ヒミツのお人形さんごっこ
近親相姦的な表現が出てきます注意
わたしには誰にも言えないヒミツがあった。しかも、もう一年も前から。
そのことは決して、誰にも言ってはならない、気づかれてはならない。
誰にも言えない――ヒミツ。
チャイムが鳴ると同時に、そそくさと荷物を片付け、足早に教室を出ていく。
「宮川さんっていつも急いでるよねー」
クラスメイトのそんな声が聞こえてくる。
「ホント、何しにそんな早く帰るんだか」
でもそんなこと、わたしにはどうでもいい。
「あんなだから、いつもぼっちなんだよ」
わたしには、あの子がいる。だからわたしは、早く帰らないといけないのだ。
「人形」のあの子の為に。
* * *
自我、というのは、いつからあるのだろうか。
生まれてきたときから、というのは、なんだか間違いな気がする。
少なくとも私の場合は。
暇だな。本当に暇だ。この部屋には、私が暇をつぶせるものなんて何もない。一年前から、ずっとこんな生活だ。
時計を見る。今は……午後四時半だ。もうすぐ真央ちゃんが帰ってきてもいいころなんだけど。やることも無いので、洗濯物をたたみながら、私はそんなことを考えていた。
「ただいまー!」
噂をすれば、なんとやら。玄関が開く音がした。
ついで、どたどたと階段を上がってくる音がする。そして、勢いよく部屋の扉が開いた。
黒く長い髪をなびかせて、息を切らせた真央ちゃんがそこにいた。
「ただいまっ、リリィ!」
私が部屋にいることを確認すると、真央ちゃんは安心したように胸をなでおろした。
そんなに急いで帰って来なくても、私は逃げたりしないのに。真央ちゃんが心配げに私に聞く。
「ちゃんとおとなしくしてた? 何か困ったこととかなかった?」
開口一番にそれか。私はため息を吐いた。
「もう、何もないってば。心配し過ぎだよ」
真央ちゃんが帰ってきた。これでもう暇をしなくて済む。私は嬉しくなって立ち上がり、彼女に駆けよる。真央ちゃんはまだぼやいているが、私の興味は彼女の持っていた白い箱に吸い寄せられた。
「なにそれ?」
「ああ、これね。おいしそうだったから、ケーキ買って来ちゃったの。夕ご飯のあと、二人で食べない?」
「ホント⁉ 食べる!」
なんと、今日はケーキが食べられるのだ。それだけで私の頭の中はハッピーだった。
退屈なこの部屋の中での生活。始まってからもう一年も経っているのだが、なかなか慣れるなんてことは出来ない。
それもそのはずだ。一年前まで、私は感情なんて持たないただの「人形」だったのだから。
――何を言っているのかと思うかもしれないが、私は、もともと、真央ちゃんが大切にしていた人形だった。
名前は、「リリィ」。
金色の髪に青い瞳を持つ、花柄のドレスに身を包んだ女の子の人形だった。
真央ちゃんが物心ついた時にはもう一緒にいて、とても大切な友達だったらしい。
しかし一年前、私は人間になっていたのである。
金色の髪も、青い瞳もそのままに。理由ははっきりしない。
まあこういうのは、きっとよくある話だろう。
そんなこんなで、他にどうしようもなかったので、その日から、私はずっと真央ちゃんの部屋に居候している。どうしてこうなったのかなんて、私にもわからない。でも、親に私の存在がばれれば、きっと私が家から追い出されてしまうと、真央ちゃんは考えたのだろう。だから、彼女は私をかたくなに家から出そうとしない。
たとえ人間の体になったとしても、真央ちゃんにとって私が人形であることには変わりないらしい。まるで人形遊びで、女の子が人形の母親を振る舞うようである。
家事は基本真央ちゃんが全てやっているし、人形だった時と変わらずに寝る時も一緒に寝ている。
正直、できることも少ないのでしょうがないのだが。何とも過保護なのである。
台所で料理をする真央ちゃんを、横で見守る。
彼女はご飯をタマゴで包み、皿にのせた。二人分である。
一年前、彼女のお母さんは、家を出て行ってしまった。お父さんは、教育費や食費は出してくれるものの、ほとんど家に帰ってこない。たぶん、女の人のところに遊びに行っているのだろう。
