ZWEI
紫陽花の花は萎れていた。
俺の足は止まり、野乃詩もまた、つられて歩を止める。
「この先なの?」
「ああ」
藪を抜け、正面の畑の横に、あの頃と同じに、それはぽつりと立っていた。
俺と七穂が過ごした、トタン屋根の昭和風の民家。
良かった、まだ、建ってる。と、一人呟く。
「ナナちゃん、こんなとこに住んでたの、ほんとに?」
そう言った直後、慌てて口を押え、気まずそうに下を向く野乃詩。
「ごめん、別に悪く言う気は無かったんだけど、ギャップがね」
「ギャップ?」
「うん、なんていうか、ナナちゃんの昔の家と比べたら」
「すごかったもんな、あのお屋敷」
知った風な口をきいているが、実際のところ俺は、七穂の書いたあの話の中の描写でしか、お屋敷とやらの実態を知らない。
「いや、あんたが思ってるカンジじゃないわよ」
思ったそばからツッコみが入る。
そういえば、ファミレスで七穂の本の話をした時のこと。
俺の話すお屋敷の姿形について、野乃詩は首をかしげながら聴いていた。
「ちょっと……いやかなりお金持ちそうではあったけど、造りは普通の、モダンな住宅って感じだったよ」
「尖塔とか、噴水とか、デカい門とかは?」
「なかったと思う」
話をするうち、疑問が沸いてきた。
あの本の中身の、どこまでが真実なのか。
俺はそれを知らない。
しかし興味と同時に、そんな事を知ってどうする、何が変わるわけでもないだろ、と、釘を刺してくる自分の声が聴こえた。
「そもそも、ユージをあそこに呼び出すまで、お屋敷がなくなってた事すら、あたしは知らなかったから」
「そうなのか?」
「あたしは、ナナちゃんの家で待つ、っていうつもりで書いた、あの手紙」
当時を思い出す。
『絶対に殺してやる』と書かれた手紙の裏に、『ここで待つ』という文字とともに地図があった。描かれたその場所は、本来なら七穂の住んでいた家で、野乃詩はそれを知らなかった。
そういう事か。
俺がわざわざ殺されに来るアホだと踏んで、あの手紙を渡したわけでは無いんだな。
「じゃあ、お屋敷が何で無くなっちまったのか、お前は」
「うん、知らない、なにも」
会話が途切れ、家の目の前で二人、俺たちはただ立っている状態になった。
そろそろ、入らなければならない。
ここに来るために、わざわざ電車に乗ったんだ。
カギはある。
けれど。
この中は、きっと、俺を傷つけるもので溢れている。
忘れ去ろうとしていたあの日々が、そのまま残っている。
ただ一つ最も大切なものを除いて。
それ以外の、全部が。
「やっぱり、やめる? いいよ、やめても」
野乃詩がそう言ってくれたことで、なぜか、少しの勇気が沸いた。
俺は覚悟を決め、カギを差し込み、戸を引く。
傘立ての中に、臙脂色の傘。
キッチンが見えた。
シンクの中に、カップが残っている。
英国製のティーカップ。
テーブルの上には、茶筒とケトルが、片づけられないまま残されている。
床の上に、畳んであるのは、ピンク色のバスタオル。
ハンガーには、ベージュのシャツ。
まるで、昨日までそこで誰かが暮らしてたみたいに。
廊下の先の二つの扉の、片方が開け放たれている。
七穂の部屋だ。
そこに、彼女がいる気がした。
いるはずだった。
いなければ、おかしいのだ。
「七穂!」
俺は声をあげ、駆け出した。
靴を脱ぎ捨て、玄関は開けっ放しで。
部屋に駆け込む。
ベッドを見る。
床の布団を見る。
段ボールの山を崩す。
いない。
来た道を引き返し、風呂を覗き、トイレを開け。
そして、思い知る。
今ここに居る、この俺と、もう一人。
ふたり。ふたりだから、二人でいたからこそ、そこにあるもの。
いつも、そこにあるはずの面影は。
いつも、そこにあった、あの静かな微笑みは。
どこへいった?
俺は気を取り直す。
いいや、まだ、あるじゃないか。
俺は、七穂の部屋の反対に位置する、もう片方の引き戸に手をかける。
この部屋、そういえば、ほとんど入った事が無い。
最後に入ったのって、いつだったかな。ひょっとして。
ほとんど、じゃなく、一度も、俺はこの部屋に入った事、無かったんじゃないか?
彼女は、いつも、ここを開けてほしくない様子だったから。
そんな事を思いながら。
「七穂! 開けるぞ!」
戸を開く。
冷たい空気が、入り込んでくる。
最初に目に飛び込んできたのは、金縁の、黒い観音開き。
開け放たれている。誰かの写真が、飾ってある。
線香の束。蝋燭。ライター。
仏壇が、そこにはあった。




