無下と夢幻
走り続けた。
走るため。
半年ばかり、走るという行為をやっていなかったため。
俺は走り続けた。
健康のため。
鍛練のため。
己のため。
疲労のため。
何のため?
走るため。
走るために、俺は走り続けた。
あてどなく。
なにげなく。
なんとなく。
何のため?
七穂のため。
ナナちゃんのため。
そして俺のため。
やっぱり、七穂のため。
二つの町で、俺は走り続けた。
だが、すべては無駄だった。
もはやこの世に存在しない『お屋敷』とやらを目指して、走りに走った結果、俺は走るのをやめた。
止めさせられた。
物理法則に逆らえるものなどない。
それを思い知るほどに、全身が痺れ、痛みすらない。
何も感じない。
『馬鹿みたいだ』
そう呟こうとしたが、聴こえたのは乱れた呼吸の音。
道端で仰向けになり、空を眺める。
星を探すが、見つからない。
空がうっすらと白んで、月明かりは滲むこともない。
夜明けが来た。
時間切れだ、と、なんとなく感じている。
道は濡れていて、けれど冷たくはない。
夏が近づいているからだろうか。
いや、濡れているのは俺の視界だ。
頬に触れると、水滴。
「七穂」
今度は、ちゃんと声に出せた。
彼女は今、どこにいる?
嫌な予感はもうなくなった。
代わりに、何かが終わってしまった気がした。
「ご主人さま」
こんなときも、その呼び名なんだな。
一瞬、眠りこけ。
その刹那に見た、夢とすら呼べない、幻影に、彼女は現れた。
「あの、今日の命令」
そっか。
そうだな。
どこにも行かないでくれ。
俺から離れないでくれ。
常時、半径5メートル以内にいてくれ。
そんな事命令しないから、せめてもう一度だけ顔を見せてくれ。
「はい、かしこまりました」
命令。
最後の、俺の命令は?
「しっかり飯くって寝て」
そうだ。
「明日も学校こいよ」
眼を開ける。
立ち上がり、歩を踏み出す。
大丈夫、まだ行ける。
公園があった。彼女から逃げ出した、いつかの俺がたどり着いたその場所を、通り過ぎる。今度は正反対に進む。
走れないなら早足で。
早足が無理なら、ゆっくりでもいい。
俺をこの恐怖から、焦燥から、呪いから解放してくれるなら、もう、それが何だって良かった。
「ご主人さま」
馬鹿にされるだろ、いい加減、その呼び名は。
いや。
馬鹿なんだ、俺は、俺の方が。
俺の方が、俺も、おかしいんだ、狂ってるんだ、何処かが。
彼女に負けないぐらい、狂気を抱いていたんだ。
顔を上げると、校舎が見える。
自由ヶ原高等学校の正門は、まだ閉ざされていた。
人の気配はない。
物音ひとつしない。
「七穂」
俺は叫んだ。
「加瀬」
叫んだ、つもりだった。
音がして、意識を向けると、それは。
俺自身がその場に、仰向けに倒れた、その音だった。
「ご主人さま」
悲しげな声。
眼を開けると、青空を背に、七穂が覗きこんでいた。
手を伸ばしている。
ゆっくりと腕を上げ、その手を取ると。
確かに、温度を感じた。
腕を引かれ、俺は体を起こそうとする。しかし力が抜け、落下をはじめる。地面に叩きつけられる、その前に、誰かが俺を抱き止めた。
「ごめんなさい、有慈くん」
「泣くなよ」
「本当に、ごめんなさい、ごめんね」
ああ、そうか。
俺の妄想だったんだ。
七穂は、死のうなんて考えてはいない。
だったら。
俺が、彼女を繋ぎ止めておく理由も、最早存在しない。
リンカーンだ。
解放宣言だ。
彼女に、自由を。
朦朧とする意識の中、しかし俺は、こう告げた。
「今日の命令」
七穂は顔を上げ、俺を見る。
丸い大きな瞳が、少しだけ、見開かれる。
「ずっと、ずっと」
彼女の頬を通る、濡れそぼった線が
歪む。暗く、冷たい、微笑み。
「俺の奴隷でいてくれ」
〈2章 了〉