だから、真央ちゃんは、ほとんど一人暮らしだ。
他に家族もいない――と言っていい状態だろうし。
テーブルにお皿を並べ、いただきますをする。
オムライスをスプーンで一口すくって食べる。少し甘めのタマゴの生地が、舌の上でとろけた。
「美味しい?」
真央ちゃんが心配そうに尋ねる。
「うん、すっごく」
私が笑うと、真央ちゃんも安心したように笑った。そこでようやく、彼女は自分のオムライスを食べ始める。
「今日はタマゴの作り方を工夫してみたの。特売で安かったから」
「へえ、私も今度買い物行ってみたいな」
「それはだめ。もう、気を抜くとすぐに外に出たがるんだから」
真央ちゃんは口をとがらせた。その顔がちょっと面白い。真央ちゃんは家の外に出られない私に、外の世界の話をしてくれる。真央ちゃんの話は楽しいし、楽しそうに話している彼女を見るのは嬉しい。
でも、真央ちゃんは、家で学校の話をしない。
私は、自分が人形だった時のことをよく知らない――覚えていないのだが、昔から真央ちゃんには友達があまりいなかったらしい。彼女にとっての友達は、人形の私だけだった。私が人間になる一年前までは、どこに行くにも、私を連れていった。そのせいで、さらに人に気味悪がられるという状況の中にいたのだという。今の彼女も同じ状態なのかと思うと、少し心配だ。
「あ、リリィ、ほっぺにクリームついてるよ」
真央ちゃんはそう言って、指で私の頬のクリームを拭った。ケーキには、フルーツがたくさんのっている。フォークで切るたびにこぼれ落ちそうだった。でも、フルーツの酸味が、クリームの甘さと絶妙にマッチしている。
「真央ちゃん、センス良いじゃん! これすっごくおいしいよ!」
「ふふ、そう?」
真央ちゃんは幸せそうに笑っていた。
私も、笑っている真央ちゃんを見られる、今この時が、幸せだった。
寝るために、真央ちゃんの部屋へと向かう。
廊下を抜け、奥には二つの小部屋があった。
片方には、「真央の部屋」というプレート。
もう片方には――「百合の部屋」というプレートが掛かっていた。
宮川百合、真央ちゃんの妹の名前だ。
真央ちゃんが百合の話をしたことは、一度も無い。
だから、私も何も触れない。
私は、閉ざされたその扉を見つめた後、真央ちゃんの部屋へと戻っていった。
* * *
出会った時から、お姉ちゃんはどこか変わっていた。
用心深いお姉ちゃんは、妹の私を一度も部屋にいれたことがないけど、私は知っていた。
お姉ちゃんの部屋には、リリィという少女がいることを。
お姉ちゃんが作り上げた、「空想」の少女がいることを。
「いってきます」
そう言って、今日もお姉ちゃんは家を出て行った。
しかし、その声は、妹である私に向けて発せられているのではない。
彼女の部屋にいる「リリィ」に向けて言っているのだ。一年前から、何も変わってなどいない――。
「おい」
ふいに、後ろから声をかけられたので、びっくりした。見ると、奥の部屋で寝ていたらしい父親が、のそのそと起きて来てあくびをした。……帰ってきてたのか。
「……なんでいるの」
「冷たいな、三カ月ぶりだろ。お前の母さんとは似ても似つかんな」
ぼりぼりと頭を掻いている父親の横をすり抜けて、自分の部屋に戻ろうとする。こんな奴に構っている暇なんてない。私も早く用意して学校に行かないと。
「おい、無視するな。これを渡さなきゃいけないんだから」
父親は私の行く手を塞ぐと、ポケットからあるものを取り出した。ずっしりとした、分厚い封筒だった。
「これ、食費と生活費。じゃ」
そう言って、奥の部屋に戻っていこうとする父親は、ふと振り返って私の方を見た。
「そういや、お前、それ――」
「うるさい」
父親の言葉を途中で遮り、私はさっさと部屋に戻った。制服に着替え、学校に向かう。特例で遅刻を許されているのだが、必要以上に遅れる必要もない。
お姉ちゃんの目に、私なんて映っていない。
私のただ一人の、血のつながった兄弟は、いつも人形のリリィのことを見ている。
