HERZ
窓の外に目をやると、空気が紫を帯びている。
夜が開けるのだ。
客はいない。
店員もいない。
店の中には誰一人いない。
店の前の通りにすら、人影はない。
目撃者はいない。
「殺すのか、俺を?」
いま、ここで?
心臓が鼓動を増す。
ひょっとして早く動いてる状態の方が、刺されたら痛いんじゃないか、などと変な方向に思考が働く。
野乃詩の手が、テーブルへと、再び伸びる。
「人聞きの悪い事いわないでよ」
ナイフは再び、バッグの中へ納まった。
緊張が解け、息が抜け、力が抜ける。
「やめてくれよ、冗談でもそういう事は」
果たして本当に冗談だったかは怪しいところだし、冗談でした、なんて言葉は彼女の口から一言も発せられてはいないが、今は冗談だったという事にしておきたい。
ああ……疲れた。
「神さまのことばについて、教えてあげる」
唐突にそう言うと、野乃詩はピンク色の板を取り出す。スマホみたいだ。
スリープを切り、何か入力している。スワイプの様子からすると、ブラウザでも見ているのだろうか。
「おいおい、人と話をしてる時に失礼だな」
答えはない。しばらくすると、野乃詩はスマホをひっくり返し、俺に画面を見せた。
ある単語が、目に留まる。
『神さまのことば』
ええ。
普通にググれば出てくるんじゃねーか!
「ひょっとして、お前に聞く必要なかったのか」
「そうでもない」
画面に目を通す。
これは……某ペディアだ。
誰でも自由に編集できるといううたい文句だが、おかげで日々醜い定義づけ合戦が繰り広げられる戦場と化した、WiKiベースの百科事典だ。
こう書いてある。
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神さまのことば
『神さまのことば』は、ユージーン・カッセル(Eugene von Kassel)による小説。
美穂出版発行。著者は外国籍だが、日本語で書かれ、日本の出版社から発行された。当初、国内での売れ行きは芳しくなかったが、社内で高く評価され、後に翻訳版が世界13か国で刊行された。
第3回マクスウェル文学賞の大賞受賞作に名前が挙がったが、著者であるカッセルの辞退によって取り消しとなった。
カッセルは辞退を表明した数週間後に亡くなっているため、本作が遺作となる。同名の、内容の異なる作品が無数に存在すると噂されているが、真偽は不明。
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それだけ、だった。
このサイトの記事の中では、比較的内容の薄いページのようだ。
人名や出版社名、賞の名前なんかも、赤字ばかりで、詳細記事は無いらしい。
俺はスマホを野乃詩に返そうとして、やはり取り上げる。
「何なのよ!」
再び、画面に目をやる。
雨の日、七穂と出かけた場所を思い返す。
ユージーン・カッセル。
カッセル。
間違いなく、あの墓に刻まれた名前だった。




