」
「練路機を追う」探偵は片目を瞑り、「発信機を埋め込んでおいたの。もしかしたら、ここから事件の真相に辿り着くかもしれないし、辿り着かないかもしれない」と、くすくす笑う。
「歯切れ悪いですね……」ハルタは苦い表情になった。
「どうなるか運次第。やるべきことをやったら、後は祈りましょう」ベリコはさてと言い、「方向性が決まれば、後はこれについて教えないとね」これと掲げてみせたのは、階層移動装置。「最後に聞きたいのだけど、ハルタ君」と、真剣な顔つきに変わるので、
「はい」ハルタは居住まいを正す。
「取引の話、覚えてる?」ハルタの頷きを見ると、先を続けた。「ここまで長々と話したけど、貴方もうちで働いて貰いたいの。……協力してくれる?」
結論ならば既に決まっている。
「勿論です」ハルタは勢い込んで言った。
「宜しいわ」ベリコはふっと柔らかく微笑むと、「じゃあアイノとライノ、後はお願い」
「わかりました」ライノはソファから立ち上がり、「じゃあ行こうか」と、ハルタに笑いかける。
向かった先は屋上。
木板や鉄パイプなどで足場が組まれ、アスレチックが作られている。遊び場というには些か狭く、ハルタは訓練場というイメージを抱いた。
その中央にライノは立つ。
「この世界は情報で出来ている。俺も、アイノも、そして君も。核情報から構築されているわけだ。それはこの場所──第二階層も同じ。それでだな……」
言葉が見つからないのか、ライノは言い淀んだ。ハルタは微かに首を傾げ、後を待つ。と、
「俺は説明が下手なんだ」そう言って吹き出すと、「詳しいことはアイノにパース」
おもむろにアスレチックの支柱を、向こう側から回っていった。青白い光が咲き誇ると、いつの間に姿形は変わり、アイノがやってくる。
短く嘆息すると、
「ここは、いわば現実の複製です」アスレチックから離れ、ハルタの元へ移動しながら、「いつからあったのか、何故存在するのか、それはわかりません。この世界には幾つもの階層が存在しているのです」
ハルタは思わず移動装置を見つめた。
空の上にはさらにもう一つの世界がある。世界は一つだけではなかった。重なるようにして、上へと延びている。
つまり──とアイノは、
「ここは階層世界なんです」
ハルタは驚愕に身を震わせた。
「どれくらい階層はあるんですか」ハルタは訊く。
アイノは頭を振って、「さあ、そこまでは私にもわかりません」屋上の手すりに背をもたれた。「ただ、今までに第四階層までなら行ったことがありますよ。でもその先は無理です」
「どうして?」
「どうして……」そこで初めてアイノは口許を緩める。「それはご自分で確かめた方が早いでしょうね。装置を用意してください。まずは上の階に行きますよ」
アイノの姿が消えた。
ハルタも追いかける。上のボタンを押した。画面の数字は二から三へと移り変わり、ふわっ、と全身を襲う浮遊感。薄れていく現実味。感覚が薄められ、夢のような感覚と共に、
やがて第三の空間へと辿り着いた。
「変な感じがする」初めて階層を跨いだ時のような、奇妙な感覚。ハルタは自らの手を見つめながら、「ぼやけていっているみたいだ」
アイノは鷹揚に頷き、
「その感覚は正しいですよ。私達はこの感覚を、『解像度が低くなった』と捉えています」
「えっと……」上手く理解出来ない。「どういう意味ですか?」
