暁光と虚構
朝チュン状態だ。
眠ってしまった。
気付いたら、俺は彼女のすぐ隣で目を覚ます。横を向くと加瀬……七穂が寝息を立てていた。
窓の外、雲の影には朝焼けの紫がうっすら見える。
飛び起き。
ベッドから体を下ろそうとするが、彼女の体温の宿るその場所から、離れることが出来ない。
冷たく乾いた外の世界に飛び出せません。
もうひと眠り、ぐらい、良いよネ?
ピンポーン。
ブザー音が鳴った。
誰か来たぞ。
背筋に緊張が走る。
誰だ? 七穂の知り合いか?
見つかったらどうする?
いや、考え過ぎだ。居留守を使え、とりあえずやり過ごせ。
ガチャ。
カギを回す音がする。
玄関の錠が解かれたのだ。
間髪入れず、引き戸が勢いよく開く。
「居るか? 七穂」
しゃがれた男の声がする。老人のようだ。
ドカドカという、アンバランスな足音。
逃げ場がない。どう足掻いても見つかるしかない。
あはは、終わったな。
「七穂やーい、な……な……」
目が合った。シルバーグレイの、長い髪と、髭。西洋人のような高い鼻。
スーツ姿だった。
「あ、ご主人さま、おはようございます」
呼ばれて飛び起きた七穂さんは涎を拭い、薄目で俺を見ながら、こう続けた。
「ゆうべは、本当に、お疲れさまでした」
老人のまなざしが、驚愕から殺意へと、そのありさまを変え行く中。
七穂は寝ぼけた声で、彼の心に、そして俺の世間体に、とどめの一撃を加えた。
「とてもおいしくて、うれしかったです」
繰り返すが、まあ控えめに言って、終わったな。
老人はネクタイを直し、背広をかけ直し、眼鏡を直し、引きつった笑みで口を開いた。
「はじめまして」
俺は頭をさげ、はじめまして、と可能な限り明るい声を出し応じる。
「貴様……キミは七穂の、何なのかな」
はぁい! ボクがこの子を奴隷にした男でーす!
って言えるかよ爺。
いや、なんとか、胡麻化さなければ。
「あの、怒らないであげてください、おじいちゃん」
横から割って入る声があった。老人は七穂の祖父らしい。
「この人は、わたしのご主人さまの、辰巳有慈くんです」
そうそう、ご主人様だ。正直者には福が来るぞ。
来るといいナァ……。
「そして、わたしは彼の、奴隷になりました」
そうそう、現実を直視することも時には大事だ。
それが白髪の老人にとってどんなに受け入れがたい事実であっても、殺意を抱くような真実であっても、やっぱり大事だ。
だといいナァ……。
「殺してやる!」
声が響き、老人は俺の胸倉を掴み上げようとして、腰を痛め、その場に倒れた。
◆◇◆
茶が湯気を立てる中、老人は俺を睨み続け、ため息をつくと、今度は眉を吊り下げ、丸い目をした。
「そうか、あの子もそんな歳になったか」
「わかって頂けましたか!?」
俺は七穂の彼氏であり、俺たちは付き合っているのだ、という説明だけが、この場で最も説得力を持っていた。あんな場面を見られた以上、只の友達でしたというのはさすがに無理がある。奴隷とか主人というのは、つまりそういうプレイなのだと、ごっこ遊びなのだと、最近の若者の流行の最先端なのだと、多分これから流行るのだと、説明する過程は。それこそ一種の羞恥プレイに他ならなかった。
ごっこ遊び。
まあ、そんなものなのかもしれないな、と、ふと思う。
「認めんぞ」
「あ、そういうのドラマとかでよく見ますよね、やっぱりああいうシーンって感情移入とかします?」
俺の場違いジョーク攻撃のこうかはばつぐんで、面食らったように黙る老人。
そして、彼は静かに肩を揺らし、笑った。
「いや、認めんぞ、と言うだろうな、と思ってね」
何の話かは、すぐに思い当たった。
「ぼくが、もし七穂の父親だったらね」
父親。すでにこの世にはいない、七穂の。
知りたい。知っていいのだろうか?
聞きたい。聞くべきなのだろうか?
七穂は洗面所で顔を洗っている。
「教えて、いただけますか」