一日目:王子様の依頼
私が仕えている『綾部』という家は、一言で表現するならば“資産家”だ。
数代前から輸入雑貨の大きな会社を経営しており、住んでいる家は近隣から『綾部屋敷』などと呼ばれているらしい。
同僚の使用人が言うには、今の時代に屋敷を構えたり、執事や使用人を雇っている家というのは珍しいのだそうだ。もちろん経済的に恵まれているという意味で、だ。
私の両親の借金が総額でいくらだったのかは知らないが、それなりの金を貸せるほどの金持ち、ということなのだろう。
そんなことを私に教えてくれた同僚は、お仕えする主である晴人様を起こしに行っている。
私はひと足先に食堂に行って、晴人様の朝食の準備をしなければならない。
使用人用の食器を手早く洗い終えて、二階に備え付けられたキッチンを出た。
私の仕事は、屋敷の主である旦那様の一人息子、晴人様にお仕えすることだ。同僚の一人とタッグを組んで、晴人様が屋敷にいる間、身の回りのお世話をしている。
とはいえ、この若い主は割としっかりしている方なので、私たちのやることはさほど多くない。毎度の食事や茶の支度、お出かけになる際の車の手配、あとは時折話し相手になるくらいだ。
晴人様が仕事で外出している間は仕事がないので、その時間帯は他の使用人の手伝いもしている。……私に限っては、二階でできる仕事のみになってしまうが。
晴人様は温厚でお優しい方だ。顔立ちも立ち振る舞いも、春の木漏れ日のような穏やかさを感じさせる。
しかし、周囲の抱くイメージと違って、案外やんちゃなところがあるのだ。
昔、私がおじいさまにくっついて、旦那様の小間使いをしていた頃の話だ。
当時の私は、晴人様に存在をまるごと伏せられていた。おそらく、自分と同じくらいの子供が働いているということを説明するのが面倒だったのだろう。旦那様は、少々説明を面倒臭がるふしがあられる。
なので晴人様が屋敷の二階へ上がってくる時、私は晴人様が入ることを許されていない、書斎の掃除に回されていた。
しかし、一度だけ。六歳くらいの時だったか。晴人様が、書斎にこっそり入ってきたのを見かけたことがある。もっとも晴人様は私に気づいていなかったし、すぐにおじいさまに見つかって、廊下へ連れ出されてしまったが。
まあ、そういうお茶目な面も持ち合わせているお方だ。
この若い主人を、私は結構、気に入っている。
食堂のドアの前では、若い料理人が壁際に銀色のワゴンを寄せて待っていた。
ワゴンの上には、食器と料理が乗っている。これを食堂のテーブルに並べるのは、私の仕事だ。
「おはようございます。お待たせしてしまいましたか?」
「いえ、ちょうど今お持ちしたところです」
料理人からワゴンを受け取って、私は料理を運び入れるべく、食堂へと入っていった。
晴人様は「朝はさっと軽いものを食べたい」という方なので、朝食の準備はそれほど大変ではない。
テーブルに食器を並べ、目玉焼きとサラダボウルを置いて、食パンをトースターに突っ込めば、あとはコーヒーを淹れるだけ。
コーヒーのドリップがそろそろ終わるという頃に、食堂のドアが音を立てて開いた。
「おはよう、庄司君」
ドアから入ってきた男性に、私は手を止めて一礼する。
「おはようございます、晴人様。コーヒーでよろしいでしょうか」
「うん、ありがとう」
話している間にトーストがいい具合に焼けてきたらしく、香ばしい匂いが漂ってくる。そろそろトースターを止めないと、と思っていると、かしゃんと音を立ててトースターが止まった。
トースターを止めてトーストを皿に置いたのは、私と同じく晴人様付きの使用人である都築真白だ。
私が視線を向けると、彼は軽く片目を瞑ってみせる。伝わるかどうかは分からないが視線で礼を言って、着席した晴人様の前に湯気を立てるコーヒーを置いた。
「それじゃ、いただきます」
私と真白が並んで壁際に控えるのを待って、晴人様はコーヒーカップに口をつける。
基本的に、晴人様は食事中に何かを喋る方ではない。旦那様や奥様がいるなら少しは会話があるのだが、今はお二人とも海外へ出張していて、あと二週間は戻らないと聞いている。
この部屋にいるのは晴人様と私、それから真白のみだ。使用人である私と真白がむやみに口を開くわけにもいかず、外でさえずる鳥の声と食器の音以外には、何も耳に入ってこない。
私は元々あまり喋るほうではないが、私の隣に立つ男は正直落ち着かないだろう。
都築真白。二十三歳。晴人様と私も、実は同じ年齢だ。
