安寧と剥製
滑って転んで頭を打ったらそれでお陀仏になりそうな、冷たい洗い場の床タイルを踏み、銀色の浴槽へ体を沈める。体が温まってくる頃、ふと巨大な疑問が見つかる。その影が、脳裏をよぎった。
俺は一体何者だ?
なんでこんなところで風呂に入っている?
何のために?
リアリティ番組のドッキリ企画に騙され、テレビの前の視聴者にひそかに笑われ続けている、愚かなピエロなんじゃないか、俺は。
考えても仕方ない、と疑念を振り払って風呂を上がり、とりあえずワイシャツの下に来ていた黒のTシャツと、制服のズボンを履き、加瀬の姿を探す。見当たらないので仕方なく、廊下を進む。すぐに行き止まり、窓からは裏手の畑が見える。小さな家だった。振り返った廊下に、二つ向き合った襖がある。ひとつが、すっ、と開いた。
「お湯加減、いかがでした?」
眠たそうに眼をこする、寝間着姿の加瀬が、四つん這いで襖に手を伸ばしている。
「丁度良かったよ、ていうか、寝てた?」
「はい、なんだか疲れてしまって、すみません」
「じゃあ、もうこのまま寝ようぜ。俺は廊下でいいよ」
「そうはいきません、こっちへ、どうぞ」
そう言って襖を開けきった彼女の部屋に、恐る恐る入ると、まず目に飛び込んできたのは段ボールの山だった。ほとんど開けられていない。
そして、ベッドと、机、椅子。机の上には小物ひとつない。実に殺風景な部屋だ。
引っ越してきたばかり、なのだろうか。
俺はベッドへ腰かけた。
加瀬は俺に背を向けるように寝そべりながら、変な、毛玉のような塊をぎゅっと抱きしめている。
よく見るとそいつは狼だった。黄色い目や濡れた鼻が妙にリアルで、まるで剥製だった。
「敷布団、敷きますね、ベッドはご主人さまが」
と言いつつ、一向に起き上がる気配がない。
寝返りを打ったかと思えば、寝息を立て始める。
「なあ、ときに加瀬よ」
「ふあ、ふぁい? ……ぁんでしょうか」
「俺達って、何なんだろうな」
先ほど浮かんだ疑問を直接ぶつけてみた。
すると、体を支えていた俺の手の、その甲の上に、加瀬の掌が重なった。
体温を感じる。これじゃ、まるで。
恋人同士のようだ。
「不思議でおかしな、やさしいご主人さまと、頭のわるい、美少女奴隷です」
それが答えなのだろうか。なんていうか、ただの言葉、単語の羅列にしか聞こえない。
何も意味していないような気がするぞ。
っていうか、美人の自覚はあるんだな。
それにツッコみを入れず、いたって真剣に、俺は問う。
「それってつまり、どういう関係なんだ? 正直、俺にはよく分からない」
それを聞き、彼女は目を閉じたまま、ふふ、と笑い、至って穏やかに、ゆっくりと途切れ途切れに、言葉を漏らした。
「わたしにも、今は、よくわかりません」
俺の手を、確かに、握る力があった。俺は手のひらを返し、それを握り返す。
「別に恋人同士ってわけじゃないよな」
「はい」
「それは分かってるけどさ、七穂って呼んでいいか」
「はい」
即答だった。
それきり、俺たちは言葉を交わさなかった。しばらくすると、加瀬……七穂は、完全に眠りに落ちていた。
寝乱れた上の寝間着の裾からちらりとヘソが見えていたので、しばらく凝視したのち布団をかけ直し、その寝顔をぼうっと眺めていた。
ふとその脇を見ると、件の狼が、こちらを睨んでいた。
七穂との二人きりの時間を邪魔されて怒り狂っているのか、あるいは何か、彼女の重大な秘密を俺に伝えようとしているのか。
時折、月明かりに輝くその目は、恨みがましくも見え、また何かを懇願しているようにも見える、獣の眼だった。