「先ほども言った通り、第二階層は現実の複製であると言いましたね。それと同じように、この場所も下の階層の複製なんです。つまり現実の複製の複製。原本を薄く引き延ばした世界に、私達は立っているんです」
喩えるなら夢のように朧気な空間。
意識を集中させていなければ、呆けてしまった体が儚く散っていきそうな、そんな錯覚がふわふわと常に漂っている。
アイノの説明に則れば、上階に行けば行くほど、現実感は薄れていくようだ。また薄く引き延ばされているのは空間だけではない。自分達も含まれているとのこと。このため、
「私達の解像度も低くなっているからこそ、ぼんやりしているように感じられるんですね」
「成る程」と返事する自分の声も存在も、どこか希薄だ。
「ちなみに、ですが。第四階層まで行くと、自分も空間も解像度が低いからか、壁を抜けることが出来ますよ」
曰くバグとも言える、トンネル効果にも似た現象が発生するらしい。何回か壁を叩いてみれば、落ちるように越えられる。これではどんなにセキュリティの高い場所でも不法侵入出来てしまうではないか。そう指摘すると、アイノは否定しない。
それはともかく。
壁抜けというのは面白そうだ。とても魅力的だったが、今のハルタではここまでが限界。これ以上ぼやけてしまえば、発狂こそしないまでも、自分を見失ってしまいそうな気がしてならない。それと想像すると、体が少しばかり震えてしまう。
「大丈夫ですか?」
感情が希薄に思えたアイノの言葉も、第三階層では優しく聞こえた。
「大丈夫です」癖で、そう強がってしまう。「ここでも居るのが大変なのに、アイノさんは更に上へ行ったって凄いですね……」
「特殊な体質のお陰ですよ。私達は二人で一人ですから、人よりも核情報が濃い分、耐えられるんです」
ハルタは微かに笑った。
「アイノさんがここまでお喋りだとは思いませんでした」
アイノは心外だ、という表情を浮かべ、
「私だって人並みに話しますよ。ただ……それも体質の所為でしょうね。自分を押さえ込むのに必死なんです。現実世界は、私にとってあまりに過剰で、情報過多なんです。だから現実はとても疲れます。それに比べここは良い場所ですよ──これくらい感覚の薄い方が居心地は良いですね」
そういうものなのかと思いながら、ハルタは相槌を打つ。深く息を吐くと、次第に、この場所に慣れつつあった。アイノがそろそろ下へ戻りましょうかと提案したので、ハルタは了承する。
「お先にどうぞ」
と促されたので、
第三階層から第二階層へ。移動装置を取り出すと、下のボタンを押した。
途端に覚醒した時のような現実味が体を包み込み、安心感が芽生えていく。ふらつく土台が安定したような、そんな感じに。
後からアイノが出現すると、
「階層間移動は大丈夫そうですね。後は慣れです」
「頑張ります」
そう発言したところで、ハルタは自身の体に違和感を覚えた。見てみれば、木の棒がふくらはぎに突き刺さっている。
「うおっ」と叫んでみたが、別段痛みはない。
厄介なのは木の棒が地面に埋まっていること。お陰で足は固定され、身動ぎ一つとして出来なかった。
「どうなってるんですか、これ!」
「これも一つの壁抜けです。私達は『埋め込み』と呼称していますが──」慌てるハルタとは対照的に、アイノは冷静な声色で、「同じ位置にある別々のものが、異なる階層から同一の階層に移った時に、融合してしまうんです」
説明を受けて、ハルタは思い出した。
突然、目の前に現れたトラックに、自転車が『埋め込まれた』ことを。これも同じ現象なのだろうか?
