小説
落ち着きを取り戻すため、傍にあった自販機でコーヒーを買う。
そう、二人分の落ち着きを、平常心を、カフェインの力を借りて、強引にでも。
「あの、わたしのお話、分かってもらえましたか?」
あたりはすっかり闇に包まれ、スマホで時刻を確認すると、もう飯時だった。
空腹は全く感じない。緊張状態が長すぎたのだ。
ベンチに腰かけたままの加瀬に缶を渡す。
俺はその傍らに立ったまま、プルタブを引いた。
ええと。
話を整理しよう。
加瀬は、奴隷にしてくれと言った。
しかし、条件があるらしい。
「つまり、お前が書いた小説を読めと? 俺に?」
それを口にした瞬間、顔をあげ、目を輝かせ、しかし口元は引き締め。
加瀬は食い入るように、俺を見上げ、見つめる。
「はい! 読んでもらえるんですか!」
「いいよ別に」
即答だ。
小説なんて普段はほとんど読みはしないが。
多くの場合、つまらなかったり、訳が分からなかったり、オチが見え透いていたりと、ページをめくり続ける動機が、時間の経過とともにすり減っていくというのが理由なんだが。
だからといって、絶体に嫌だなんてものじゃない。
読み進めることが、ひたすら地獄のように苦しいだけ、なんて本は、そうそうお目にかかれないだろう。
「ほんとに!?」
加瀬は立ち上がり、更に食い入るような目で俺を見つめ、顔を近づける。
互いの吐息が、顔にかかりそうだ。
恥ずかしくなり、距離を取った。
「いや、おかしいだろお前。一体どれだけ」
そこまで言って、続きを飲み込む。
『一体どれだけ、つまらないんだ?』
『お前の書いた話は、どれだけ、地獄のようにクソつまらないんだ?』
流石に言えない。
「おかしいですよね。ヘンですよね」
俯く加瀬。
「そうだよ、いくらなんだって奴隷はねえだろ。そっちはお断りだ」
なんとか、話をそらした。
彼女の作品の品質について、言い及びそうになる前に。
「でも、決めたんです」
加瀬は笑っていた。
「わたし、最初の読者のために、わたしのすべてを、その」
加瀬は笑っていた。はにかんでいた。
その笑みは、今日まで俺が見てきた他のどんな笑みよりも。
暗く、冷たかった。
「わーわー! ストップ! ストップ! もうその話はナシ!」
〈奴隷〉
そんな言葉が彼女の口をついて出るのは。
そんな場面には、もう出くわしたくない。だから俺は告げる。
「加瀬、なあ、ちゃんと読むよ、お前の小説、約束する」
加瀬の顔から、あの冷たい笑みが引いていく。
「ていうかさ、俺なんかじゃなくても、誰だって、読んでくれるさ」
お前みたいな美人の頼みなら、な。
そんな気障ったらしい台詞が頭に浮かび、慌ててかき消す。
「むしろ嬉しいよ、こんな事、お願いされるなんて」
何か、引っかかる。
頭が、再び回転を始める。
「誰も、読んでくれませんでした」
声は、震えていた。
「お父さんもお母さんも。小学校、中学校、高校の友達も。学校の先生も。ネットの向こうの人たちもみんな。みんな、みんな。誰一人、最後まで読んではくれませんでした」
ちょっと待て。
分かってはいたが、俺が最初の読者……というか、読者候補で無いのは、まあ当たり前だ。
しかし、どういう事だ。彼女の親しい、彼女を少なからず愛してくれているであろう人々も、読むのを途中で諦めたってことか。
一体、全体、どんな話なんだ、ソレ。
「もう一度だけ、お伺いします」
声は震え、掠れ、今にも消えてしまいそうだ。
「わたしの小説、読んでくれますか?」
『ああもちろん、さっきもそう言ったろう?』
そう言いたかった。言えなかった。
頭がグルグル回りだす。喉が渇く。
つばを飲み込む音が、随分でかい。
「わたしの小説を読んでくれるなら、わたしはあなたの奴隷になります」