UNDO
またヘンな夢を見そうだ。
俺の寝言に従い猫耳を付けヘンなポーズをっていた、あの日の七穂を思い出して、飛び起き、薄明りの中をうろつく。
テレビの前の赤いソファに腰かける。足元、ガラスのコーヒーテーブル上には、栓抜きや灰皿が設置してある。当たり前だが、本来ここは大人が来る場所なのだ。
背伸びしている気はしない。
実年齢はともかく。
今の自分が、果たしてどの程度、成熟しているのか、つまり大人なのか、深く自問したことなんか、そういえば無かった気がする。
なぜなら、それはあまり意味のない質問のように思えるからだ。
しかし。
今は。
考える。
考える必要があるのではなかろうか。
まじめに考えてみる、必要が。
俺は七穂が好きだ。
愛してる、なんていう、歯の浮くような、気障なセリフは言えないけれど。
それでも、愛している相手を挙げろ、と言われたら、彼女の名を最初に口にするだろう。
つい1週間ほど前、俺は七穂に、そういう意味合の込められた告白をした。
どこまで伝わっているか、分からないけれど。
そして、今日。
七穂は、俺の事を好きだと言ってくれた。
あの言葉には、どんな意味が込められていたのだろう。
七穂の言った『好き』は、とどのつまり、どの『好き』なんだろう。
恋愛感情なのだろうか。
などと真っ先に期待するのは、やはりおこがましい事なのかもしれない。
でも。
知りたい。
知ったところで、どうなるかは分からない。
七穂の言葉を思い出す。
『なぜなら、この世界は、そんな場所ではないからです。人が人を、お互いに人として、正しくあるがまま、愛し合えるような、そんな場所ではないんです』
なぜ、こんな事を考えるんだろう、彼女は。
そうだ。
まず、何よりも先に、俺はそれを確かめなくちゃならない。
彼女が俺を好きだと言った、言ってくれた、その真意よりも、先にだ。
そして、その答えは。
たぶん、あの物語の中にある。
『神さまのことば』未満、もしくは、冗談。
俺は、彼女の真意を知らなきゃならない。
そう決意して。
決意しようとして、気が付く。
なんで、俺なんだろう。
どうして、俺が選ばれたのか。
いや、最後に残った、読者候補だったという、それだけの理由なのかも、しれないけれどさ。
それに。
なんで、奴隷なんだろう。
文字通り、己のすべてを差し出す覚悟だったという事なのだろうか。
そこまでして、読ませたいものだったのだろうか、あの物語は。
……なにか、見落としている。
〈奴隷〉
その、血の気の引くような、禍々しい二文字が、またも、頭の中でリフレインし始める。
まるで、何もない真っ暗な闇の中で、その言葉と、概念と、一対一で対峙しているかのような錯覚に、俺は陥りかけた。
そうだ。
向き合わなきゃ、あいつと。
奴隷。
だめだ。
その言葉から目をそらすように、後ろを向く。
脱衣所に、七穂のワンピースが脱ぎ捨てられている。
そのポケットのあたりに、なにか黒いものがみえる。
あれは。
……なんで、まだ、アレを持ち歩いてるんだ?
俺と彼女は、奴隷と主人だった。
でもそれは、過去の出来事になったはずだ。
少なくとも、今はもう、要らない筈だ。
俺は目をこすり、視界の一点を凝視する。
自分の目を疑う。
疑いながら、フラフラと立ち上がり、そこへ近づく。
そいつを、手に取る。
見間違いじゃ、なかった。
白い刺繍。
俺の名前。
主従の証である、首輪の名残。
黒い布切れの、その正体。
七穂の、チョーカー。
なにかが、おかしい。
そもそも。
静かすぎる。
バスルームの中から、物音ひとつしない。
得体のしれない感情が……いや、知ってるさ。
これは恐怖だ。
恐怖が、俺を突き動かす。
「七穂!」
勢いよく、バスルームの戸を開ける。
再び、我が目を疑う。
湯船には、そもそも水の一滴すら、入っていない。
そこには、誰一人、居なかった。




