本気
思考を巡らせる。
湯船に浸かりながら。
あのあと、俺は加瀬の雰囲気に圧倒されて、究極のイエスマンに成り下がっていた。
何を質問されようと、「はい」と返す男。
「それこそ奴隷じゃねえか」
独り言は湯気の中に消えて行く。
1日を振り替える。風呂とはそういう場所だ。
加瀬に呼び止められた。女優やアイドルすら歯が立たない、万人に一人レベルの美少女に。
そして、人気のない場所につれて行かれ、とあるお願いをされた。
それだけなら、甘酸っぱい青春の思い出でおしまいだ。
だが、問題なのはそのお願いの内容だ。
公園から持ち帰った例のブツを思い出す。
「クソ」
悪態をついても始まらない。体も暖まってるはずだし、そろそろ上がるか。
そうして風呂場を後にし、自室に戻った俺を待ち受けるは、一枚の封書。
A4サイズで、妙に厚い。
『これ、契約書です。ちゃんと押印、お願いしますね』
公園からの帰り道、そう言いながら、加瀬は俺にこの包みを手渡した。
逃げ出した俺を追いかける前に、きちんと教室から持って出た自分の学生鞄から、こいつを取り出して。
「いったい、どんな書類が出てくるやら」
封を破り、中身を取り出すと、役所で見かけるような、かしこまった形式の書類が、全部で20枚。
軽く目を通してみると、背筋が凍った。
『甲は乙に対し、日本国憲法ならび日本国法律に定めるいかなる庇護とも関わりなく……』
『乙は、契約の定める限りにおいて、基本的人権を含む一切の権利を放棄し……』
さっきまで風呂に入っていたのが嘘のように、寒気を感じた。
あたかもビジネスライクな、まっとうな契約書風の文体で。
一人の人間を、別の誰かに、完全に隷属させるための言葉が連なっている。
「本気なんだな」
マジと読んでもいい。
この契約書を作ったのが加瀬本人なのだとしたら。
彼女は、マジだ。
書類の右下へと目をやる。
そこには朱肉の赤があった。
円の中に、複雑な直線で模様がある。
多分、これで加瀬と読むんだろう。
加瀬自身の捺印だ。
彼女が『乙』となる、その意思の証明だ。
その横の空欄は、俺の印を押すための場所だろう。
ため息が出た。
色々な可能性を考えた。
もしかしたら加瀬はいじめを受けていて、何かの罰ゲームとしてあんな事を言わされたのかもしれない。
あるいは、加瀬には重い精神的な疾患があるとか。
……いや、この線は普通にあり得そうだなぁ。
だとして、つまりそれは彼女が本気だって事になる。
とにかく。俺は知ってしまった。
同級生が、何か大きな間違いを犯そうとしている事実を。
そして、どうやらその最大の当事者が己であるらしい事を。
寝ぼけた頭で自問する。
勇気はあるか?
お前に、誰かを救えるか?
答えは簡単。
『わからない』