授業が終わる。次の時間は移動教室だった。
クラスの子二人とおしゃべりしながら、多目的室へと移動する。
「あ、そうだ! 今日さ、こないだ新しくオープンしたカフェに寄らない? ほら、みんなでさ!」
クラスも変わったばかりなので、私の事情を知らずに声をかけて来てくれる子も多い。でも、私にはどうしても外せない用事がある。それを見かねた友達が、話に入ってきた。
「だめだよ~百合は忙しいんだから。ね?」
「う、うん。ごめんね。私もすごく行きたいんだけど……」
付き合いの悪い私が、クラスのみんなによく思われていないことは知っていた。きっとこの友達も、私のことをそんなによく思っていない。
「宮川さん!」
「はい?」
誰かに名前を呼ばれた。
だが、呼ばれたのはどうやら私ではないようだった。
振り返ると、そこには先生に呼び止められている、お姉ちゃんがいた。
「よかったわ、探してたのよ。実はね――」
「あ、はい――」
二人は会話を続けている。それを一緒にいたクラスの子も見ていた。
「ふーん、あの人も宮川さんっていうんだね。てっきり、百合が呼び止められたのかと思っちゃったよ」
「あれ、知らないの? あの人宮川真央さんっていって、百合のお姉さんなんだよ」
友達は余計なことを言った。
「えっ、そうなの⁉ 全然知らなかった! でも、あんまり似てないね」
「そう言えばそうだね」と、このことはさすがに友達も知らなかったようで、私に説明を求めてくる。
姉妹というには、私たちはあまりにも容姿が違い過ぎる。その事を彼女たちは言っているのだろう。私はしょうがないので、話すことにした。
「お姉ちゃんとは、お母さんが違うの。腹違いの姉妹って言えばいいのかな。私のお母さんは西洋の方の人だったけど、お姉ちゃんのお母さんは普通に日本人だったから、似てないのは、きっとそのせい」
二人はしばし黙り込んだ。聞いてきたのは、そっちのほうなのに。
「……ご、ごめん。なんか重い話だった? で、でも、それじゃあ、やっぱり百合ってハーフなんだ! すごいね!」
二人はしばらく、そうやって私に質問を投げかけた。
でも、それも一瞬のものだ。興味がうせれば、みんな私から離れていく。
今までも、これからも、変わらない。
――お父さんと結婚していたのも、お姉ちゃんのお母さんの方だった。
五限目が始まる前に、私は早退することにした。これも、いつものことだ。
先生には話を通してあるし、学校の子ももう当たり前の風景として気にしていないだろう。
家へ帰ることを考えると、少し憂鬱だった。
私には誰にも言えないヒミツがあった。しかも、もう一年も前から。
そのことは決して、誰にも言ってはならない、気づかれてはならない。
誰にも言えない――ヒミツ。
ただいま、と家の玄関を開け、一直線にお姉ちゃんの部屋へと進む。
クローゼットを開け、花柄のドレスを引っ張り出す。
鏡の前で、金色の髪を整え、胸元でドレスのリボンを綺麗に結び、自分の青い瞳を見つめた。
鏡の中には、リリィがいた。
そして、一年前からお姉ちゃんの、真央ちゃんの人形を演じてきた、私がいた。
「リリィ、お風呂入ろう!」
今日もご飯を食べ終えると、真央ちゃん――お姉ちゃんが人形のリリィである私に笑いかけた。
お姉ちゃんはリリィのことを、何もできない「お人形」だと思っている。
それはそうだ。だって、リリィは「お姉ちゃんが大切にしていた人形が、自我を持って人間になった存在」なのだから。ご飯もお風呂もトイレも、全部一人でできたらおかしいし、外の世界のことも何も知らない存在なのだ。
私は脱衣所の鏡に映っている、金色の髪と青い瞳の少女を見つめた。そこにお姉ちゃんがやってきて、リリィの花柄のドレスを脱がしにかかる。
「はい、ばんざーい」
両手を上にあげて、下着姿になった私を見て、今度はお姉ちゃんがその下着に手をかける。
「ま、まって!」
普段通りなら、何も言わなかったはずなのに、今日はなぜだか反射的に声が出てしまった。
