2.
建てつけが悪い窓の外から、繁殖期を迎えた鳩が奏でる独特なさえずりが聴こえてくる。俺が仮住まいするこの安アパートは、大学の敷地周辺の緑に囲まれた閑静な高台にある。ここから事件が起こった妻の実家まではおよそ二〇キロの直線距離があるわけだが、読者のみなさんのご想像のとおり、俺は通勤の不便を理由に去年からここへ住み込んでいて、妻とは事実上の別居生活中であった。もっとも、妻に直接俺の気持ちを伝えていたわけではなく、あくまでも、通勤のためという名目だけで、俺は別居暮らしを正当化していたわけだが、現実にはあいつの顔を見ているだけでも反吐が出るほど、かつて抱いていた恋心は完膚なきまで消え失せていたのは、偽らざる事実である。
狭い六畳間の中、生温い麦茶を入れたコップが置かれたテーブルをはさんで互いに向き合い、老警部と俺とのしのぎを削る真っ向勝負が、今まさに幕を切って落とされようとしていた。
「あの日僕は新潟市にいました。中央区の万代島に朱鷺メッセという名前のコンベンションセンターがありましてね、そこでバイオサイエンスの学会が催されました。
場所の詳細ですか? そうですね……、JR新潟駅からはわりと近くのところでしたよ。
そこで僕は自らの研究発表を終えて、さらにほかの発表者のプレゼンもいくつか聴いてから、そのあと帰路へつきました。誕生日を祝うために、夜までには家内の実家へ帰らねばなりませんでしたからね」
「なるほど、そうだったのですか。ところで奥さんのご実家はどちらでしたっけ?」
「ふふふっ、警部さん。そんなことはもうとっくに調べてあるのでしょう。まあ、僕の口から直接確認したいという事でしたら、家内の実家は愛知県一宮市の萩原町にあります。名古屋鉄道の尾西線の途中に二子という駅がありましてね。そこから一〇分ほど歩いた場所です」
「はははっ、本当に申し訳ありません。もちろん私どもはすでにある程度のことを調べてあげてはおりますが、一つ一つをご主人の口から確認をしなければならないという、めんどうくさいお決まりがありましてね、いやはや、因果な商売です」
老警部は、かつてのアメリカテレビ番組に登場したコロンボ警部のような、しらじらしい台詞を連呼した。
「ええ、正直に申し上げれば、私も事件を担当する一員として、先日奥さんのご実家があった萩原町を訪れてみたわけですよ。いやあ、静かでのんびりとした素敵な町でしたねえ。名古屋みたいに家々の間隔が密集してごみごみしておらず、ことに奥さんのご実家は地区でも屈指の豪邸ですから、まわりは田んぼに囲まれて直接隣接している家もなく、さらには、まれに見るご立派な防風林で周りを取り囲まれているから、お家の中で少々の物音がしても、ご近所まではまったく届かなかったみたいですね」
「家内の両親はすでに他界しており、財閥を管理している唯一の肉親である祖父も、東京で生活をしています。そして、使用人を雇うことをせずに、家内は一宮の実家で暮らしてきました。
ああ、僕は大学へ通うために仕方なくここに下宿しなければならなかったのですが、一方で家内も実家から離れるわけにもいかず、というわけで、家内はここ一年のあいだ常に一人暮らしでした――。
まあ、犯人からしてみれば、格好の獲物だったということですね」
「その通りなんですが、逆に犯人の立場になってみますと、想定外の大きなハードルが立ちふさがっておりまして、それは……、鍵を持たぬ人物がどうやって大豪邸へ侵入できたのか――、という問題です。こいつを解明しなければ事件の解決はあり得ませんな」
「そんなの窓ガラスを壊して入れば簡単でしょう?」
「しかしながら、窓ガラスが外部の侵入者によって割られた痕跡は、現場のどこを探しても見当たりませんでしてな……」
「ふふっ、警部さん、まさか、僕に窯を掛けようとされてはいないでしょうね。あれほどの火事の焼け跡で窓ガラスがひとつも割れていなかったなんて、とうてい考えられませんがねえ」
「はははっ、おっしゃる通りです。たしかに窓枠のいくつかは地面に落ちてガラスが割れていました。
ですが、先生……。火災によって割れる窓ガラスって、屋内からの熱風によって割れるわけですよね。したがって、砕けたガラスは必然的に家屋の外側へ向けて飛び散るわけでして、一方で、外部の侵入者が窓ガラスを破壊したとなると、今度は、砕けたガラスは家屋の内側へ向けて飛び散ることでしょう。まあこんなことは、捜査の初歩ですな。
そして、我々が調べたところ、事件現場で割れた窓ガラスはすべて、屋外へ向かって飛び散っており――、とどのつまり、外部からの侵入者が窓を割って家に侵入したという可能性が否定されてしまうのですなあ。
さらには先生。奥さんのご実家の鍵って、全部で二つしかありませんよね。一つは奥さんのご遺体のそばに置いてあったハンドバックの燃えカスの中から見つかりましたし、あとの一つは、先生ご自身が大切に携帯されているはずです。
すると分からなくなってしまうのが、鍵を持たぬ外部の人物が、あっ、あくまでも犯人が外部の人間だったと仮定しての話ですけどね、どうやって豪邸の中へ侵入できたのか――、という疑問です。
いやはや、頭がくらくらしてきましたなあ」
老警部はしらじらしく笑みを浮かべた。普段はひょうひょうとしているけど、なかなかの論理的思考の持ち主のようである。こいつは俺もあらためて気を引き締める必要がありそうだ……。
「警部さん、いいかげんに腹を割ってしゃべりませんか? 警部さんは僕をこの事件の犯人として疑っておられる。いえ、隠される必要はありませんよ。でも僕からの率直な本音をいわせてもらえば、無益な議論で貴重な時間を浪費させられるのはいささか御免こうむりたいわけです。
そこでどうでしょう。警部さんが確認したい質問を、僕に気兼ねせずどんどんしてください。無実である以上、僕はどんな質問にでも真摯に答えるつもりですよ」
皴の奥にすぼんでいた老警部の小さな眼が一瞬、あたかも獲物を狙うミミズクのように、閃光を解き放った。
「そうですか……。さすがに賢い方は考え方が凡人とは違いますなあ。では遠慮なく、質問をさせていただきましょう」