猜疑心の間
雨は上がり、朝日が差し込んでいる。
昨夜は考え過ぎて眠れなかった。
俺はこれから、どうしたらいい?
試用期間は、明日で終わる。
くだらない事にばかり使っていた、あの『命令』も、あと2回を残すのみだ。
そのあと、例の、彼女が書いた物語とやらを読むのか。
そりゃ、読むのは簡単だろう。
別に読んでみたところで、俺にとって何か大きなペナルティが発生するとは到底思えない。
だが、彼女は、七穂は。
それに伴い、本当に俺の奴隷になろうとしている。
何を考えているんだろう、七穂は。
俺に好きだと伝えられても、それを拒み。
死のうとしているのかと聞かれれば、違うと答える。
それじゃあ、俺が彼女を引き留めておく理由など、最早存在しない。
というか、これじゃ単に俺のわがままで七穂を傍に置き続けているって事になる。
俺は決意した。
リンカーンだ。
解放宣言だ。
今度こそ、本物だ。
加瀬七穂に、自由を。
「今日は、先に行ってるぞ」
「えっ」
七穂の顔を振り返ることもなく、俺は家を出る。
走る。すぐバテる。
疲れた。
背後から、子気味のいい、小さな足音。
「ご主人さま、まだまだ始業時刻は先ですよ?」
ここ数日、何度か走り回って、少しは体力ついたと思ったんだけどナァ……。
観念した俺は、七穂と共に電車に乗り、七穂と共に改札を出る。
いつものように。
「あんたたち、いつもそうやって並んで登校してんの?」
そして、いつものようにあの通学路を行く。
「ちょっとスルーしないでよ!」
カミウラじゃねーか。
「お前、まさか俺達を待ち伏せて……」
「そんなワケないでしょ、アンタたちがいつもより早いのよ」
言われてみれば。
俺の固い決意の失敗により今日はいつもより大分早い。
「ていうか、アンタには用はないから」
そう言って、七穂の方を向くカミウラ。
二人きりにしろってか。
悲し気に、カミウラの視線を受け取り、七穂は俺に目配せした。
「先行ってるぜ、七穂」
「ごめんなさい、ご主人さま」
「ごご、ゴゴご主人さまァ!?」
カミウラの、ごご、ゴゴゴゴゴという、それはそれはキツイであろう眼差しを受け取ることなく、俺はその場を後にする。
七穂が教室に戻ってきたのは、その日の昼休みの終わりだった。
図らずも、いや一度目は俺の意図するところだが、七穂に二日連続で授業をサボタージュさせてしまった。
休み時間が訪れ、カミウラと話した内容を聞きたい気持ちに襲われたが、俺は思いとどまった。
◆◇◆
そして、放課後。
昇降口を後にするや、俺は開口一番、こう言った。
「なあ、今日の命令、いいか」
「はい、なんなりと」
即答である。
「お前はもう、奴隷を止めてくれ」
七穂の眼が見開かれる。
眉間に皺が寄り、口元は半笑いになる。
「な、なんで」
すまんな。
もう、決めたんだ。
「お前の書いた物語を全部読む、その代わり、今日限りで、お前は奴隷の身分から解放される」
どうだ、ナイスアイディアだろう。
御伽話に出てくる和尚さんの、とんちという名の脱法行為に比類する叡知だろう。
「それは、できません、契約書に」
「契約書はもうない!」
そう、俺は知っている。
あの紙束は、俺が屋上で床にたたきつけた後、七穂に拾われることもなかった。
風で、どこかへ飛んで行ってしまったか、あるいは清掃員が焼却炉にポイしてしまったはずだ。
「ていうか、あんなもの、ただの紙切れだ!」
法的拘束力なんてありゃしない。
あったとしたら憲法違反だ。訴えてから違憲判決を待てばいいのだ。
訴えられるのは確実に俺だろうが。
「お前は、何考えてんだよ! そりゃ両親が死んで可哀そうだとは思うが、こんな事付き合いきれねえよ!」
七穂は、相変わらず笑っていた。
その目は、また赤みを帯び、濡れている。
何度目だろうが、しかし、今回ばかりは必要なのだ。
「かしこまりました、ご主人さま」
その解は、意外にも、すぐに帰ってきた。
少し拍子抜けした俺は、心で振り上げた拳の落としどころが分からない。
「いいえ」
少し遠くで俺を見据える、小さな七穂を見つめ、俺は思った。
これで、お別れなのだろうか。
いいや、お別れだ。
そうでなければ、ならないのだ。
「ごめんなさい、有慈くん」
声は、少しだけトーンを落としている。
「それは、できません」