彼がこの屋敷にやってきたのは五年前。高校を卒業してすぐに面接を受けたと言っていた。
勤め始めて三年目に、私と共に晴人様付きに命じられた。以来ずっと、私達は一緒に仕事をしている。
顔立ちは晴人様と比べると幼く見えて、言動は少し子供っぽい。たまに、精神年齢が十代のまま止まっているのではないかと思うことがある。もちろん、仕事中に使用人らしい態度を崩すことはないが。
口下手な私と違ってよく喋り、細かい所に気が回る。前者についてはとても助かっているので、いいパートナーであると言えないこともない。
少し高い位置にある真白の顔をちらりと見ると、やはり落ち着かない様子で視線を彷徨わせていた。
◇
朝食を終えた晴人様に食後の紅茶をお出しして、私は再び真白の隣に戻った。
「晴人様、今日はお休みでしたよね?」
晴人様が紅茶を一口飲むまで待って、真白が口を開く。
晴人様は柔らかく微笑んで頷いた。
「今日は雪が来る日だからね」
そう言って、晴人様は再びティーカップに口をつける。
雪様というのは晴人様の従妹で、婚約者でもある方だ。
直接お会いしたことはないが、話だけは目の前の若い主人から、惚気話のような形でよく耳に入ってくる。
綾部家の親戚筋のうち、大きな会社を経営している家は二つ。
その片方である八束家のお嬢様で、確か私たちより一つ年下であったと記憶している。今は大学に通われているはずだ。
雪様が屋敷にいらっしゃること自体は大分前から聞いていたが、理由は教えられていない――晴人様付きである私たちでさえ、だ。
「……これはまだ他言しないで欲しいんだけれど」
す、と落ちるような晴人様の声で、意識が現へ引き戻される。他言無用との言葉に、私と真白は表情を引き締めた。
「雪は今年で大学を卒業する。多分、六月に式を挙げることになると思うんだ」
――六月の花嫁、か。
そんなことを、ぼんやりと思った。
「半年弱、ですか」
真白がぽつりと漏らす。今から、という意味だろう。
晴人様も小さく頷いた。
「幸い彼女の大学はここからも通えるし、少し早いけど、うちで暮らしてもらうことになった。僕も雪が屋敷に慣れるまではこちらで仕事をするよ、調整はしてある」
晴人様の仕事に関しては、私も真白もあまり関わっていない。専属の秘書が会社にいて、何か問題があれば屋敷に電話がかかってくる。
私は言われたことを整理しながら、晴人様へひとつ質問をした。
「他の使用人には何と?」
「卒論に集中するため、とでも言っておいて。加藤さんにはもう言ってあるから、何かあれば彼に」
加藤というのは、綾部家の現在の執事だ。私を育ててくれた老執事の後任で、私の事情も承知している。
五十代の男性で、私と真白を組ませて晴人様につけるあたり、人を見る目はあるのだと思う。
「式の日取りは変わるかもしれないからね。雪が大学を卒業して、ちゃんと決定してから公表したいんだ」
だから内密にね、と晴人様が微笑むのに、私と真白は深く一礼して応えた。
「……あ、それから」
晴人様の紅茶を注ぎなおそうと足を踏み出しかけたときだ。
重要なことを忘れていた、といった様子で晴人様が声を上げる。
「雪の身の回りの世話なんだけど。庄司君に頼めるかな」
「私、ですか?」
いきなりの指名にびっくりして聞き返すと、晴人様はにこりと笑って頷いた。
「正式な使用人も近いうちに決めるけど、当面は頼むよ。その間、僕付きの仕事は都築君だけになってしまうけれど……」
晴人様は、顔色を窺うように真白へ視線を移す。真白は苦笑いで答えた。
「コーヒーと紅茶の味が落ちるのだけ、ご了承ください」
晴人様は真白の返答に吹き出した。
晴人様付きの使用人としての私の仕事は、コーヒーや紅茶を淹れて差し上げることと、執務室の電話番が基本だ。
お召し物の管理をしたり、外出の際に同行するのは真白の仕事。私が二階から下りられないのだから、これは仕方がない。
そして、晴人様は元々ご自分のことはご自分でする方だから、真白が傍に付いているのは半分話し相手のためだ。そういう意味では、私が抜けても問題はないだろう。
ひとしきり笑ってから、晴人様はもう一度私に声をかけた。
「そういうわけで、頼んだよ。歳も近いし、話が合う人がいいんだ」
「かしこまりました」
歳が近いのは真白も同じことだが、と思いかけてやめた。この男と私なら、間違いなく私のほうが適任だろう。
こいつの軽妙な口調は嫌いではないが、お嬢様の話し相手には向かなそうだ。