アイノは首肯する。
「同じでしょうね」しゃがみ込み、木の棒に触れながら、「これはどちらか一方が階層を移動することで解かれます」
この言葉にハルタは安心した。
アイノは続けて、
「融合すると、対象物の核情報は書き換えられてしまいます」
「へえ……」話を受け入れてから、流そうとして、段々と冷静になっていく。「そうなると、これ──」足に突き刺さる棒を見つめながら、「抜けないってことですか?」
それはかなりやばい。ハルタは焦燥感を覚え、全身から血の気が引いた。しかしアイノは口元を綻ばせ、大丈夫ですよ、と簡単に言う。
「例えば私が棒を掴んだまま、他の階層へ移動すれば抜けますよ。試しにもう一度第三階層に行ってから、この木の棒に触れないよう位置をずらして戻ってみてください」
アイノが棒に手を触れた。それに合わせて、ハルタは移動装置を掴む。
「あっ」アイノが唐突に声をあげたので、びっくりして顔を向けると、「いえ──私に重なるようなことはしないでくださいね」
ハルタは肩を竦め、「茶目っ気が出ないよう気をつけます」
ボタンを押した。その場で足を曲げて木の棒を踏まないようにすると、もう一度下の階層へと帰る。
戻った瞬間に、木の棒は音を立てて転がった。
「お手数かけました」アイノが頭を下げる。
「え?」ハルタは戸惑った。「まさか……」
「はい。木の棒を差し込ませて頂きました。──これも、茶目っ気でしょうか」
ハルタは鼻息を漏らすと、思わず苦笑する。
「なら、しょうがないですね」
「大体のことはわかったかい」と言ったのはライノ。アイノから切り替わり、「今度は第二階層以上の空間での立ち回りを教えるよ。とは言え俺は説明が下手だ。前にも言ったけどね」
「じゃあどうするんです」
ハルタの質問を予期していたように、ライノはある一点を指し示す。そこには手作りのアスレチックがあった。
「あれをやってもらう」
ライノはアスレチックに登ると、ハルタにも来るよう伝えた。言われた通りに従い、登ってみると、意外にも凝った作りになっていることがわかる。そこにはコースが用意されていて、途中には壁などの障害物や、パイプで作られた梯子など変化もつけられていた。
誰が作ったのだろう。ハルタは気になった。
「どうだ。結構凄いだろう。これからこのコースを使って、階層移動に慣れてもらう」ライノはちら、と様子を窺うと、「これは階層間を跨って作られているんだぜ」
「えっ」
ハルタの驚きの声にライノは満足そうに頷く。
「どう立ち回るかは、俺が先導するからよく見ておけ。さて、ここがスタートの位置。そして──」向きを変えて、背後を見やった。目線は学校の隣。「あのビルの上。あそこがゴール地点だ。じゃあ、着いてこい!」
言うや否や、ライノは走り出した。機敏な動きで障害物を乗り越え、立ちはだかる壁を前に姿を消す。階層を移動したのだ。
ハルタも追いつくと、ボタンを押し、第三階層へ。眼前から壁は消え、難なく先へ進める。コースは更に続いていた。ハルタを待っていたらしいライノが、
「一つだけ説明不足だったな」と、頭を掻き、「階層間において変わるものと変わらないものがある。例えばここに設置した障害物や俺達といったもの──中にはどうやら海や雨雲なんかも含まれるらしいが──は、その階層にしか存在しない。要は上の階層に反映されないってことだ」
だから第二階層にあった壁も、第三階層に移動するとなくなっていたのだろう。ハルタは納得した。
「でもどうして?」
「理屈はわからん。ただ、この街と違って、それらは動かせる物だからだろう──ってのがベリコの見解だ。核情報にそう規定されているから、としか俺には理解できんね」
「そう言えば階層を移動しても街は変わらずありますね」
不思議になって、街を見渡す。
それまで何とも思っていなかった見慣れた街が、途端に不気味なもののように思えてならない。
「そう」ライノは腕を組み、真剣な面持ちになった。「街は──というよりも世界は、とすべきかな──固定されていて、不変だ。壊れることも動かすことも出来ない。お陰で平和なもんだろう。爆破テロの類も昔はあったらしいが、最近はそんなものも見られない」
「どう言うことでしょう」
「さあな……。そう難しいことは、俺にはわからん。アイノと所長の仕事さ。さあ、続きを始めるぞ」