お姉ちゃんが不思議そうな顔でこちらを見つめる。
「どうしたの、リリィ?」
「え、えっと……もう、真央ちゃん! 私だって、もう人間なんだよ! 服くらい自分で脱げるよ!」
そう言うと、急いでお姉ちゃんに背を向けて下着を脱ぎ、洗濯かごの中に入れた。後ろからお姉ちゃんの視線がこちらに向けられているのを感じる。しばらくすると、衣擦れの音がして、服を脱ぎ終えたお姉ちゃんがこちらに手を差し出していた。
「行こう、リリィ。足滑らせないようにしてね」
椅子に腰かけさせられ、もこもこ泡のシャンプーで頭を洗われる。
「シャンプー、眼に入ってない? 大丈夫?」
「うん、平気だよ! やっぱり真央ちゃんは、頭洗うの上手いねー!」
シャワーで泡を綺麗に流してくれると、お姉ちゃんはボディソープを手に取った。手のひらに2プッシュして泡立て、私の身体に近づける。一瞬の後、私は戸惑った。
「……そのまま素手で体洗うの?」
「え? ……ああ、ほらタオルとかスポンジとか使うと肌を傷つけちゃうから、素手で洗うのが一番良いって、今朝テレビで言ってたの。リリィのこんな白い肌、傷つけちゃったら大変だと思って」
ほら、こっち向いて、とお姉ちゃんは呼びかける。私は彼女に向き直り、体を差し出した。お姉ちゃんの手が首元に伸び、肩を洗い、腕の先までを滑って、次いで胴体にのびて、私の胸のふくらみを優しく洗った。
「ん……ふ、ぅ……」
自分が道理に反しているような感覚に襲われながら、必死に声を抑える。手はお腹の上をなぞって、太ももから足先へ。
「足、いったんあげて?」
そう促されてイスに座ったまま足をあげると、指がふくらはぎから内腿へとゆっくり滑っていく。
「……っあ! んぅ……」
思わず、声が出てしまった。何をしているんだ、私は。私はただの「お人形」。お姉ちゃんは、ただお人形のお世話をしているだけなのだ。何もおかしなことはない、はず。
でも、体の節々から伝わるお姉ちゃんの手の温かさと、下腹部の違和感と、自分は彼女にとってただの「お人形」なのだということで、頭がごちゃごちゃになりそうになる。お姉ちゃんが心配そうな顔で聞いてくる。
「どうしたの、リリィ? どこか、痛かった?」
「ん……ちがうの。ちょっと、くすぐったかっただけ」
それを聞くと、お姉ちゃんは安心したように笑って、シャワーで体を流してくれた。
そのあとは、お姉ちゃんと二人でぽかぽかの湯船に入った。
お姉ちゃんは、初めてリリィに学校でのことを話した。
今日、先生に呼び止められて、お姉ちゃんが書いた作文がコンクールで入賞したんだって、言われたらしい。テーマは『家族』。
「あなたののことを書いたの」って、お姉ちゃんはすごくうれしそうだった。
それを聞いて、私はすごく幸せな気持ちになると同時に、すごく苦しい気持ちになった。
本当に、なんでこんな気持ちになるのか。
なんで、こんなことになってしまったんだろうか。
* * *
昔、私はよくいじめられた。
たぶん、見た目が周りのみんなと全然違っていたからだと思う。
何かされるたびに、家に帰ってお母さんに泣きついた。
生まれた時からの母子家庭だったので、父親の顔も知らなかった。お母さんだけが、私の救いだった。
でも、一年前、家に来客があった。
黒い髪のきつそうな見た目をした女の人。
お姉ちゃん、宮川真央の母親だった。
横には、金色の髪と青い瞳の人形を持ってたたずむ少女がいた。
それが、お姉ちゃんとの最初の出会いだった。
「宮川康作という人を知っていますよね?」
私には聞き覚えのない名前だったけど、お母さんには心あたりがあったらしく、しばし黙り込んでいた。
「あなたと夫の関係は知ってるんです。……でも、まさか子どもまでいるとは思ってませんでしたけどね」
そう言って、女の人は私を睨みつけた。
お母さんたちはしばらく会話を続けていた。二人の話はなんとなく理解できた。
なので、その隣で小さくたたずむ黒髪の少女が、私のお姉ちゃんなのだとわかった。彼女は夏にも関わらず、長袖長ズボンの服を着ていた。その時はそれが不思議だった。
