第9回 なぜ指揮者ごとに演奏の個性が出るのか
主にオーケストラの演奏で見られる光景ですが、指揮者が舞台の手前に立ち、演奏者たちにリズムやテンポや音量の指示を、指揮棒や手振りで出す事がありますよね。
演奏者が多くなるほど、合奏の音をぴったり合わせるのが難しいから、それを克服するために、指揮者という存在が必要になって来るのでしょう。
しかし、どうも腑に落ちない点があります。
クラシック音楽の世界には、数多くのすぐれた指揮者がいて、レコードやCDに、たくさんの録音を残してくれているわけですが、例えば同じ曲を、同じオーケストラで演奏した場合でも、指揮者が変わると、まるで印象が異なる演奏になる、という現象が起こりますよね。
しかも、巨匠と呼ばれる域に達した指揮者だと、その演奏に、その人独特の、音色やダイナミズムを感じ取る事ができるのです。
不思議ではありませんか?
演奏しているのは、指揮者以外の人たちで、指揮者は、単に手を振って彼らにリズムやテンポや音量の合図を送っているだけですよね。
それなのに、どうして、演奏の印象に、指揮者自身の個性が感じられるのか。
具体例を挙げると、ウィルヘルム・フルトヴェングラーが1947年にベルリンフィルを指揮したベートーヴェンの『交響曲第5番』と、ロリン・マゼールが1958年に同じくベルリンフィルを指揮したベートーヴェンの『交響曲第5番』があります。
フルトヴェングラーの方は、合奏全体が一つの連なった音のかたまりであるかのように、波状的に重々しく耳に押し寄せて来るのに対して、マゼールの演奏は、合奏がきびきびとテンポよく進み、軽やかにさえ聴こえる所に大きな特徴があります。
録音年が11年も離れている事から、録音技術の向上や、楽団員の入れ替わりの影響も考慮に入れなければいけませんが、それを踏まえても、やはり、二人の指揮者の音には、根本の音楽性の部分で、明瞭な個性の違いが表れている事が感じ取れるのではないでしょうか。
この、音楽性の違いが、どのようにして音楽に宿らされるにいたったのか。
一つの手段として、思い付くのは、練習時に、指揮者が自分の意図する音楽性になるように、楽団員を指導しているのではないか、という事です。
音のニュアンスや、各楽器のバランスを、自分好みなものに調整するだけでも、演奏は指揮者のイメージに近い響きに変わって行くに違いありません。
そして、そこにさらに、指揮者の望むリズムやテンポや音量が指揮によって伝達されるという行為が加われば、演奏の大部分は、指揮者の意図する音楽となって、聴き手の耳に届く事になると想像できます。
ただし、この「指揮者の音楽性を楽団が再現する」という理想を実現するには、楽団員が、自分の個性や好みを主張する事なく、細部まで指揮者の好みに合わせた演奏ができるようでなければいけない、という、条件が付きます。
ベルリンフィルやウィーンフィルといった一流の楽団が、名指揮者と組んだ時に、名演を残す事が多いのは、取りも直さず、指揮者の望む音楽性を再現する事に長けたエキスパートが顔を揃えた集団だからなのでしょう。
ですから、たとえ名指揮者であっても、実力がそれほど高くない国や都市の楽団などを指揮すると、個性が薄れた今一歩の演奏にならざるを得ない事が多いのです。
つまり、オーケストラ曲の演奏を名演の水準にまで高めるには、指揮者の音楽性の高さと、それを演奏で再現する楽団員たちの研ぎ澄まされた感受性と演奏技術の、両方が必要になる、という事です。