5.
如月と名乗る警部は、俺が唱えた完璧とも思える推論に対して、異を唱えてきた。さて、いったいどんな屁理屈をぶつけてくるのだろう。
「先生の論理の盲点……。それは、三時二〇分に火災の通報をした善意の第三者たる人物が、実はほかならぬ犯人自身だった、という可能性ですよ。
私どもが消防署に問い合わせたところ、火災を通報してきた電話の主は、声音から判断するに男性だったみたいですが、名前は名乗らなかったそうです。
先生の推理では、奥さんの豪邸はさぞかしご立派な防風林に囲まれており、おかげで、外部からおうちの様子を垣間見ることが困難で、少々のボヤが生じたところで火が燃えていることが気付かれにくい構造となっていた。よって、外部の通行者が気付くほどまでに炎が燃え広がったとすれば、それに要する時間は少なく見積もっても発火してから二〇分ほど経っていなければおかしい。ゆえに、犯人が放火をした時刻は、通報があった三時二〇分からさらに二〇分をさかのぼった午後三時よりも前でなければならない――、というものでしたな。
しかしですなあ……、犯人がみずから火災の通報をしたとすれば、この縛りは劇的に変わってきます。
仮にですよ、先生が奥さんを殺した犯人だったとして、先生は奥さんを殺害後に現場に火を放った。そして、それと前後して消防署へ火災の通報をしたとすれば、消防隊が奥さんのご自宅へ駆けつけた時刻はたしか通報があってから一五分後の三時三五分でしたが、その一五分間でも火はそれなりに燃え広がりますから、消防隊員たちは通報が放火と同時刻になされたとはまさか疑いもしなかった、というシナリオも十分に考えられます。
つまり、消防署へ通報をした人物が犯人であり、放火とほぼ同時に通報を行った場合に限って、善意の第三者がが火災に気付くまでに要したはずだった二〇分が、まるまる稼げてしまうわけですなあ」
「要は、僕が犯人であったなら、放火は三時二〇分にも行えたことになり、ひいては、家内の殺害はその一〇分前の午後三時一〇分であっても可能だった、と警部さんはおっしゃりたいわけですね」
「さすがは先生。即座に要点をご理解されたようですな。まさにその通りです。
あなたの愛する奥さんが殺害された時刻は、通報者が犯人であった場合に限り、三時二〇分の直前であったとしても矛盾しないのですよ――」
「ふっ、ははははっ。実に面白い。警部さんはあくまでも僕が犯人だと主張されるわけですね。
そしてその根拠は、ANA1812便を利用して一四時一五分に中部国際空港へ降り立った僕が、超人的な脚力で館内を一〇分で脱出し、中部国際空港から一宮西ICで降りる家内の実家までの移動を、二輪車を暴走させることでわずか五〇分で完了し、一五時一五分に実家に到着してから、家内の殺害と放火の二大事業をたったの五分で片づけ、一五時二〇分に消防署へ通報した……。
そんな薄氷を踏むような綱渡り殺人など、現実的には実行不能です。警部さんの推理は机上の空論に過ぎませんよ!」
追い込まれた俺の精神は、もはや自暴自棄に陥ってた。
「とまあ、先生が犯行をやってのけたのではないかと、我々警察は考えましたが、ふふっ、まことに残念ですけど、この推理にもいささか綻びがありましてなあ……」
急に老警部の声のテンションが落ちた。何が起こったのだろう?
