VOLK
「お父さん……お父さんは」
「もういい、いいんだ」
この話を引き出したのは、ほかならぬ俺自身だ。
後悔はしていない。していない筈だが、罪悪感が、鋭利なナイフのように胸をえぐった。
暗闇の中でもはっきり分かるほどに、七穂は顔をひきつらせている。
両目を隠しながら、拳は赤子のように、大切な何かを掴むように、固く握られている。
「ありがとう、七穂」
放り出されていた方の七穂の掌へ、そっと、手を重ねる。
不安になるほど、冷たかった。
彼女が確かに息をしていると、確かめたくなるほどに。
顔を近づけ、吐息を確かめる。
確かめながら、しかし、湧きあがる衝動に、俺は打ち勝てなかった。
何度目かの、キスを交わす。
「お父さんがなくなった後、お母さんは、物語を書くのを、やめてしまいました」
七穂が、再び昔話を始める。
あんなに泣いていたのに、まだ、続けようとする。
彼女なりのけじめなのか。あるいは、誰かに聴いてほしかったのか。
俺は耳を傾ける。
「わたしたちは、生活に困っていました。わたしはまだ、小学生でしたが、中学生になったら、年齢を偽って、アルバイトをしよう、などと、そう考えていました。パートタイムの仕事を掛け持ちして、毎日夜遅くに帰ってくる母に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいでしたから。
そんな時、あの本が、大手の会社の、出版部門の重役のかたの目に止まりました」
ひょっとして。
「ユージーン・カッセルは、こう考えていました。自分の名前を世に残したいと。
いつか素晴らしい本を書きあげて、大衆を、多くの人々を感動させ、著者として、作家として、名声を得てから死にたいと。
母は、その人と再婚することを決めます」
そうか。
気が付いた。
あの物語は、そうして、始まったんだ。
『神さまのことば』未満。
あれは、やはり、実際に起こった出来事が、元になっているのだろう。
「くわしい内容はしりません。でも、わたしは気が付いていました。
あの二人の間で、なにか、契約が交わされた事を」
契約。
誰かが、何度も口にしていた。
あれは、俺と七穂の契約を指して言っているんだと、あの時はそう感じたが。
どうやら違ったみたいだ。
事あるごとに契約、契約と口にしていたあいつは……そう、ナナだ。
「わたしの眼には、母が、まるで、ユージーンさんの奴隷のように見えました」
ナナとシホ。
瓜二つの見た目を持つ、双子の姉妹。
彼女たちの正体は。もとになった、実在の人物は。
七穂と、彼女の母親なのだろうか。
「そこから先は、有慈くん、あなたが見た世界です」
それを耳にして、俺は悟った。
あれは、真実じゃない。
真実は、闇の中だ。
七穂は、いま、こう言ったのだ。
真実など、問題じゃない、と。
去り行く人々は、最後に幸せな日々を送ったのだと。
すくなくとも、残された者たちは、そう捉えてしかるべきなのだと。
「母の、まねごとです」
でも。
あの物語は、ハッピーエンドなんかじゃ、なかった。
理由の分からないまま、それが描かれないまま、突然悲劇が襲い、終わる。
幸せな日々の中心にあった、あのお屋敷は、炎に包まれて、無くなってしまう。
そうか。
だから、あれは、神さまのことばじゃないんだ。
神さまのことばに、なれなかったんだ。
「でも、わたしは失敗して、しまいました」
目を腫らしたまま、何事もなかったかのように、また、七穂は笑っていた。
「文才、ありませんから」
冗談めかして言うが、俺は何も言ってやれない。
せめて、そんなことないぜ、などと、返してやれば良かったのだろうか。
そんなのはどうでもいい、文才がどうの、という次元の話じゃない。
そんな考えにとらわれ、結局、俺は何も言葉をかけてやれない。
「それに、やっぱり、あれだけは」
わらったまま、突然、苦虫を噛み潰したように。
目尻に、目元に、皺を寄せて。
「あの出来事だけは」
顔を引きつらせ。
ふたたび両目から、ぽろぽろと。
「嘘には、できません、でした」