「後日……また話しましょう。康作さんと、三人で。今は子ども達もいますから……」
お母さんがそう言ったので、その日はそれで終わりだった。
しかし、神さまのいたずらか、その一週間後、お母さんは死んだ。
交通事故だった。
宮川夫妻の家に向かう途中、運転していた車がトラックと正面衝突を起こしたらしい。
私の唯一の味方だった、大切なお母さんは、あっさりと天国に連れていかれてしまった。
私は、心底絶望して、神様を恨んだ。
翌日、私は初めて会った父親に、宮川家へと連れていかれた。
ここで待っていろと、部屋に入れられて、ドアを閉められた。
しばらくして、ドアの向こうから言い合う声が聞こえてきた。
私は地べたに座り込んで、耳を塞いだ。
――その時だった。
「リリィ……?」
部屋の隅から、消え入りそうな声が聞こえてきた。
そこには、ぼさぼさの髪でうずくまる、お姉ちゃんがいた。
頬は赤く腫れ、白い手足は痣だらけになっていた。
そこでようやく、私は先日彼女が長袖の服を着ていた意味を知った。
小さく震える彼女は、もう一度私に問いかける。
「ねえ……リリィ。リリィじゃ……ないの?」
リリィとは、誰のことなんだろうと思って、私は気がついた。
彼女は、この間持っていた人形を持っていない。
そういえばあの人形。どこにでもあるような女の子の人形だったが、その容姿は私によく似ていた。
「リリィ……じゃないよね。だって、リリィは人間じゃない。人形だもの」
彼女は、今度はしっかりと私の顔を見て、それからため息を吐いて言った。
「お母さんがね、捨てちゃったの。こんなに大きくなって、なんで、まだ人形なんて持ってるのって。わたしがこんなおかしな子だから、お父さんが他の女の人のところに行くんだって」
彼女は膝に顔を埋めた。
「それだけはやめてって、言ったのに。リリィだけは、お願いだからって。でも、聞いてもらえなかった。わたしの、たった一人だけの友達、だったのに」
彼女は顔を埋めたまま、声を殺して泣いていた。
その時、私は感じた。
彼女も一人なのだ。私と同じで。
唯一の救いを、神さまにとられてしまった。悲しい存在なのだと。
「ねえ」
だから、私は声を出していた。彼女が顔を上げる。
「私は――リリィだよ」
彼女が驚いた顔をする。
「ち、違うよ。リリィは人形だよ」
「違わないよ。私はリリィ。人間になったの、真央ちゃん」
真央ちゃんは、私をきょとんと見つめる。
恐る恐る近づき、ゆっくりと私の顔を覗き込んだ。
「ほん、とに?」
「うん。本当だよ。私、人間になったの。だって、金色の髪も青い瞳も、一緒でしょ?」
真央ちゃんが、私の髪をなでる。
そして、本当だとうなづいた。
「だからね、もう心配しなくていいの。真央ちゃんには、私がいるから」
私は、真央ちゃんにそう笑いかけた。
真央ちゃんは、ぼろぼろと涙を流して私に抱き着いた。
ああ、あったかいなと、私も静かに涙を流した。
その日から、私たちの間で、ひとつのヒミツが生まれた。
妹ではない「リリィ」という救いを求めるお姉ちゃんと、
妹ではない「リリィ」として求められることを選んだ私の、
歪んだ姉妹関係、共依存の関係、ヒミツのお人形さんごっこが
* * *
「いかないで……」
同じベッドの上、隣で眠るお姉ちゃんは、苦しそうにそんなうわごとを呟いた。
「いかないで! リリィ……!!」
私はお姉ちゃんに寄り添い、その手を握った。
「大丈夫だよ、真央ちゃん……。私は、ここにいるよ」
お姉ちゃんは瞳を開けると、不安そうに私を見つめた。
「リリィ……?」
それを見て、私はお姉ちゃんの体をぎゅっと抱きしめた。大丈夫だよ、お姉ちゃんには、私がいる。その気持ちを伝えるために。
「すごく、いやな夢を見たの……。お母さんが、リリィを捨てちゃう夢……。おかしいよね、だって、リリィはここにいるのに……」
それを聞いて、胸がきゅっとなる。
リリィはここにいる。
じゃあ、あなたの妹の宮川百合はいったどこにいるの?
