DREI
赤い線が引かれる。
あの世と、この世。
あの世界と、この世界。
幻想と、現実。
両者を分かつ、境界線。
まるい輪が、円環が、空を囲う印が。
虚無を示す、記号が。
ひとつの、終わりを教えていた。
「うそだ」
俺は立ち上がる。力が入らない。
体中の筋肉が、弛緩している。
すぐに、その場に膝をつく。
七穂は、微動だにしない。
「ナナちゃん」
野乃詩は囁く。
ささやきは、やがて叫び声のようになる。
「ナナちゃん!!」
何度も、何度も繰り返される。
ノイズのように意味を失った、名前の羅列の隣りで、俺は思いつく。
そうだ。
「医者だ、先生を呼ぶんだ」
「う……でも、でも!」
俺は両手で膝を押え、力を籠める。体を持ち上げ、一度ぐらついて、しかしすぐに片足を伸ばし、なんとか体を支えて。
立ち上がった。
ゆっくりと、七穂に近づく。
部屋を去ろうと、野乃詩も歩き出す。
現実が、ますます霞む。
死ぬ?
七穂が?
いなくなってしまう?
永遠に。
そんな。
そんなの受け入れない。
俺は、認めない。
絶体に、死ぬまで。
絶体に絶対に、たとえ死んでも、死んだ後でも、俺は認めない。
だから、こう言った。
「これでいいのかもしれない」
「なにが! あんた何言ってんのよ!」
「だってこれは、神さまのことばじゃないか」
「まだ、そんなこと言ってんの!」
部屋の入り口から振り返る野乃詩は、ふと何かを思いついたように、七穂に駆け寄る。
ベッドのすぐ脇にある、緊急用のブザーを手に取り、力強く、ボタンを押した。
「だから、ハッピーエンドじゃ困るんだ! 終わらせないと、いけないんだよ!」
野乃詩は両目を丸くし、それから物凄い形相で俺を睨みつける。
勢いよく、ビンタが飛んできた。破裂音が、部屋に響く。
そして、静寂が訪れる。
言ったそばから、後悔した。
たとえ、これが現実じゃないとしても。
七穂が目を覚まさないなんて、そんなこと、あっていいはずがない。
俺は、バカだ。
愚か者だ。
七穂を救いたいなんて、おこがましい。
そんな考えで、頭がいっぱいになる。
俺と、野乃詩と、七穂。
三人の、呼吸の音だけが、部屋に響く。
……三人?
「う……うん」
恐る恐る、ベッドの方を見る。
七穂が、動いていた。
体を起こし、ぼうっと、下を見ている。
心電計のパッドは、外されていた。
そうか、だから、心音の反応がなくなったんだ。
あのゼロは。赤い線は。
七穂が目を覚ました、その証だった。
「あれ……ノノ……それに……ユウ……くん……」
言い終わらにうちに、俺は飛びつくように近寄り、彼女を抱きしめる。
「よかった」
よかった。
それは、本心だ。
ここが現実じゃなかったとしても。
それでもいい。
七穂が、彼女さえ、居てくれるなら。
俺はそう思っている。
そう感じていた。
その感情だけが、足元のおぼつかない不確かな世界で、わずかに残った、真実だった。
両手にいっぱいの力を込めて、さらに強く、彼女を抱きしめた。
「く……苦しい」
「よかった……よかった、よかった、よかったよかったよかった」
それしか、言葉が出てこない。
でも、それでよかった。七穂がいてくれるなら。この世界に、確かに生きていてくれるなら。
それだけでいいんだ。それだけで、よかったんだ。
そのことに、俺は気が付いた。
「七穂! 七穂!」
名前を呼ぶ。
彼女が、聴いてくれているから。
彼女の耳に、心に、届くから。
それは、一人で呟く言葉よりも、何千倍も、何億倍も、意味がある事だから。
だから、名前を呼ぶ。
そして、彼女の顔を見る。
笑ってくれ。
頼む、お願いだから。
今すぐに、あの笑顔が欲しい。
さあ。
「七穂って」
体を少し引き離して、見つめたその顔は。
七穂の顔が、凍りつく。青く染まる。
そこにあったのは、猜疑と不信。
「まさか、わたしのこと、ですか」
そして、恐怖だった。
〈5章 了〉




