紫陽花の枝
小雨が屋根を打つ音で目を覚まし、それが少しづつ激しくなる中で支度を済ませ、七穂と並んで玄関を開ける。
「いってきます」
俺に向けた言葉ではない。
家は無人だ。
「誰に言ったんだ?」
キョトンとして俺を見た後、にっこり微笑んで、七穂は俺の知らない名前を告げる。
「ツァウベルに」
つ……なんだろう。
ドイツ語だろうか。この昭和風民家の名前だろうか。
しばし思い悩んだ後、一つだけ、名前の主に思い当たった。
「ひょっとして、あのぬいぐるみか」
「はい、ハイイロオオカミの、ツァウベルちゃんです」
「ハイ……ハイカラなんだ」
なんだそりゃ。
「はい、異国趣味です」
スマホでツァウベルという単語の意味をググっても、あまりピンとくるものは無い。そしてなんだか、それ以上を聞くのが躊躇われた。彼女の秘密に立ち入るような気がしたのだ。
臙脂色の傘を広げる七穂の姿を見つめながら、あのオオカミの眼を思い出す。金色に輝いているようにも見える、印象的な光彩の色。獣と、可憐な少女。ふと連想したのは、誰もが知っている、とある童話。
赤ずきんの物語だった。
俺が傘を探していると、七穂が声をかけてきた。
背伸びをしながら、高く掲げた自分の傘を、もう片方の手で指さしている。
そうだ。俺達は付き合っている、設定なのだ。
俺は彼女の手から傘のハンドルを静かに奪い、二人の上にかざした。
ひとつの傘の下、ふたりで並んで駅へと向かう。
細い道の脇、藪の中から紫陽花の枝が、顔をのぞかせていた。
つぼみが少しづつ、膨らみ始めている。
こんな天気なのに、妙に気分が弾む。
「なあ、雨って好きか」
なにげなく、そう聞いてみた。
こんなに近くに居ても、届かないんじゃないかというぐらい、小さな声が出た。
「はい、とても」
彼女の答えもまた、雨音にかき消されてしまうほど、小さかった。
「じゃあ、今日はサボろうぜ」
七穂の足が止まり、俺はそれに気付くのが遅れ、足が出て、少しだけ濡らしてしまった。
しかし、彼女はまったく気にしない様子で、声を張り上げた。
「いいですね! どこにいきますか!」
「お、意外とノリがいいな」
「わたし、学校をサボタージュするのは、はじめてです!」
両手を胸のところに持ち上げて、前のめりに、七穂はそう言った。
その目は、いつにもまして輝きを帯びている。ドキドキわくわくしている。
俺はこの、募る期待に応えねばならない。ネカフェやマックで適当にダラダラ過ごしてはならないのだ。
「海でも行くか」
なんだそりゃ。
海水浴シーズンはまだもうちょっとあるぞ。
というか、泳げる海は大分遠いぞ。雨降ってて寒いぞ。
「泳がれるのですか?」
「ああ、それもいいな、一緒に泳ごうぜ」
何を言い出すんだ俺は。
七穂の水着姿を想像し始めた己に重りを付けて沈め、対案を練る。
「つかぬことをお伺いしますが、わたしの水着姿をご所望ですか」
ぶはっ!!
「ご主人さまの妄想されていらっしゃる、下着のような恰好なんて、わたしにはとても無理です」
たしかに、とてもキワドい水着を選びそうな性格じゃない。
最近流行の、普段着と区別のつかない、男としては水着じゃねーだろそれと突っ込みたくなるような、ああいうのを選ぶんだろうな、七穂は。
「じゃ、じゃあ、じゃあ」
じゃあ、ってなんだよ。やっぱり水着が目当てだったのかよ。灰色の空の下キャッキャウフフするつもりだったのかよ。
「山がいいか?」
何も考えぬまま口を動かし、下等動物の条件反射の如き対案がでてきた。
最初のデートだというのに。
フラれた直後の傷心デートだというのに。
何処へ行くべきか、まったくアイディアが浮かばない。
足を止めたまま脳内で日本中の観光スポットを巡る俺に、しかし七穂から、言葉がかけられた。
「お墓」
七穂の方から提案してくれるとは。
デートにはもってこいだな!
いや、え?
「お墓に、いきたいです」