――バカバカしいな。
私が自分から、リリィでいることを選んだのに。
最近の私はチグハグだ。
自分が言ったことと逆のことをしようとしている。
私は――ここにいる、お姉ちゃんの目の前にいるのは、あなたの妹なんだよ。宮川百合なんだよ。
そう、言ってしまいたくなる。言ってしまいそうになる。
「妹の私」の存在を、認めてほしくなってしまっている。
こんな「お人形さんごっこ」、やめてしまいたくなっている。
あまりにも、自分勝手だ。
私が始めたことなのに。
「リリィ……」
お姉ちゃんが私を、ぎゅっと抱きしめる。まるで、小さな子供が人形にするように。
「リリィ……私、怖いよ」
お姉ちゃんは、顔を私の肩にうずめた。
そして、ドレスのファスナーを少し下げてから、私の背中に手を入れた。
「……っ!?」
思わず声が出そうになるのを、必死にこらえる。
「リリィは、あったかいね……。リリィの体温、すっごく安心する。これも、人間になったおかげかな」
お姉ちゃんは肩口に顔を埋めながら、くぐもった声で言った。
そのまま背中や腰を、するするとじかに撫でられる。
「まって、お……!」
……姉ちゃん、と言いそうになって、言葉を噛み締める。
今の私はリリィなのに。
でも、私の中にある倫理観がこれ以上はダメだと警鐘を鳴らしていた。
呼吸が早まる。
どうしよう、どうしよう……!
そう思っていると、ふと顔を上げたお姉ちゃんと目が合った。
「ねえ、リリィ。私、怖いの……」
彼女は懇願するように私を見つめていた。
「リリィが、明日にでもどこかに消えちゃうんじゃないかって……!」
私を見つめるお姉ちゃんから、目をはなすことができない。
体温が徐々に上がり、心音が速くなっていく。
お姉ちゃんの手は滑る動きを止め、背中のある一点でとどまった。そして、両手を私の下着にかけて、ホックを外した。
「今日は……眠れそうにないの」
心臓が止まる。
お姉ちゃんの顔が耳元に近づけられ、やわらかい吐息と共に声が聞こえた。
「だからリリィ――――慰めて」
「――百合?」
クラスメイトの二人が、心配そうに私の顔をのぞきこんでいた。
ふと時計を見ると、もう五限目が始まる時間だった。
「今日は帰らなくていいの?」
心配してくれるなんて、今日はそこまで酷い顔してたかな。それとも、早く帰ってほしいだけだろうか。
「ううん、もう帰らないと。じゃあね、二人とも。また明日」
いつも通り、家の玄関を開け、お姉ちゃんの部屋へと進む。
クローゼットを開け、花柄のドレスを引っ張り出し、金色の髪を整え、胸元でドレスのリボンを綺麗に結ぶ。
そして、普段通り授業を受けて学校から帰ってくるお姉ちゃんを、ずっと家にいた人形かのように待つ。
いつもより布団が乱れたベッドには、あまり目を向けないようにしながら。
10分、20分とそこに座りながら。
『ねえ、リリィ。私、怖いの……』
考えないようにしてたのに、ふいに、フラッシュバックする。
いつもならなんてことなく過ぎる時間が、
今日は一段と長く、重く感じる。
『今日は……眠れそうにないの』
お姉ちゃんの息が、
触れた肌の温かさが、
じわじわと脳内を侵食する。
徐々に呼吸が荒くなる。
この部屋にいるのが、何か苦行のようなものに感じられる。
『だからリリィ――――』
体が、かっと熱くなる。
ついに私は耐えられなくなって、部屋を飛び出した。
「おい」
と、廊下に出た瞬間に声をかけられた。
最悪なことに、それはいつの間に帰ってきてただろう父親だった。
「ちょっとリビングに来い。話がある」
いつもなら無視をするのだが、有無を言わさぬ態度と、何か嫌な予感がして、私はついて行くしかなかった。
「まずお前さ、その恰好何?」
開口一番デリカシーのない物言いに、私はイラッときた。
「別に、ただの趣味だけど。私がどんな服来てようがあんたには関係なくない? 大して家にいないくせに、人のことに口出さないでくれる?」
父親はまだ訝しげだ。
「じゃあ、その趣味のこと、真央は知ってるのか」
「……お姉ちゃんは関係ないでしょ」
「だったらなんで、その姿のお前のことを、あいつはリリィって呼んでる?」
それを聞かれた瞬間、心臓が止まるかと思った。
「――何の、話?」
「とぼけてんじゃねえよ。声震えてるぞ」
言われて気づく。手汗も少しかいていた。怯えながら、私は父親の言葉を待った。
「昨日の深夜、帰ってきた時、真央の部屋から物音がするから、どうしたのかと思って覗いたんだよ」
頭が真っ白になる。
「お前、真央と何やってたんだよ?」
嘘だ。
全部バレた。
この父親に。
嘘だ、そんなの。
そんなことって――。
その時、玄関の扉を勢いよく開ける音と、息を切らした一つの声が響いた。
「ただいまっ、リリィっ!」
次いで、どたどたと階段を上がってくる音がする。
まずい……! お姉ちゃんが帰ってきた……!
