暴き合う虚構
「というのは、冗談です。ヤンデレごっこ、です」
冗談には聞こえなかった。あの子の指先があたしの頬を撫で、それから首筋を通って、鎖骨に触れた。それだけで、あたしは身をよじって肩を上下させるほど、悶えてしまった。
「また、科学の話、いいですか」
ナナちゃんが、あたしのワイシャツのボタンを、片手で器用に、ひとつづつ外していく。ひとつが外れるたびに、あたしは言った。もうこれで、充分だよ。この先は、まだ、また、またいつか。
「統計上、女性は、こういうことをすればするほど、相手を好きになるそうです」
あの子の指先が、あたしの体をまさぐる。ふくらはぎから、太ももから、その上へ。最初は服の上から、やがて、直に肌に触れて。やめて、やめてと、あたしは何度も小さくつぶやいた。それから、想像した。今から、あたしはあの子と、肌を重ねるのだろうか、大人たちのように。
「まったく、現金ですよね。淡く儚い恋というのは、嘘の世界なのでしょうか」
それを言うと、あの子は手を止めた。そして、突然顔を歪ませた。
額や頬に、温度を感じた。ナナちゃんの涙が、あたしを濡らした。
「でも、それでも、ノノを好きでいたいから」
あたしは体を起こして、あの子の名前を呼びながら、頭を撫でた。何も考えられなかった。一年以上恋人として付き合ってきたあの子の事を、あたしは何も理解していなかった。その事実を突きつけられて、ただただ打ちひしがれていた。
そのまま時間が流れて、夜が来た。そのころには決心も付いていた。心を決めていた。そして、ながい沈黙を破るように、いいよ、と、あたしは言うのだ。
「つづき、したい?」
あたしはナナちゃんの手を取って、強く握りしめて。
でもそれは震えていて、その時あたしは気が付いた。
あの子も、怖いんだ。
「わかりません」
答えを聞いて、なぜだかあたしは安心していた。安心したかった。だから、まるで自分に言い聞かせるように、こう言った。
「早まらなくても、大丈夫。ゆっくり、少しずつで、それでいいから」
「いいえ、わからなくない、です」
あの子は俯いたまま、静かに、首を振った。そして、どこか冷たく微笑みながら、あたしを見た。笑っていたけど、その目は虚ろで、あたしじゃなくて、どこか遠くの場所に焦点が合っている、そんな気がした。
「今がいいです、いますぐ、あなたのものになりたい」
なにか、おかしい。おかしいよ、ナナちゃん、どうしちゃったの。
それを口に出そうとしたけど、出来なかった。あたしはまた押し倒されて、無理矢理唇を奪われて、唇の上に湿り気を感じて。びっくりして。
あの子を、突き飛ばした。
ごめんなさい、と互いに言い合ったまま、また時間だけが流れた。
部屋の扉が開く音がして、玄関の閉まる音がしても、あたしは顔をあげられなかった。
目を開けなかった。
ただ、ひたすらにショックだった。
あの子が変わってしまったことが。
あたし自身が、それを受け入れてあげられなかった事が。
でも、今ならわかる。
あの子は変わってなんかいなかった。
あたしに、ずっと隠してきただけなんだ。
あの子の中にある、底の見えない不安や、恐怖。
普段のおっとりした佇まいからは想像もつかない、暗く、冷たいよどみ。
それらが、些細なきっかけで、表に出てきてしまう事。
分かったところで、もう遅かった。
あの時、ナナちゃんを突き飛ばしてしまった瞬間、あたしの恋は終わったんだと思う。
あの日の彼女を突き動かしていたものは、焦りでもなく、ましてや性的な欲望なんかでもない。
ただ、恐怖していたのだ。あたしはそれを理解できなくて、してあげられなくて、その結果、あの子を絶望の底に叩き落した。
そして、あの子の抱えていた恐怖は、夏休みが終わるまでに、たぶん、現実になった。
あの子に何があったのか、臆病でバカだったあたしには知る由もない。
知る権利だって、ないのかも。
なにしろ、あたしはただ悔やみ続け、どうやって謝ろうか、とか、まだあたしを好きでいてくれるだろうか、とか、そんな事ばかり考えて、うじうじ悩みながら、夏休みをやり過ごしてしまったのだから。今にして思えば、本当に恋人同士だったのかすら、疑ってしまいそうになる。
あんなに、好きだったのに。
新学期の初日、ナナちゃんは学校に顔を見せてくれた。
後姿を見たときは嬉しかった。
少しだけ悩んだけど、あたしは声をかけた。
振り返ったあの子の顔には、表情がなかった。
まるい大きな瞳からは、光が消えていた。