「消防隊員らの証言によれば、彼らが現場に駆け付けた午後三時三五分に燃え広がっていた炎は、彼らの経験上、出火から三〇分は経過していなければ説明ができない――とのことでした。そうなると出火した時刻は午後三時〇五分よりも以前となってしまうのです。
もちろん、奥さんの殺害時刻はさらにその前でなければならず、少なくとも午後三時前には奥さんは殺害されていた――、という結論が導かれてしまいます。
午後二時一五分に中部国際空港の飛行機から降りられた先生が、三時前に現場へ到着することは不可能ですから、ここを崩さない限り、先生の黄金のアリバイは依然として成り立っているのです……」
一瞬わけが分からなかったが、どうやら老警部は、自分の推理の根底に潜む問題点を、みずから暴露したようであった。
「そのう、犯人が時限発火装置を使用した可能性はありませんか?」
かすかに冷静さを取り戻した俺は、老警部へ問いかけた。
「いやあ、そのような機械装置を用いれば、いくら現場が焼け跡になったとしてもなんらかの痕跡を残すものです。残念ながら、そのような痕跡はなにも見つかりませんでした――」
老警部はあっさり認めると、逆に俺に切り返してきた。
「ところで先生。今回の犯人ですがね、いったいなんで放火をしたのでしょうか?」
「さあ、そんなこと、全く分かりません」
「私が思うに、犯人は、奥さんを殺害した犯行時刻が実際よりも遅く推定されることを嫌ったんですな。
もし火災がなかったならば、遺体が発見されるのは翌朝以降となっていたことでしょう。そうなると、検死からある程度の死亡推定時刻が見積もられますが、それが例えば事件当日の午後六時まで犯行が可能だった、とされてしまえば、ほら、先生が今保持されている黄金のアリバイが、パッと消滅してしまうわけですよ。
いい換えれば、今回の事件の犯人は、死亡推定時刻すなわち犯行時刻をできるかぎり早くしたかった。少なくとも、先生が到着不可能な時刻までね……。だから、放火をしたんです。そしてその結果、奥さんの死亡推定時刻は、消防隊が到着した午後三時三五分よりも確実に前でなければならなくなりました――。
いやあ、お話が長くなりましたな。今日はここで引き取らせていただきます。先生には事件に関する貴重なご意見をうかがいにまた訪問させていただくかもしれませんが、その時は捜査にご協力をよろしくお願いいたします」
そう告げて、老警部はいくぶん肩を落としぎみにその場を立ち去っていった。さすがにこのあとの俺は、蓄積した疲労のせいか、しばらく放心状態であった。
俺は困難な戦いに勝利した……。そう確信してから、一週間が経過した。午後九時を過ぎた時刻だというのに、大学から帰宅した俺をアパートの入口でずっと待っている人物がいた。如月警部だ――。
「やあ、先生。お久しぶりです。あれから捜査もちょっとは進展しましてね。ぜひ先生のご意見を伺いたく、やってまいりました」
「警部さん、家内を殺した犯人はまだ捕まっていないのですか?」
不快な気持ちを言葉に込めて、俺は老警部へぶつけた。
「まことに申し訳ありません。我々も犯人逮捕に日夜全力で取り組んでおりまして、いま少しお時間の猶予をいただければ……。
ところで、先生は三か月ほど前にとある業者からスタンガンをご購入されていますね。しっかり調べさせていただきましたよ。そんな物騒な機械、いったい、どういった使用目的でご購入をされたのですか?」
「ちょっと前、車の運転中にたちの悪いあおりを受けましてね。まあ、今後使うつもりはありませんが、護身用に持っておいた方がいいかと思いまして……」
苦しい言い訳をして、俺はこの場のお茶を濁した。
「そうですか。あっ、そうそう。あのあと奥さんのご趣味も調べさせていただきましたけど、かなりの熱狂的な宝塚歌劇団のファンだったそうですなあ」
「宝塚に限らず劇団公演を家内は好きだったみたいで、名古屋にある有名劇団の公演もちょくちょく見に行っていたみたいです」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。
ですから、あくまでも例えばの話として聞いていただければよろしいのですが、もしも、先生が奥さんの誕生日祝いに宝塚歌劇団の公演を一緒に見に行こう、とご提案されたならば、奥さんはきっと二つ返事でそれをお受けになられたことでしょうなあ……」
そういって、老警部はくすくすと笑い出した。こいつ、いったいなにがいいたいのだろう?
とっさに湧き出した不快感をかき消すように、俺は如月警部の顔をにらみ返した。