1.
登場人物
如月 惣次郎 愛知県警警部
勅使河原 佑真 大学院准教授
「そうですか……。すると、奥さんがお亡くなりになった日に、あなたは不運にも外出をなさっておられたというのですね。でも確か、その日は奥さんのお誕生日でもあったと伺いましたけど、そんな大切な記念日なのにいったい、あなたはどちらへ行かれていたのですか?」
その老警部は、あらかじめ用意していたのであろう常套句を、さりげなく会話の中途に組み込ませてきた。千種署の如月と名乗るこの警部は、一目見たところ、敏腕な警部といった印象とはほど遠くかけ離れた、どちらかといえば近所でぶらぶらと散歩でもしていそうなありきたりのじいさんといった風貌の人物だった。後に判明したことだが、実はこの警部、県内で最近起こっているともすれば迷宮入りともなりかねなかった数々の難事件を、快刀で乱麻を断つがごとく、立て続けに解き明かした名警部ということだった。まったくもって、人は見かけにはよらぬものである。
「ご指摘の通りです。家内の誕生日であることは重々把握しておりましたが、残念ながらその日は新潟市で僕が研究をしている遺伝子工学に関する国際会議がありましてね。どうしてもそこへ出席をせねばならなかったのです。まさか、こんな凶事が起こると事前に分かっていたのなら、もちろん公演なんかお断りしていたし、今さらながら悔しくて、僕は夜もおちおち眠れません……」
俺もさりげなく段取りどおりの台詞を詠唱した。
「ああ、忘れていました。ご主人は名古屋大学院生命農学研究科の准教授でいらっしゃいましたな。いやはや、お若いのにたいしたものです。高卒の私にはそういった難しいお話など皆目分かりませんでしてなあ。はははっ……」
「その日は夜までに帰宅をして、家内といっしょに誕生日を祝う約束をしていました。こんな結末となってしまって、まさに痛恨の極みです」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。いえ、決して先生のせいではありませんよ。お察しいたします」
老警部は『ご主人』だった俺の呼称をさりげなく『先生』と切り替えてきた。何らかの油断を誘うつもりかもしれない。
「ところで、奥さんのご遺体ですけど、まことに申し上げにくいのですが、火災で受けた損傷が激しくて、発見時には身元確認に困難を極めておりました。しかし、直後に駆け付けられたご主人である先生のご証言のおかげで、早々に奥さんであることが判明いたしまして、いやあ、捜査も大いに助かっております。
こういう時に一番困りますのは、なんといっても仏さんの身元が判明しないことでしてなあ。まあ、こうなりましては我々警察としても、威信にかけて事件全貌の糾明に全力を尽す所存であります」
たとえ遺体の損傷が激しかったところで、この家に住んでいたのは妻しかいないのだから、俺の証言などなくても真っ先に遺体のぬしとして疑われるのは妻であったはずだ。この老警部、やはり俺に対して何らかの疑念を抱いているのは間違いなさそうだ……。
「ぜひ、お願いいたします。しかし家内の死が、もしかして事故死だった可能性は考えられないでしょうか。ああ、いえ、警察の方が見えたので、僕自身、多少なりとも混乱を来しておりまして……」
「ええ、無理もありません。実はですなあ、奥様のご遺体に少々不審な点が見つかりましてねえ」
「どんな……?」
「はい、ご遺体は、火災で燃やされる以前に、何者かから首を絞められていまして、どうやらそれが直接の死因となったみたいですなあ……」
思わず俺はごくりとつばをのみ込んだ。慌てて老警部に目を向けたが、彼はのんびりと窓の外を眺めていた。
「ほう、そんなことまで分かるのですか?」
「ええ。奥様のご遺体を調べてみると、舌骨に損傷が見られました。さらには、甲状軟骨の骨折も確認されました。これらは首を絞められると生じるものでして、さらには、奥様のご遺体は皮膚がかなり焼けただれておりましたが、幸いにも内臓の方はまだどうにか検死ができる程度には残っていましてね。とにかく消火が早かったのがなにより幸いしましたなあ。そして、ご遺体の解剖の結果ですが、奥さんが生前に煤を肺の中にまったく吸い込んでいないことが判明しましてねえ――。とどのつまり、火災が発生した時には奥さんはすでにこと切れていらしたのではないか、といった可能性が、急きょ浮上したわけですよ」
「まさか、遺体に首を絞めた人物の指紋までは残っていなかったでしょうね」
「はあ、そうだと事件も一挙解決となって大いに助かるのですが、あいにく、焼けただれた遺体からの指紋の検出となると、いくら有能なベテラン鑑識官たちでも無理だったみたいですなあ」
「そうですか。残念です……」
俺は小さくうなだれるふりをした。
「家内の遺体を調べてみて、死亡推定時刻とかは判明したんでしょうか?」
「ええ、残念ながら損傷の激しい遺体から正確な死亡推定時刻を特定するのはどうも無理だったようで、鑑識が申すには、奥さんのご遺体が発見された時刻よりも前なら、殺害はいつでもあり得た――とのことでした。
ああ……、事件当日の早朝に奥さんが散歩をなされていたのを、ご近所の数名が目撃しておりまして、さすがに前日までに奥さんが亡くなっていた可能性はありませんけどなあ」
「ということは、あくまでも家内は誰かに殺されたと警部さんはおっしゃるわけですね。いったい、誰が……」
俺の問いかけに、老警部は応じる様子もなく逆に質問を返してきた。
「ところで先生、奥さんを殺害したいと思っている人物をどなたかご存じありませんか。思い当たることなら、どんな些細なことでも構いませんが……」
「さあて、家内を殺害したい人物なんていわれてもねえ。たしかに、家内は大財閥の令嬢ですが、別に彼女が財閥を動かしているわけではありませんからねえ。
あははっ……。そういえば一人いましたよ。まあ、しいてあげれば、この僕となりますかねえ。なにせ、彼女がいなくなれば、配偶者である僕には莫大な資産が転がり込みますから」
「いや、まさかご主人である先生が……」
「はははっ。隠さなくてもいいですよ、僕たち夫婦の熱が冷めていることなど、警部さんはとっくの昔にお調べになられたことでしょう」
老警部がふっと含み笑いをした。
「もちろん我々はあらゆる可能性を疑わなければなりません。いやはや、因果な商売ですなあ。
それでは先生、隠し事はいっさい抜きで率直に伺いましょう。先生の事件当日の行動の詳細をお聞かせください」