8.
「ところで、先生……」
ふいに老警部が呼び止める。
「よもやとは思いますが、ANA1812便以外に、奥さんのご実家へ到着できそうな、都合のいい航空便なんて、ほかにありませんかねえ」
俺はふーっとため息をついた。
「それもすでに調べたじゃないですか。愛知県内にあるもう一つの小牧空港ですが、新潟空港からの定期便は、午後四時以降に到着するものしかありませんでしたよね」
「ふふっ、先生……。別に愛知県内の空港に限定する必要はないんじゃないですか。
ほら、お気づきになりませんでしたか。先生が新潟空港へ到着可能だった時刻は一一時二〇分ですけど、ANA1812便が新潟空港を発つのは一三時一〇分でしたよね。でも、そうだとすれば、いやあ、実に一時間と五〇分ものあいだ、先生は空港で待ちぼうけを食わされていたことになりまして、なんと申しますか、そのお、少しでも時間を節約したい犯人の目線に立ちますと、この待ち時間はどうにももったいないわけですなあ……」
「愛知県近郊といえるかどうか分かりませんが、静岡空港だったらわりと近いかもしれませんね。でも、静岡空港に新潟空港から直行の定期便はありません。
警部さん、やはり無理なんですよ」
なだめ鎮めるように、俺は付け足した。
「そうでしょうか。あれから我々警察もいろいろ調べてみましてね。すると、意志あるところに道は開ける――とは、昔の偉人はよく申されたものですなあ。すこぶる興味深い航空定期便が、一つ存在することが分かりましてねえ……」
俺の肩がビクッと動いた。
「なんですか、それは……」
「ふふふっ、大阪国際空港ですよ、先生。
別名を、伊丹空港――と申しまして、大阪府の豊中市と、兵庫県の伊丹市の両方に敷地を持つ県境に位置しておりまして、さらに空港の駐車場が、阪神高速11号池田線に直結しており、そのまま、豊中ICを経由して、名神高速道路へつながっているんですよ。いやはや、まさにうってつけの空港じゃないですか。
そしてですねえ、先生、あるんですよ……。新潟空港から乗れて、なおかつ伊丹空港までやって来れる定期便がね。
JAL2244便――。こいつは、新潟空港を一一時五五分に発って、一三時〇五分に伊丹空港へ到着するのです!」
ついにこらえ切れなくなったのか、こぶしに握りしめた右手を口元へ当てて、老警部はくすくすと笑い出した。
「さあさあ、先生がこの興味深い航空便を利用されたと仮定して、さらにその先がどうなるのかを、追求してみようじゃありませんか。
まず、飛行機を降りて、伊丹空港の建物の屋外へ出るまでにかかる時間を、十五分としましょう。すると、先生は一三時二〇分には空港の駐車場にあらかじめ駐車しておいた車に乗ることができます。そこからすぐに高速道路へ入れますけど、果たして、一宮市の犯行現場までどれだけの時間でやってこれるのでしょうかねえ?
検索してみますと、大阪空港出入口から一宮西ICまでは、高速道路で距離が171kmと出てきます。標準的な移動時間ですと二時間と出ますけど、それは時速90kmで走行した場合の時刻です。犯人でしたらもう少しスピードを上げますから、まあ仮に、全行程を平均時速120kmで走ったとしましょうか。ほうほう、そうすると一時間と二五分になりますな。それに一宮西ICから奥さんのご実家までの五分を追加して、どうです、先生……。
計算上、先生は一四時五〇分に奥さんのご実家へ到達できる――こととなりましたよ!」
「待ってください!」
たまらず、俺は声を荒げて老警部を制止した。
「計算が乱暴過ぎますよ。そもそも一宮ICの周辺には慢性的な渋滞が生じるはずじゃないですか」
素知らぬ顔で老警部が答えた。
「そのご心配はいりません。というのも、渋滞が起こる一宮ICよりも一宮西ICは西側に位置しておりますから、一宮ICで生じる渋滞は、大阪方面からやってくる車には何ら影響を及ぼさないのです。
それに、平均時速120kmというハイスピードを保ちながらの運転も、わずか二時間足らずの走行でしたら、お若くて体力のおありな先生なら、十分にそれは可能でしたでしょうしねえ」
「警部さん。そんな机上の空論で、犯人に仕立て上げられてはたまりませんよ。
仮に僕がおっしゃる通りの移動手段を使用したとして、犯行現場へ駆けつけられる時刻は、たしか一四時五〇分ということでしたが、まず、この時刻が考え得るぎりぎりの限界値であることに、警部さん、異論はありませんね。
たとえ五分たりとて、これ以上早く来ることはできないわけです。今後ですけども、もうあと五分頑張れば縮められるはずだった、などという無責任な議論は、もう終わりにしましょう。
いいですか、警部さん。その点はお認めになられますか?」
「いいでしょう。認めましょう。
先生が伊丹空港を利用された場合に、ベストの移動をされたとして、犯行現場に到着できる時刻は一四時五〇分が最短の限界値であることをね……」
「それではお尋ねします。僕は一四時五〇分に家内の実家へ駆けつけられたとします。でも、僕が犯人であったとすると、それから僕は、家内を一〇分で殺害して、さらに五分で放火をしたことになります。たしか、消防隊の証言では、一五時〇五分には放火がされていたはずでしたからね。
警部さん、よく考えてみてくださいよ。現実にそんな超人的な行動が可能だと思いますか?
家内の実家に到着した僕は、車から降りると、ポケットから取り出した鍵を使って玄関の鍵を開け、屋内にいるはずの家内を探しまくってから、やがて見つけ出し、即座に首を絞めて殺してしまった。それから、玄関口に燃えやすいものをどこかから用意して、それに火を放つ。それら一連の行程を、わずか一五分でです。
そもそも、その肝心の時刻に家内が外出をしていたとしたら、いったいどうなったのですか?」
老警部は不敵な笑みを口元に浮かべた。
「ふふふっ、その点に関して問題はありません。先生は奥さんを探す必要がなかったのですよ。
いい換えれば、先生は殺害する直前に、奥さんがいらっしゃる場所をご存知でいらした――、ということです……」