刺繍と主従
「おはようございます、ご主人さま」
通学路のど真ん中。
校門と駅の丁度中間あたりで、俺は彼女に出迎えられた。
加瀬七穂。
彼女は俺の……奴隷……という事になっている。
条件つきで。
「ご主人さまはやめてくれ! みんな見てるだろうが」
「あ、す、すみません、つい」
なぜか、長らく忘れていた気がするが、俺にはれっきとした名前がある。
「おはよう、有慈くん」
「そうそう、それだ。普通が一番だ、おはよ」
辰巳有慈。
それが俺の名である。
ちなみに、名字でなく下の名で呼んでもらっているのは、俺のささやかなワガママによるところだ。
いいじゃねえか、それぐらい!
「試用期間は、こちらのお名前でお呼びする事になっていましたね」
命令したつもりはない。ただのお願いだ。だが今の俺達の間柄にあって、お願いとか、期待とか、それらは中途半端で曖昧な概念なのかもしれない。
ところで……
「試用期間?」
俺は首をかしげる。
「はい、あの……契約書、お読みいただいてます……よね?」
勿論読んでない。あのおぞましい怪文書はもう手を触れるのも勘弁願いたいところだが。
「つまりどういう事」
「仕方ありません、ご説明しますね」
彼女は少し早口で、ハキハキと滑舌よく、教科書を読むかの如く、自分の作ったルールを説明してくれた。
この契約には、一週間の試用期間が伴うらしい。
彼女が正しく務めを果たせるか否か、俺がそれを判断するために設けられている時間なのだという。
試用期間中、俺は一日に一回、必ず彼女に命令を下す義務があり。
同時に、俺が彼女に命令を下せるのは、一日に一度限りらしい。
その話を聴いた時、正直言って、俺は安堵を覚えた。
なぜなら。
「ふうん、じゃあ、今から、今日の命令を下すぞ」
「はい、ご主人さま」
ご覧の通り、正式な命令でない限り、俺の要望を無視したこの上なく恥ずかしい呼び方だって、彼女にはできる。俺の言葉に一切歯向かえないわけではないのだ。
俺がついうっかりポロっと、『パンツ見てえ』などと彼女を傷つけるような願望を口にしても、それが正式な命令でなければ、あるいは後から取り消せば、何の問題もないはずだ。
「走れ、全力疾走だ」
「は、はい!」
試用期間の説明を聞くうち、周囲から生徒の姿が消えていた。
このままとぼとぼ歩いていたら、どう考えても一時間目の授業には間に合わない。
俺はともかく、彼女には遅刻してほしくない。
半歩遅れた加瀬へ目をやる。
昨日とは、ほんの少しだけ、印象が異なっていた。
だが、あえて言及しなかった。
そのアクセサリーが意味するところに、触れるのを、躊躇してしまったからだ。
加瀬の細い首には、黒い紐が結んであった。
チョーカーという奴だ。
その原型は奴隷の首輪だという……説もある。
そして、加瀬の巻いてきたそいつには、白い文字の刺繍が施されている。
アルファベットに直された、他でもない、俺の名である。