早く部屋に戻らないと……!
駆け出そうとする私の腕を父親が掴む。
「待て! まだ話は終わっていない!」
「っはなしてっ!! 早く、早く部屋に戻らないと……!」
お姉ちゃんが勢いよく自分の部屋の扉を開ける音がする。
でも、そこに私はいない。
一瞬の間があって、ドタドタとすごい勢いでこちらに足音が近づいてくる。
ガチャ! と黒く長い髪をなびかせたお姉ちゃんが、息を切らしながら、リビングの扉を開けた。
「リリィ……それに、お父さん……?」
それを見て、父親は私の腕を離し、つかつかとお姉ちゃんに近づいていく。
「真央、ちょうどいい。お前に聞きたいことがあったんだ」
父親はお姉ちゃんの目の前に立つと、私を指さした。
「お前、こいつと夜な夜な何をしている? まさか、お前が百合にこんな恰好をさせているのか?」
こちらの気持ちなどお構いなく、父親は無神経に言う。
「お前たちは仮にも姉妹だろ。多感な時期なのはわかるが、流石にこんな気持ち悪いことはやめて」
その瞬間、父親の体が後ろにのけぞり、仰向けに倒れた。
何が起きたのか分からず見ると、お姉ちゃんが父親にのしかかり、その首を絞めていた。
「ぐ、あ……お前な……に……」
お姉ちゃんは今まで見たことないような形相で、手に力を込めて首を絞めていた。
「おね……っ! ま……あ……ッ!」
私は目の前で起きている状況が理解できず、どうすればいいかわからなかった。
何とかしないといけないのに、恐怖でちゃんと声が出なかった。
「ふざける……な……」
だがお姉ちゃんの力が、大人の男の力に叶うはずない。
父親はお姉ちゃんの手を掴み、引き剥がそうとする。
「リリィ!!」
お姉ちゃんが切羽詰まった声で叫んだ。
「リリィ! ナイフを!!!」
「は……っえ……」
お姉ちゃんの言っている意味が分からず、私はその場に硬直する。
「こいつは、私がお母さんに殴られている間、他の女の人の所へ行っていたような奴なの!
私の怪我も見て見ぬふりするような奴なの!!
死んで当然の奴なの!!! 殺されて当然の奴なの!!!」
お姉ちゃんが鬼気迫る表情で、私に訴える。
私に――助けを求めている。
「だからお願い、リリィ……」
ついに父親が拘束を振りほどき、逆にお姉ちゃんの首根っこを掴んで持ち上げる。
「お前……よくもやってくれたな。殺されて当然なのはどっちか教えてやるよ。ああ!?」
「たす、けて……」
父親がお姉ちゃんの首を絞めあげて、宙に浮かせた。
お姉ちゃんの瞳は、こちらを見つめている。
「百合、ちゃん」
瞬間、私はナイフを台所から取り出して走り出していた。
何が起きたのか、自分でもよくわからなかった。
次、気付いた時、私は父親の背中にナイフを突き刺していた。
「あ……う、あっ……!?」
父親の体から、力が抜ける。
そのまま、前かがみに倒れこんだ。
解放されたお姉ちゃんは地面に落ちると、すぐに父親の背後に回り込んだ。
そして、背中に刺さったナイフを引き抜いた。
傷口から、大量の、紅い液体が流れ出る。
そのナイフを、何度も何度も、お姉ちゃんは父親に突き刺した。
何度も 何度も
なんども なんども
なんど も なん ど も
やがて へやは しずかになって
あたりは あかく ちまみれに なって
おとうさんは うごかなくなった
気づいたとき、私はお姉ちゃんの腕の中にいた。
「懐かしいね……。一年前のあの日も、百合ちゃんはこうやってわたしを抱きしめてくれたっけ」
お姉ちゃんは呑気にそんなことをつぶやく。
「ごめ……ごめ、なさい……ごめんなさい、おね……お姉、ちゃん……!」
私は泣きじゃくる。
お姉ちゃんが、不思議そうに私を見つめる。
そして、何かに合点がいったかのように、うなずいた。
「……もう、いいんだよ」
