此SIDE方
(眩しい。
眼が痛くなるほど眩しいはずなのに、しかし不思議と、それは優しかった)
体を起こした辰巳有慈は、己がたしかに辰巳有慈であることを、何よりもまず優先して確かめた。
空っぽの何かを抱く様に広げたその腕の、両の掌を交互に凝視し観察し、生命線と運命線の長さや交わり方まで念入りにかつての記憶と照らし合わせた。
かつての記憶。
この時、彼はまだぼんやりと、かつて……つい数分前まで自身が住んでいた世界での出来事を、遠い昔の、消えかかった儚い思い出の如く、とらえている。
彼の自覚において、この大きな部屋の大きなベッドで目を覚ますのは、昨日も一昨日もその前の日も、彼の生涯で、ごく当たり前に繰り返されてきた日常の筈だった。
彼は、何一つ驚きはしない。
部屋の床が大理石の如く磨き上げられていようが、窓枠に金細工の柊が散りばめられていようが、熟練の職人が長い日数をかけてレリーフを施した部屋の扉が、腕を十倍に伸ばしても届かない場所にあろうが。
(でも……俺は、今しがた、こっちへやってきたんだ)
意識が、さらなる覚醒をみた。
(見覚えのないやたら豪華な部屋で目を覚ましても、俺は、それがごく当たり前の日常のように感じている。体の記憶、とでも呼べばいいんだろうか)
彼の意識は確かに、かつて自分が居た“あっちの世界”のものだ。
だが、今の彼の肉体は、“こっちの世界”で誕生し、“こっちの世界”に在り続けてきたものだった。
たとえ、その見た目において、“あっちの世界”の肉体と寸分違わないものだったとしても。
弦楽器の裏板を叩くような、伸びのよい低音が三度、部屋に響く。
誰かが、扉をノックしている。
「有慈さま! 出発まで時間がありませんよ!」
声は、どことなく聞き覚えのある、少女の声だ。
(出発、か。またどこかへ行かなきゃならんのか。俺は今しがたこの世界にやってきたばかりなのに)
「どこ行くんだよ」
「何を寝ぼけていらっしゃるのですか、ご主人さま」
今度は、別の誰かの声がした。その声もまた、聞き覚えのあるものだ。
二つの声は、背の高い扉の向こうから響いてくる。
「ご主人さまが、ぜひ行きたいと、最初に言い出されたのではありませんか」
そうだった。
忘れていた。
今日は、出発の日だ。
俺は確かにそう言った。
『海外旅行に行きたい』
「すまん忘れてた!」
勢いよくベッドを飛び出し、クローゼットに手をかけ、“あっちの世界”のそれより倍は重さのある、その観音開きを引っ張る。
スーツにタキシード、袴。白黒灰色赤に青。
多種多様な礼服の数々。どれもこれもがぴんと襟を伸ばし、それぞれ十分な空間をもらいながら、さも快適そうに、銀のハンガーに着られている。
それらをかき分け、更に奥へ手を伸ばす。
シンプルな、ほとんど柄のない黒のTシャツに、白いロングのパンツ。
今日は出来るだけカジュアルに行こう、なぜなら。
「久しぶりの、家族水入らずだしな」




