第13回 RIP エディ・ヴァン・ヘイレン (その1) 幸運に恵まれたヴァン・ヘイレンのデビュー
2020年10月3日の、エディ・ヴァンヘイレンの訃報に接して、喪失感に肩を落とした方も、多い事でしょうね。
私も、特別熱烈なファンというわけではないですが、彼がギタリストとしてロックの歴史に果たした革命的な役割を、非常に重視していますし、そのことは、私のコラム『ロックの歴史』の中でも、折に触れて、何度も語っているので、ご存じの方もいるかもしれません。
彼が長年の宿痾だったがんとの闘いの末に、人生の幕を下ろして以降、実に多くの人々が、プロのミュージシャンにせよ、一般のファンにせよ、他ジャンルの著名人にせよ、彼に対する哀悼の意を込めて、彼の功績を讃えたり、思い出話を披露してくれたりしています。
私も、この連載エッセイの中で、追悼文を書こうとは思っていたんですが、熱烈なファンが語るエピソードに交じって、ミーハー的な私が便乗して話題にする形になるのは、本当の追悼ではない気がしたので、世間が訃報のショックから少し落ち着きを取り戻すのを待って、あらためて彼に関する話をさせてもらい、私自身、彼がロックに果たした意義を再確認することにしたい、と思った次第です。
まず、よく取り上げられるエピソードですが、バンドとしてのヴァン・ヘイレンは、1976年、本格的なメジャーデビューの前に、キッスのベーシスト兼ボーカリスト、ジーン・シモンズにその才能を見いだされ、彼からデモ音源の録音をするための資金援助を受けています。
しかし、デモは、レコード会社に売り込んだものの、まったく相手にされず、バンドメンバーは落胆することになります。
今では、そのデモも、ブートレッグで聴けるんですが、すでにヴァン・ヘイレンらしい奔放さや、技巧の目覚ましさの片鱗は見られるものの、プロデュースが旧態依然のハードロックのサウンドに基づいているため、彼らの真価をレコード会社が感じ取ることは難しかっただろう、とも推察できます。
その後、地道で素晴らしいライブパフォーマンスで、地元パサデナを中心に話題の的になったバンドは、ある日突然、大手レコード会社のワーナーの社長とプロデューサーの訪問を受け、契約を打診され、晴れてメジャーデビューへの道が開けることになります。
ここで重要なのは、ヴァン・ヘイレンのプロデュースを任されたのが、テッド・テンプルマンという新時代の感覚を持った才能あるプロデューサーだった、という点です。
彼のプロデュースの特徴は、従来のハードロックにありがちな、重厚だけれど鈍重な、ともすると似たり寄ったりになりがちな野太い音を強調したサウンドから脱却した、爽やかで抜けの良いクリーンな響きと、シンプルさと華々しさを併せ持った都会的なバランスのミキシングにあります。
このミキシングサウンドは、ヴァン・ヘイレンの革新的で新時代的な演奏の魅力を、最大限に引き出す結果となりました。
そして、彼らに続く世代、俗にいうLAメタルのあまたのバンドの音作りにも多大な影響を与えています。
もし、ジーン・シモンズの援助で作成したやや旧式なセンスのプロデュースによるデモが評価されて、テッド・テンプルマンを擁するワーナーとは異なるレコード会社との契約が実現していたら、ヴァン・ヘイレンはおそらく、今ほどの音楽的、世間的成功は得られていなかったのではないかと思いますし、そうならなかったことに、私は安堵すると同時に、運命の面白さや素晴らしさに、感心せずにはいられないのです。
(その2に続く)




