枝葉に噂あり
「やっぱり、文芸部がいいです」
ナナちゃんの提案は、あたしにとって重大な懸念事項だった。なにしろ今いる部員はたった一人で、なぜか1年生、それもナナちゃんのクラスメイトだったから。
〈夏巳夕〉
女の子みたいな名前で、ちょっと女の子みたいな雰囲気のある、しかし紛れもない男子生徒。卒業していった昨年度3年生の、中学時代の後輩で、なんと入部の約束を入学前に取り付けていたのだという。あいつとナナちゃんが、ふたりきりで部室に居るところを想像しただけで、あたしは怒りで我を忘れそうになった。
だけど、そんな不安をナナちゃんに明かすわけにはいかなかった。
『彼女』の気持ちを信用していないと、あるいは嫉妬深い奴だと思われて、嫌われてしまうんじゃないか、なんて、そっちの恐怖の方が、ずっと勝っていたから。
そうして結局、高校でもあたし達は文芸部員になる。
三度目の部会で、あたしの不安は現実のものとなった。
6限目、予定をオーバーして続いた体育の跡片付けがようやく終わり、制服に着替えるのも諦めて、あたしはダッシュで部室に向かった。部室から聴こえる話し声。遅かった、と悔やみながら耳を傾けても、内容はまったくチンプンカンプン。
後でわかった話だけれど、あの子たちが話していたのは、あるライトノベルの、いわゆるサービスシーンの、その是非について。
まあ、ナナちゃんにオタクな趣味があるのは知っていたけれど。
あの子と話を合わせようとして、あたしもラノベを読んだけど。
あの子が好きなキャラに微妙に嫉妬心を覚えたりもしたけどさ。
一番怖かったのは、会話の内容でもジャンルでもなくて、あの子と話す時だけ妙に明るく大きくなる、夕の声だった。
あたしは、夕を疎ましく思った。邪魔だと、思っていた。
いなくなればいいのに、って。
そんな頃、事件が起きた。
ある朝。いつも通りクラスで一番に登校した朝。あたしの机に、沢山の落書きがあった。
汚い字で殴り書きされた、目を覆いたくなるひどい言葉。
ショックだった。
女の子同士が恋人でいることを、蔑み、バカにする、そんな内容だった。
こんな日が来るかもしれない、って考えたことはあった。
その時は、ふたりで戦えばいい、って、そう結論付けた。
でも、あたしは戦えなかった。
足がすくんで、前を見られなくて、視界が滲んで、指先が小刻みに揺れた。何も考えられなくなって、下を向いて、人形のように、ただ止まっているだけ。
一人では、戦えなかった。
それでも、気が付くと次の瞬間には、廊下に飛び出していた。3つ隣りのD組の教室まで、せいぜい30メートルの距離だったけど、ごく短い時間を、無駄に大きな音を立てて走った。恐怖を、かき消すために。
あの子を、守るために。
D組の教室に、あの子の姿は無かった。というか、見知った男子生徒一人を除いて、誰もいない。夕の机には、落書きがあった。あたしの机に書かれたのと、まったく同じ内容。状況が飲み込めず、ぽかんとアイツの顔を見ていた。
「交換したんだよ、これ油性マジックで、消えねえからさ」
夕は、ナナちゃんの机と自分の机を入れ替えていたのだ。それに気が付くと、あたしは笑った。あれは、今にして思えば、夕に悪い事をしてしまった。そうやってあたしが笑えたのは、つまり恐怖と緊張が解けたからで、あたしをそんな風にしてくれたのは、アイツだったのに、ね。
「噂になってるぜ、お前らが、その……バカみたいだよな、こんな根も葉もない嘘ついてさ」
「嘘じゃない。あたし達つきあってる」
即答すると、夕は固まった。固まったまま、口だけを動かした。
台本のセリフを棒読みにするみたいに、あいつは言った。
「お前は大丈夫だったのか」
「へーき、へーき。慣れてるから、こういうの」
それは真っ赤な嘘だった。嘘だったけど、本当になる気がした。少なくとも、あの瞬間だけは、本当に平気だと思えた。自分のとこ、片づけてくるね、とその場を去ろうとするあたしに向けて、ちょっとだけ、どもりながら、夕は言ってくれた。
「その……応援、してるぜ」
ありがと、とお礼して、それから歩き出し、考えた。
あたしは、この落書きの犯人を責められるだろうか。
同じなんじゃないだろうか。男の子だっていう、ただそれだけで、夕に対して、あたしは偏見を持っていたんだ。何の根拠もない一方的な悪意を抱いていた、バカだった。あの日、あたしはそれに気が付いて、すぐに来た道を引き返した。
「ごめんね、あんたのこと、あたし勝手に勘違いして、嫌ってた」
あたしが不意打ちのように投げかけた言葉で、あいつはまた、固まってしまったっけ。
まあ、ある日、そんな朝があった。
そしてその日、あたし達は、ふたりの関係を周囲に打ち明けることに決めた。
図らずも、夕のおかげで、そのきっかけが出来た。
結果としては、先生も、友達も、まだほとんど話したことのないクラスメイトたちも、戸惑いながらも、ふたりの事を認めてくれた。羨ましい、って、そんな風にも言ってもらえた。
戸惑わせてしまったのは、主に打ち明ける方法が問題だったのかも。なにしろ、たとえば男女のカップルの場合ですら、校内の風紀上、普通は敬遠される行為だ。あたしの机の落書きを見るや否や、ナナちゃんは悪戯っぽくはにかみながら、あたしにこう提案したのだ。
「ここで今すぐ、見せつけてあげるのは、どうでしょうか」
冗談だったのかもしれない。
けれど、断る理由は無かった。
あたし達は躊躇わず、両手の指を絡めて。
口づけを交わした。
クラスメイト全員が、見ていたけれど。
息が苦しくなるほど、ずっと。