ライノはいきなり走り出す。階層を切り替え、偶数段の抜け落ちた特殊な階段を上っていった。ハルタも追随する。越えてからも更に道を走り、隙間を飛び越え、アスレチックの頂上を目指した。この時点で、なかなか疲労が溜まる。
膝を抑えていたハルタは、ふとライノを探した。俊敏な動きで走り続けている。元気な人だ──と思わず呟かずにはいられない。観察していると、ライノは道中に落ちていたロープを一本拾うと、それを空中へと投げた。そうして消失。
どう言うことかハルタは首を捻った。考えられるのは、移動先に壁があるのではないか、ということ。つまりロープを壁に埋め込んだのだ。位置が重ならないように気をつけて、真似をする。ロープを拾い、投げて、第二階層へと移動。
仮説は当たっていた。そこには壁が取り付けられている。ライノは取り付けたロープを頼りに、壁をよじ登っていた。頂上に辿り着くと、ロープを手放し、こちらを見下ろす。
「さあ、来い」口元を片方、持ち上げた。
「よーし……」
ハルタは気合を入れると、ロープを握りしめる。登り詰めた先は、隣接したビルの途中階に繋がる架け橋だった。しかし途中から足場が抜けている。ハルタは辺りを見回した。欄干に分厚い板が立て掛けてある。
「これだ」ハルタは頷いて、板を持ち上げようとした。
「わかってきたみたいだな」不敵に笑う。
板はかなり重い。両手ならともかく、移動装置を片手に持った状態では難しそうだ。「ライノさん!」
手伝ってもらおうと考えて、声を掛ける。だが、
「それは一人でやるんだ。良いか、見てろよ……」
ライノは空の両手で板を掴むと、投げるとともに移層した。観察した限り、どこにも階層移動装置を持っていない。ベリコも同じように移層していたのを思い出す。
ではどうやって二人は移層したのか?
……不意に方法を思い付き、胸がざわめく。
「まさか……」いや、不可能ではない。今まで散々教わってきたではないか。「体内に装置を埋め込んだんだ」
それは木の棒が足を貫いたように。ものは肉体とも融合する。その上に痛みはない。副作用もないことは実証済みだ。ならば──ハルタは深呼吸する。
「やるぞ」
装置を構え、移層した。同時にこれを手の甲に埋め込んでいく。身体が拡張されるような、不思議な感覚があった。核情報が書き変わったということ。先では既に橋を渡り切っていたライノが、突き当たりで待ち構えている。
「埋め込んだみたいだな。正解だ。これで君と装置は融合された。融合されたものの使い方はわかるな?」
ハルタは首肯して、手の甲を動かした。即座に反映されて、階層を移る。板を掴むと、向こう側へ投げつけ移層した。
果たして道は出来ている。
「完璧だ」ライノは言った。ハルタが近づくと、「ゴールはもうすぐ。あの先だ」
目を向けてみれば、何やら石が埋め込まれている。連想されるのは、
「ボルダリング」
「正解」ライノはにやりとして、「黒の石は第二、第三階層共通のもの。赤い石は第二だけ、青い石は第三にしか埋め込まれてないものだ。一応マーキングはしてあるが、気をつけて登れ」
二人は命綱を身につけて、壁に着手した。色を見分けながら、慎重に階層移動を繰り返した。別の階層に石が置かれたある場所には、対応した色で印されている。この配慮のために、混乱することはなかった。
指先が痛み、疲れを覚えて、ハルタは体を止める。しかし見上げれば先はそう長くない。頂上はすぐそこだ。隣では、ライノが先んじてゴールしていた。ハルタも負けじと、歯を食い縛り、力を込める。
そして──頂上に手が届いた。ライノの手が伸びて、それを掴む。
よじ登ると、沈みかけていく夕陽の、煌めく光が目に入った。空は橙色に染まっている。荒れた呼吸もいつしか落ち着き、ハルタは、しばらく綺麗な景色に見惚れていた。
「お疲れ。これで大体の訓練は終了だ」ライノは満面の笑みを浮かべて言う。「君も階層移動マスターだな」
「ありがとうございます」ハルタも釣られて笑った。
「さて、じゃあ、戻ろうか」
途端に嫌な予感に襲われる。どこを見ても、帰り道などない。
「えっと……どうやって?」恐る恐る訊ねれば、
「来た道を戻る」
「え゛」
答えは簡単だった。
「ハルタ君。元の場所に戻るまでが訓練だよ」
ハルタはもう、飛び降りてしまいたくなった。