お姉ちゃんは首を振って、私を安心させるように笑いかける。
「最初から、わかってたの。リリィなんて、もういないんだって。百合ちゃんが優しかったから、わたしは甘えちゃったんだよ。 ひとりになりたくなくて。
ずっとリリィに――百合ちゃんにそばにいてほしくて」
お姉ちゃんが何を言っているのか、私にはもうよくわからなかった。
「今まで、本当にごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。これからは、リリィのふりをする必要なんてない。
これからは、私と百合ちゃん、二人で――ずっと一緒だから」
この状況に立って、なお、そう笑いかけるお姉ちゃんに、私は、底知れぬ恐怖を抱いた。
怖かった。
ダメだ。
これ以上は、もうダメだ。
お姉ちゃんは、普通ではない。
「お、おね……お姉ちゃん……」
声の出ない私を、お姉ちゃんは微笑みながら見つめた。
「お、おと、お父さん、は……」
次の瞬間、息ができなくなった。
言葉を紡ごうとした私の口を、お姉ちゃんが、そのやわらかい唇でふさいでいた。
もがいて身を引こうとするも、しっかりと抱き寄せられ、身動きができない。
口の中に、何か温かいものが入り込んできて、歯や上あごを舐めまわす。
舌と舌が絡みついて、ぐちゅぐちゅと音を立てる。
気持ち悪い、気持ち悪い
苦しい、息ができない
気持ち悪い、苦しい……!
私は必死にお姉ちゃんの背中に爪を立てる。
でも、お姉ちゃんが私を放すことはない。
まるで、全てを飲み込んで、と口の中に押し込まれるように。
今見たもの、今あったこと、今私が言おうとしたこと、
全てのみこんで、決して言葉にしないように。
ヒミツを、ヒミツで、あり続けさせるために。
視界が歪んでくる。
涙でにじむ私の瞳を、お姉ちゃんの瞳が、優しく見つめていた。
微笑をたたえて
充足感に満ち足りて
私以外に、必要なものなんて何もないと
私だけがすべてだと
全ての愛おしさと慈しみをこめて
リリィではない、私――百合に
その瞳を見た瞬間、
私は、ついに、
全ての抵抗を諦めて、体の力を抜いてしまった。
「お姉ちゃーん。遅いよ、早く!」
「あ、待ってよ、百合ちゃん!」
今の時刻は7時半。まったく、お姉ちゃんはいつもギリギリである。
このままでは私も一緒に遅刻しかねない。せっかく、今日から普通に学校に行けると思ったのに。
お姉ちゃんの長い髪をとかし、髪留めをとめる。よし、これでいいかな。ドレッサーの鏡には、美しい黒髪のお姉ちゃんが、満足そうに微笑んでいた。
「ありがとう、百合ちゃん」
お姉ちゃんは立ち上がると鞄を抱え、私の耳元でつぶやいた。
「また学校から帰ったら、いっぱい――二人で遊びましょうね」
私もお姉ちゃんに向き直り、呟いた。
「うん――――お姉ちゃん」
「……ほら、お姉ちゃん! 遅刻する! 早くいくよ!」
「あ、うん。行ってきまーす」
そう、誰もいない家に声をかけて、私とお姉ちゃんは、玄関の戸を開き、二人で家を出て行った。
学生時代に部誌に載せるために書いた、ハピハピ姉妹もの百合小説を手直ししてバッドエンドにした結果です。(もともとはこういう感じで書きたかったけど、流石にヤバいと思って自重しました)
もともとは、姉妹が性的行為やそれに近いことをしている描写もなく、父親とも和解し、普通の姉妹関係に戻って学校に行き始める話でした。最後のシーンだけ、ほぼ同じ構成になっていますが、そこまでの過程が変わると、大きく変わるもんですねえ。
R指定の小説を文字に起こして書くのは初めてのことだったので、何度も頭を抱えたのですが、
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。